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第三章
魔法の呪文
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中学校の裏を流れている川に掛かる橋の袂から入る裏路地。
「ジン!」
朔空君の叫び声と走る足音が聴こえる。
渾身の力で声のする方に向かうけれど、目がぐるぐる回る。幻聴? ではない。本物の朔空君だった。懐中電灯を握りしめた結月さんとお父さんも一緒だ。ぼくは助かった。
涙を見せない朔空君を二度も泣かせてしまった。
結月さんは「死んじゃだめ!」と、騒がしいほどに泣きじゃくっていた。
ぼくの酷い傷を見て、お父さんはすぐに病院に駆け込み、ぼくは三日間入院をした。
目を瞑ると人間のかたちのけだものが、気持ち悪く近づいてくる夢を見て、猫のくせに暗闇が怖くて暴れてしまうので、ドリトル先生に落ち着く注射を打たれた晩もあった。
酷い感染症を起こし、しばらく熱が続いたが、ぼくは少しずつ元気を取り戻した。
ノリもこんなだったのかな、と隣のノリが無事だった事を改めて良かったと思った。
入院中、朔空君達が顔を見せなかったのは、ドリトル先生から止められていたからだった。
家族の顔を見ると、帰りたくて興奮したり、置き去りにされるのかと落ち込んだりして、ぼくの精神衛生上好ましくないからだという。見くびってもらったら困る。ドリトル先生、ぼくはもっと冷静です。朔空君のおねえちゃんだから。
でも、傷の処置をして下さって、命を助けて下さって、ありがとうございます。
無事に家に帰ってきたぼくは、嫌というほど大事にされ、しばらくは留守番の間は家から出られないように、ぼく用の扉も封印された。
毎日飲む苦い薬。結月さんはすり潰して食事に混ぜるなどという小細工はしない。面倒くさがり屋の結月さんは、ぼくの口を両手でぱかっと開けて、
「サク、今だ!」と叫ぶ。
朔空君がかなり大きい錠剤をぼくの喉の奥に、ぽっと入れると同時に、結月さんはぼくの口を閉じさせたまま、喉を素早く摩る。知らぬ間にぼくは投薬を終えているというわけだ。
ひげと一緒に引きちぎられた皮膚も、徐々に盛り上がってはきたが、トラウマとともに傷は残るだろう。
「美人のジンの顔を傷つけた奴、呪ってやるわ!」
結月さんが怒りを露わにすると、
「ユウキ、はん人知ってるの?」
朔空君が首を傾げながら訊く。
「そ、それもそうね。でも、この傷は絶対人間が犯人よ」
結月さんは、憤りを隠さずに言った。
「それでもジンはもどってきたよ。それと、お父さんがけいさつに通ほうしたよ」
朔空君のこの感じ、霧人君やお父さんと似ていると思った。ぼくは幸せだった、誰よりも。
寒い冬も、柊家は家も心もぬくぬくと暖かかった。
再びベビーバスケットに石鹸くさい毛布を敷き詰めてもらい、そこをベッドにする事にした。霧人君からぼくへ、ぼくから朔空君へ、そして朔空君から再びぼくへ。石鹸の匂いとバスケットが、ぼくが柊家にやって来た頃を思い出させる。
ぼくは元気になってはいたが、釣竿蝶々を見てもジャンプする意欲がないし、ピアノの音が聴こえても階段を上る気分にならなかった。ふらつくのだ。だから食事は頑張ってもりもり食べているつもりだ。
冬休み、ひらがなだらけで埋め尽くされた、朔空君のある一日の絵日記の文字を、意味ある言葉に解読しようと、結月さんは頭を捻っていた。件の咲月さんの「百日草の奇跡」の歌詞を書いた朔空君の絵日記である。
「本当に咲月が傍で歌ったの?」
「うん、たぶん」
「ふうん、確かに咲月が作りそうな詩だわ、うふふ」
そこそこ解読は済んでいるようだ。
4
ぼくが再びドリトル先生に診てもらったのは、食事をしようとキッチンに向かった時、倒れたからだ。
酷い貧血を起こしていた。原因はウイルス性白血病。治る可能性はあるが、ぼくは恐怖へのストレスで免疫力が下がっていた。こんなに愛されているのに、ウイルスには勝てないのか。
それからというもの、朔空君は何をする時も片時も離れず、ぼくの背中を黙って摩り続け、ぼくは朔空君の手のひらから食事を摂り続けた。
春の百日草の種蒔きは、朔空君に抱かれながら、その作業を静かに眺めていた。代わりにノリが参加した。成長して味のりの黒も濃くなっていた。
「うひゃぁ、ジンの好きな蚯蚓!」
結月さんがシャベルで引っ掛けてぽいっとすると、すかさずノリが捕まえて蚯蚓をうねうねさせていた。いいぞ、ノリ。
ふわふわの真っ白な毛が日に日に艶を失っていく。背中を摩る朔空君の手には、ぼくのごつごつした背骨の感触が伝わる。いよいよ腹水の圧迫で呼吸困難に陥った。
お父さんの月給を、ぼくが独り占めしてしまうほど、毎日病院で腹水の処置をしてもらった。苦しいけれど、ぼくは生きたかった。ばちが当たるほど、こんなに愛されて、幸せで、ずっとここに居たかった。
三年生に進級した朔空君の元へ、新一年生の参考にしたいので絵日記を貸して欲しいと、一、二年時の担任が訪れた。結月さんは、
「必ず返却されるのなら」と、少し不安げに貸し出していた。
「あの絵日記には、家族の愛がみっちり詰まってるの。ジンは主役よ」
そう言って、ぼくの頭を優しく撫でた。
ぼくはすごく眠たかったけれど、結月さんのもふもふぐりぐりをリクエストしたいくらいうれしかったし、もう一度お父さんの温かい大きな手に、ゆったり包まれたいと思った。
そして誰よりも守りたい朔空君に、ぼくの方が守られ抱かれていた。朔空君は、霧人君と同じくらい石鹸くさかった。ぼくはいい気持ちになって、やがて、眠気の渦に吸い込まれ、白い光に閉じ込められた雲の中にいる夢を見ていた。
「ぼく、ジンの赤い目がすきだ。おなかのジニアもすき。全部すき。化けねこジンでいいから、ずっとそばにいてよ」
朔空君の声がぼんやり聴こえたけれど、ぼくは夢の奥の深い深い眠りに落ちた。
どれくらい眠っていたのだろう。
朔空君の微かな歌声で目が醒めた。
「……めぐるいのちにじゆうごねんのまほう」
咲き始めた百日草が風に揺れている。
おまじないのようなその歌は、生命力の強い、愛に溢れ命を繋ぐ花の歌。
ぼくは、粉雪のような真っ白な美しい姿になって、百日草と同じ土に、丁寧に撒かれた。いや、蒔かれた。
ぼくはその日から、百日草になった。
咲月さんの作った歌によると、約束の時を繋ぎ通せば奇跡が起こるらしい。
咲月さんの歌声が蘇る。
「命を繋ぐ百日草
想い変わらぬ愛ならば
奇跡を起こす百日草
君は知ってる?
巡る命に自由、五年の魔法」
朔空君の願う奇跡、朔空君の祈る自由を信じて、五年の魔法をとはいったい何なのか、いつか知る日が来るのだろう。
ぼくは変わらず、朔空君をずっとずっと見守り続けるだけだ。
「……めぐるいのちにじゅうごねんのまほう」
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