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最終章
奇跡の始まり
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縁とは不思議なもので、ひと仕事終えて、背もたれがひっくり返るほどの伸びをした後、ジンを連れて近くの公園まで自転車を走らせていた時、ばったりと琴音と出会った。彼女も自転車だった。籠にはいろいろな種類の猫用離乳食と普通の猫缶を入れたエコバッグが無造作に入っていた。
「え、偶然。わたし、この道は普段通らないのよ。いつも行くお店が改装で臨時休業だから、この近くのお店まで足を伸ばしたの」
「びっくりした、ぼくも滅多にこの道は通らないから」
偶然の出会いにお互い驚きながら、琴音は朔空の背負っているキャリーリュックを興味深げにちらちら見ている。
こんなシチュエーション、ずっとずっと昔あったような……
朔空は自販機で缶コーヒーを二本買って、ふたりは小さな公園のベンチに並んで座った。
朔空がキャリーリュックのファスナーを開けると、奥の方にジンが小さく丸まっていた。
「ジンちゃん、わたしの事憶えてるかな」
ジンが、おそるおそるキャリーから顔を出し、外の様子を伺いながら、琴音の顔を見て「ニィ」と鳴いた。
「憶えていてくれたみたい、ありがとう」
琴音はジンを優しく撫でて、
「うちにはあなたの兄弟がいるのよ。いつでも会えるわ」
と言った。
「え?」
朔空は、今の言葉を聴き逃がしはしなかったが、それについて訊く事はしなかった。
ふたりの共通点といえば、同じ中学でほんの数ヶ月、合唱コンクールのために部活動を共にした事と、偶然朔空の家の前で会って、庭の百日草を前に話をしただけだった。あれから十八年、少しも接点がなかったのに、話が尽きないのが不思議だった。
ふたりはそれぞれの過去の出来事よりも、これから生きていく未来について話をしていた。
「わたしね、あの時の柊君のお母さんの詩が、わたしのその後の人生に勇気を与えてくれたんだと思っているの。本当よ」
朔空は自分を褒められたわけではないが、なんとなく照れ隠しに空を指差して、
「すごいよ、羊雲が」と言うと、
「ニィ」と空を見上げてジンが鳴くものだから、
「ジンちゃんが、あれは羊じゃなくて鰯雲だって言ってるわ」
と、琴音が笑って言った。
「うふふ」
朔空は、遠い過去にも感じた誰かに似ているこの笑い方に思いを巡らせた。
「鰯雲か……雨が降るのかな」
「そろそろ戻りましょうね。そうそう。鰯っていえば、この缶詰あげるわ」
琴音はエコバッグの中から、猫缶を数種類取り出して朔空に渡した。
「この中の鰯味が中々美味しいのよ。うちの子達も好きだから、ジンちゃん気に入るわ」
「あ、ありがとうございます……でも美味しいって、琴音先輩、猫缶食べたんですか」
「あら、味は確認するわよ、結構美味しいのよ。うふふ」
「先輩、実は猫なんじゃないですか」
「うん、それもいいわね、ニャオーン。わたしが猫になったら、柊君可愛がってくれる?」
「もちろんですよ、あ、いや……」
「うふふ、雨が降るといけない。今度わたしも、ジーニャとジーノを連れて来るわ」
4
なんとなく始まった、朔空と琴音とジニア三兄弟のお散歩デート。それは、まるで決められていたかのように、自然にシンプルに当たり前のように始まり続けられた。
その日は黄色く色付いた銀杏並木に誘われる広い公園に、コンビニで調達したほくほくの焼き芋とホットコーヒー持参でやって来た。土曜日だから、幼い子供連れ家族やいろいろな年齢層のカップル、犬の散歩やランニング、さまざまな人々で賑わっていた。
銀杏の木だらけの公園は、遊歩道以外、一面黄色いグラデーションに覆われている。
朔空と琴音は、人通りの少ない公園の外れのベンチに腰を下ろし、それぞれ仔猫をキャリーバスケットから出した。
散歩に慣れてきている仔猫達は、それでも一度は警戒する事を怠らず、ゆっくりと姿勢を低くして地面に降り立つのだった。
「仕草だけはみんな一人前ね」
琴音がくすくす笑う。
ペールイエローの銀杏の落葉はしっとりと柔らかくて、他の落葉のようにさくさく音がしない。その優しい感触を楽しんで、ジーニャとジーノがもにもにと音もなく取っ組み合っている。その隣でジンがおとなしく横座りして銀杏の葉に埋もれ一体になっている。静かで柔らかいタッチの絵画の中に収まるように、その部分だけが切り取られた不思議な空間に感じた。
熱々の焼き芋をほくほく半分に割って、
「お転婆ジンが気取ってるぞ、わはは。絵のモデルにでもなったつもりか」
朔空が琴音に焼き芋を渡す。
「なんかわかる気がしないでもないわ。ジンは花だった時間がとても長かったんでしょ。ジンはもちろんジンだけど、花要素が含まれて再び生まれてきてもおかしくないわ」
「そうか……花の時間が長いからおとなしくなってるかもって……んなわけないですよ、うちじゃ暴れ回ってるんだから、わはは。弾丸ジンですよ、琴音先輩」
琴音はにっこり笑って、
「もう先輩はやめようよ」
「いや、ぼくはその方が呼びやすいので、これからもそう呼ぶと思う」
「いいわよ、臨時部員の柊君」
ふたりがくすくす笑い合っていると、ジーノが銀杏の木で爪を研ぎ始めた。釣られるようにジンもジーニャも真似をし出して、三人無言で後ろ足で立ち上がり、カッカッと爪を研いでいる、猫にあるまじき協調性を見せる小さな姿が面白すぎて、
「大木に無駄な戦いを挑む小さな三勇者達か、わはは」
ジーノが先頭を切って三十センチくらい登った所で、大木にしがみついて動けなくなっている。
ふたりはくすくすどころか大笑いした。
「へばりついて、いったいなんの勇者なの?」
琴音は腹を押さえて涙を流して笑っている。
その屈託のない様子が、ものすごく自然でシンプルで調和の取れた和音のような素敵な女性に思えた時、朔空は銀杏の木に爪を立てているジンと目が合った。ジンの左目がうっすら赤みを帯びた。
理由などないが、それがジンのゴーサインに思えた瞬間、
「……琴音先輩が結婚してなければ良かったのに」
朔空は心の奥に潜んでいた声を、口に出していた。
笑い転げていた琴音は、黒目がちの目を「え?」と見開くと、
「言ってなかった? わたしは独りよ、五年前からだけど」
「え?」
朔空も三白眼の大きな目をきょとんと開いて、
「だって、結婚してこっちに来てって……」
「馬鹿ね。夫がいたら、たとえ仔猫達の散歩だとしても柊君とデート出来るわけないじゃない、うふふ」
夕焼け空の代わりに、朔空の顔がみるみる赤く染まった。ジンの左目もいつになく赤味の濃い琥珀色に輝いて、仔猫のくせにふたりを見守っていた。咲月の詩を思い出しながら。
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