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最終章
朔空の正解
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新しい住まいは快適で、物が増える事もなく減ることもなく、朔空は淡々と暮らした。
今も傍にジンの存在を感じて、心に思った事を静かに白い部屋に、見えない星のように散りばめていくのだった。
朔空は少しずつだがフリーランスの働き方にも慣れ、何もかも自分で処理していかなくてはならないのは非常に面倒ではあったが、自分のやり方で自由に時間を操る楽しみを得た。
アパートの住人はほとんどが勤め人なのだろう、日中は静かなものであった。時々、階上からドタドタと部屋を勢いよく移動する音が聴こえてくるのは、きっと猫か犬が走り回っているのだろう。
「あの走る音は犬ではない、猫だな。うむ」
などと、ひとり納得しながら朔空は請け負った仕事を熟していた。
「一度、実家に顔出さなくちゃな。お父さんはすっかり回復して元気だからと、結月に任せっきりだもんな。庭の百日草、またジンが戻っていたらうれしいんだけど……ぼくも千弦の言う通り、乙女なのかもしれないな」
パソコンから目を離し、疲れた目で窓から空を見上げると、猫型の雲が二匹戯れている。
「ジンだ。一緒にいるのはノリかな……違うな、あれはキイだ」
朔空は、なぜキイだと思ったのか根拠はない。ただ、その時、キイは空に昇ったのではないかとなぜか直感したのだった。
「千弦は大丈夫かな、可愛がっていたからな」
千弦と別れて二年余り経っていた。
あの時、最後に言われた一言が、今でも抜けない棘のように、朔空の次の恋愛へのトラウマになっていた。
「たまたま私の目の前にいたのが朔空君だったの。私の理想を叶えてくれるなら、別に朔空君じゃなくても良かったの」
「きついよな、まあ今となっては君に幸あれと思うだけだ」
朔空は大きく伸びをして、気晴らしに散歩に出かける事にした。歩調に合わせて、懐かしい詩のフレーズが朔空の頭の中で繰り返される。
足の向くままやってきたのは、二ヶ月振りの教会だった。祈るわけでもなく願うわけでもなく、ただ跪いて思った。思える限りの事を思った。
朔空はもうすぐ三十二歳を迎える。生まれてからこれまでのいろいろな事、覚えている限りのあらゆる事を随分と長い時間思って跪いていた。
どのくらい居たのだろう。外に出ると、バーミリオンの空に尖塔の十字架が黒いシルエットになっている。残った陽の光がそのシルエットに金色の縁取りを作って、チリチリと輝いている。
教会の掲示板に「保護猫譲渡会」のチラシが貼られている事に気づいた朔空がじろじろ見ていると、教会裏の自宅から顔を出した神父が、
「興味があったらいらっしゃい」
と、誘ってくれた。
朔空は今もって、ジン以外の猫と同居するつもりはないのだけれど、訳ありの猫達が一生愛してくれる家族、また愛せる家族と出会うための場所に立ち会ってみたいと思った。
ちょうど譲渡会の日だった。
先日、結月が送ってきた誕生日プレゼントの試験管型万華鏡を陽の光に透かしながら、「論文の添削を教授にそろそろ頼まないとな」と、ぼんやり考えていた。
「そうだ、譲渡会にちょっと顔出してみようかな」
保護された猫達のそれぞれが背負った人生。一所懸命に生きているし生きようとしている猫達に、朔空の心はぎうと締め付けられ、喉の奥が熱く感じた。
その時、
「ニイ」
という声が聴こえた。
回りを見回したが、仔猫は見当たらない。空耳ではない、確かに聴いた。
「あ、あの、今仔猫の声が聴こえた気がしたんですけど」
朔空は後先考えずに、そばにいるスタッフに声を掛けてしまった。
「うふふ、よく聴こえましたね。どうぞ、一ヶ月前に保護猫のママから生まれたばかりで、まだ譲渡の準備が出来てないのですよ」
案内されて奥に行くと、本当に生まれて間もない小さな白い仔猫が三匹、寄り添ってバスケットの中で、むにむに動いていた。
朔空は思わず、その小さすぎる仔猫達に人差し指を近づけると、その中の真っ白なひとりが鼻を近づけて指を咥えたのだ。
もう朔空の感情は止まらなくなっていた。なぜか涙もぼろぼろ止まらなくなって、
「ジンだろ」
と呟いた。
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