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最終章
朔空の正解
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涼やかな笹の葉の擦れる音を聴きながら、緩やかな坂道を朔空は上っていた。まだ通り慣れないこの道は、朔空の新しい住処に続く狭いバス通りである。敢えてバスに乗らないのは、歩く事で自分の思考を整理したり、ひらめきが突然やってくるからである。そして何よりも笹の葉音が気持ちいい季節でもあったのだ。
地元に戻る事も考えたが、まだ転職もしていなかったし、ひとりになった今、朔空は自由に大学院に戻る事も考えていた。それゆえのこの場所、大学で出来た街が一望出来る小高い場所にある新築アパートを選んだ。
お守りだった「百日草のジン」を失って、何もかもが突然変わる事を強いられた朔空は、無意識に「犬猫OK」の物件を探していた事に、朔空自身が驚いた。なぜなら、ジン以外の猫と同居するつもりはなかったからだ。
「ただいま」
ジンの花は居ない。けれど、床も壁も天井も、何もかもが真っ白で清潔そうなこの部屋は、風通しも良く、少しばかり明るい窓に寄ってくる虫が気になったが、朔空は気に入っていた。
心療内科通院の帰り、朔空は大学に立ち寄った。
博士課程二年目で頓挫して四年、懐かしい純粋数学のラボ、知ってる顔はあるだろうか……
「ご無沙汰しています、教授」
「柊君、元気だったかね、夜空の星でも見て素数でも恋しくなったかい」
「はい、とても」
教授から、大学院に戻る際のアドバイスを受けて、朔空は本気で復学を考えるようになった。勉強しなくては……
その気持ちが抑えられないまま、この高揚した気持ちを今すぐ誰かに言いたい。朔空は、生命理学のラボにアポなしで向かった。
「白尾君」
朔空の大友人の白尾生吹もまた、修士終了後一度は職についたものの一年で退社し、大学院に入り研究を続けていた。そして、馬が合いすぎて、結月とたまにビデオ通話を楽しんでいるという、稀有な友人でもあった。
「あの結婚式が白尾君とユウキの交流の縁になるなんて不思議だよ」
「全くだよ。結月さんみたいな面白い人は、この変人揃いのラボの中でも中々いないよ。柊君のあの結婚式のおかげだよ、わはは」
「やめてよ」
「久しぶりに、一緒に学食に行こう」
生吹はカツカレー、朔空は塩ラーメンと、
「あった、オクラのお浸し!」を取った。
「おれ、来年こそ博士号取ってまずは助教を目指す。このまま大学に残ろうと思ってるんだ」
「ぼくも、ぼくも大学に戻る準備を進めようと思ってるんだ!」
三十歳のふたりの青年は、まるで少年のように目を輝かせて、安価な学食で現実的な夢を語り合った。
「助教といえば、あの……野依助教は元気なのかな」
「あ、この間こっちに来てたよ、学生連れて。研究の引き継ぎとかなんとか。全然変わってなくて笑っちゃったよ」
「あ、会いたかったな、ははは。アリスは連れてたの?」
「アリス? ああ蜥蜴ね。こないだはさすがに肩に乗ってなかったけど、蜥蜴は長生きだから元気なんじゃないか」
「そうだね」
「そういえば、白猫の生まれ変わりの花は咲いてるか?」
「……ごめん、訊かないでくれ……捨てられた」
「……そうか」
少しの間、ふたりは無口になって、それぞれの食事を平らげた。
「白尾君、新居に遊びにきてよ。ひとりは気が楽なんだ」
「おう」
2
朔空は大学に戻る事を前提に、これからの生活設計を立てる事に決めた。結月のような体当たり、行き当たりばったりは朔空の性には合わなかった。
転職というより、今までのスキルを存分に活かしてフリーランスの土台を作り、生活を最低限でも安定させる事。大学院後期の受験のための論文を用意する事。やる事は山ほどある。心療内科など通っている暇はない。
筋状の雲が収束線のように一点に集まっているターコイズの大空を見上げて、大きく深呼吸すると、
「よしっ!」と、腹に力を入れた。
住み慣れてくると、駅までの坂の上り下りだけではなく、少しずつ反対側の閑静な住宅街を散策する余裕も出てきた。
ある休日の朝、「自転車でもあったら便利だな」などと考えながら、冷たく澄んだ冬の空気に呼吸を任せて、足の赴くままに歩いてみる。
ブロック塀に箱座りしている猫に人差し指を近づけてみたり、その猫の縦横が黄金比になっているかもしれないと、メジャーで測っていたら逃げられてしまったり、朔空も自分で気づかないだけで、じゅうぶん結月と似ているところもあった。
しばらく行くと、静かに人々が出てくる細い路地を見つけた。路地の奥に教会があった。
「こんな近くに教会があったのか」
昔、眠る前に咲月や結月が読んでくれた絵本に教会が出てきた事を思い出した。
教会とはいつも全ての人のために開かれていて、そこに居るだけで心を安らかにする場所なんだと、そんな話だった。
朔空は、おそるおそるゆっくりと教会に足を踏み入れた。礼拝の仕方なんてわからない。ただ、跪いて、ジンや咲月や霧人の事を思い、しばらく会っていないお父さんと結月の事を思い、会ったことはないけれどみんなが大切にしている祖母、月乃の事も思った。ぼんぼりの事も忘れていなかった。
しばらく礼拝堂に座っていると、神父さまが声をかけてきた。
「いつでもいらっしゃい。神はあなたに平安と慈しみを与えます」
そう言って、祈りの前に、聖水で十字を切る事を教えてくれた。
信者ではなくても受け入れてくれる優しい場所。朔空は時々教会に訪れるようになった。
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