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2章
新しい命 2
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「もう少しよ……! 頑張って……」
「ナラ……! 頑張って! あなたの弟もついてるからね」
「もうちょっとだ、踏ん張れっ! ナラ!!」
「頑張れ……、頑張れっ! ナラ。俺がちゃんとついてるからなっ!! 頑張れっ……」
息をのんで見守るアグリアたちの眼前で、ナラが苦しげに鼻息を吐き出した。
次の瞬間、子牛の体がずるりと干し草の上に落ちた。
「……!」
子牛の体からは、ものすごい蒸気が立ち昇っていた。
子牛は首をゆるゆるともたげながら、何かを探すように身じろぎする。けれどまだ立ち上がる素振りは見えない。
「手を貸してあげちゃだめなの……? あの膜みたいなの、取らないと息ができないんじゃ……?」
心配そうにルンルミアージュが問いかけるけれど、マルクが首を横に振った。
「あれは母牛がやってやらなきゃだめなんだ。それに自力で立ち上がれなきゃ、この先生きてはいけない……。そういうもんなんだ……」
「そんな……」
命の誕生は、死と隣り合わせだ。無事に母の胎から生まれ落ちることができても、自力で立つことができなければ結局は腸が動かなくて死んでしまう。
はじめて命の厳しさを目の当たりにしたルンルミアージュは、不安そうにナラと生まれたばかりの子牛を見つめていた。
「……」
「……」
「……」
「……」
マルクもシオンも、ルンルミアージュもモンバルトも、そして自分も息をのんで祈るような気持ちでその時を待った。
そしてついに――。
「……!」
ナラが鼻先で子牛を励ますように小突く。
すると子牛がぷるぷると震える足で、どうにか立ち上がろうと動いた。
息をのんで見つめる先で、いよいよその時はやってきた。
子牛が自分の力でよろよろと、けれどしっかりと地面を踏みしめるように立ち上がったのだった。
「やった……!! ついにやったわ……」
皆の口から安堵の吐息がこぼれ落ちた。
それを知ってか知らずか、子牛は母のぬくもりを探して近づいていく。ナラもまた愛おしそうに命の第一歩を踏み出した子牛に、鼻先を寄せたのだった。
「ふぅ……。やれやれ……」
後産も無事終え、目の前には子牛に乳を与えるナラの姿がある。
その神々しいまでの美しい姿に、皆声もなく目を奪われていた。
「よく頑張ったわね、ナラ。あなたは立派なお母さんだわ。マルクもお疲れ様。本当によかったわね」
マルクはほっと気が抜けたように、けれど満面の笑みを浮かべ房の前でへたり込んでいた。
「あぁ……。ほんと、一時はどうなることかと……。さすがは俺の妹だな! さっそく名前を考えてやらないと」
するとルンルミアージュが顔を輝かせた。
「私も一緒に名前、考えてもいい? マルク!」
「もちろん! ルンルミアージュもナラと子牛のために頑張ってくれたもんな。……ごめんな。服、汚れちゃって」
マルクの顔が困ったようにルンルミアージュの洋服へと向いた。
言われてみれば、せっかくのかわいらしいワンピースが土と干し草でひどい有り様だった。
けれどルンルミアージュはまったく意に介していない様子で、からりと笑った。
「いいの! こんなお洋服よりもずっと、ナラと子牛の方が大事だもの! 私、ナラの出産に立ち会えてよかったわ。本当に……」
一瞬ルンルミアージュの顔が陰った気がして、首を傾げた。
「……実はね、王都を飛び出してきたのにはもうひとつ理由があるの。シオンに会いたかったのも本当だけど、……実はお母様のお腹に赤ちゃんがいるんですって」
「え?」
「なんだって?」
「へぇ! じゃあルンルミアージュ、お前お姉ちゃんになるんだなっ」
皆驚きの声を上げた。けれどルンルミアージュの顔はどこか晴れない。
「喜ぶべきことだって……頭ではわかってるの。でもなんだか……お母様がお腹の赤ちゃんに取られちゃう気がして、なんだか寂しくて、不安で……。それでつい屋敷をひとりで飛び出してきちゃったの……」
「ルンルミアージュ……」
「なるほど……。そういうことだったのか……」
シオンと思わずうなずき合った。
おかしいとは思ったのだ。いくらシオンがなかなか王都に帰ってこないからといって、ひとりで書き置きひとつ残して見知らぬ土地にくるなんてよほどのことだ。
まさかその理由が、下の子ができたせいだったとは――。
「私……、知らなかった。子どもを産むって、こんなに大変なことなんだって。命が産まれるって、こんなにすごいことなんだって知らなかったの。なのに私、お母様におめでとうの一言も言わずに飛び出してきちゃって……」
ルンルミアージュの目の縁に、みるみる涙が盛り上がった。
ルンルミアージュは、きっと不安だったのだ。母親を取られる気がして。もしかしたら赤ちゃんに愛情を奪われて、寂しい思いをすることになるんじゃないかって。
(そっか……。だから髪を結っている時に、あんなこと……)
今朝髪を結ってあげた時に、ルンルミアージュがぽつりとつぶやいたのだ。
『最近はずっとお母様は横になっていることが多くて、ちっとも髪を結ってくれないの……。きっともう私のことなんてどうだっていいのかも……』と。
でもどうやらそんな寂しさは、ルンルミアージュが自力で克服したらしい。
「でも今日ナラの出産を見て、決心したの。ちゃんと王都に戻って、おめでとうとごめんなさいを言わなくちゃって! だって私、これからお姉ちゃんになるんだもの! しっかりしなくちゃねっ」
ルンルミアージュは、にっこりと明るい顔で笑った。そこにはもう何の陰りも不安も寂しさもにじんではいなかった。
「ふふっ! そうね。おめでとう。ルンルミアージュ。あなたならきっと素敵なお姉さんになるわ。楽しみね!」
「うんっ! ありがとう、アグリア。私、ここにきてよかったわ。とっても!」
どうやらナラの出産は、新しい命と希望を運んできたらしい。
皆体はくたくたに疲れ切っていたけれど、心はどこか晴れやかで清々しい気持ちで帰途に着いたのだった。
「ナラ……! 頑張って! あなたの弟もついてるからね」
「もうちょっとだ、踏ん張れっ! ナラ!!」
「頑張れ……、頑張れっ! ナラ。俺がちゃんとついてるからなっ!! 頑張れっ……」
息をのんで見守るアグリアたちの眼前で、ナラが苦しげに鼻息を吐き出した。
次の瞬間、子牛の体がずるりと干し草の上に落ちた。
「……!」
子牛の体からは、ものすごい蒸気が立ち昇っていた。
子牛は首をゆるゆるともたげながら、何かを探すように身じろぎする。けれどまだ立ち上がる素振りは見えない。
「手を貸してあげちゃだめなの……? あの膜みたいなの、取らないと息ができないんじゃ……?」
心配そうにルンルミアージュが問いかけるけれど、マルクが首を横に振った。
「あれは母牛がやってやらなきゃだめなんだ。それに自力で立ち上がれなきゃ、この先生きてはいけない……。そういうもんなんだ……」
「そんな……」
命の誕生は、死と隣り合わせだ。無事に母の胎から生まれ落ちることができても、自力で立つことができなければ結局は腸が動かなくて死んでしまう。
はじめて命の厳しさを目の当たりにしたルンルミアージュは、不安そうにナラと生まれたばかりの子牛を見つめていた。
「……」
「……」
「……」
「……」
マルクもシオンも、ルンルミアージュもモンバルトも、そして自分も息をのんで祈るような気持ちでその時を待った。
そしてついに――。
「……!」
ナラが鼻先で子牛を励ますように小突く。
すると子牛がぷるぷると震える足で、どうにか立ち上がろうと動いた。
息をのんで見つめる先で、いよいよその時はやってきた。
子牛が自分の力でよろよろと、けれどしっかりと地面を踏みしめるように立ち上がったのだった。
「やった……!! ついにやったわ……」
皆の口から安堵の吐息がこぼれ落ちた。
それを知ってか知らずか、子牛は母のぬくもりを探して近づいていく。ナラもまた愛おしそうに命の第一歩を踏み出した子牛に、鼻先を寄せたのだった。
「ふぅ……。やれやれ……」
後産も無事終え、目の前には子牛に乳を与えるナラの姿がある。
その神々しいまでの美しい姿に、皆声もなく目を奪われていた。
「よく頑張ったわね、ナラ。あなたは立派なお母さんだわ。マルクもお疲れ様。本当によかったわね」
マルクはほっと気が抜けたように、けれど満面の笑みを浮かべ房の前でへたり込んでいた。
「あぁ……。ほんと、一時はどうなることかと……。さすがは俺の妹だな! さっそく名前を考えてやらないと」
するとルンルミアージュが顔を輝かせた。
「私も一緒に名前、考えてもいい? マルク!」
「もちろん! ルンルミアージュもナラと子牛のために頑張ってくれたもんな。……ごめんな。服、汚れちゃって」
マルクの顔が困ったようにルンルミアージュの洋服へと向いた。
言われてみれば、せっかくのかわいらしいワンピースが土と干し草でひどい有り様だった。
けれどルンルミアージュはまったく意に介していない様子で、からりと笑った。
「いいの! こんなお洋服よりもずっと、ナラと子牛の方が大事だもの! 私、ナラの出産に立ち会えてよかったわ。本当に……」
一瞬ルンルミアージュの顔が陰った気がして、首を傾げた。
「……実はね、王都を飛び出してきたのにはもうひとつ理由があるの。シオンに会いたかったのも本当だけど、……実はお母様のお腹に赤ちゃんがいるんですって」
「え?」
「なんだって?」
「へぇ! じゃあルンルミアージュ、お前お姉ちゃんになるんだなっ」
皆驚きの声を上げた。けれどルンルミアージュの顔はどこか晴れない。
「喜ぶべきことだって……頭ではわかってるの。でもなんだか……お母様がお腹の赤ちゃんに取られちゃう気がして、なんだか寂しくて、不安で……。それでつい屋敷をひとりで飛び出してきちゃったの……」
「ルンルミアージュ……」
「なるほど……。そういうことだったのか……」
シオンと思わずうなずき合った。
おかしいとは思ったのだ。いくらシオンがなかなか王都に帰ってこないからといって、ひとりで書き置きひとつ残して見知らぬ土地にくるなんてよほどのことだ。
まさかその理由が、下の子ができたせいだったとは――。
「私……、知らなかった。子どもを産むって、こんなに大変なことなんだって。命が産まれるって、こんなにすごいことなんだって知らなかったの。なのに私、お母様におめでとうの一言も言わずに飛び出してきちゃって……」
ルンルミアージュの目の縁に、みるみる涙が盛り上がった。
ルンルミアージュは、きっと不安だったのだ。母親を取られる気がして。もしかしたら赤ちゃんに愛情を奪われて、寂しい思いをすることになるんじゃないかって。
(そっか……。だから髪を結っている時に、あんなこと……)
今朝髪を結ってあげた時に、ルンルミアージュがぽつりとつぶやいたのだ。
『最近はずっとお母様は横になっていることが多くて、ちっとも髪を結ってくれないの……。きっともう私のことなんてどうだっていいのかも……』と。
でもどうやらそんな寂しさは、ルンルミアージュが自力で克服したらしい。
「でも今日ナラの出産を見て、決心したの。ちゃんと王都に戻って、おめでとうとごめんなさいを言わなくちゃって! だって私、これからお姉ちゃんになるんだもの! しっかりしなくちゃねっ」
ルンルミアージュは、にっこりと明るい顔で笑った。そこにはもう何の陰りも不安も寂しさもにじんではいなかった。
「ふふっ! そうね。おめでとう。ルンルミアージュ。あなたならきっと素敵なお姉さんになるわ。楽しみね!」
「うんっ! ありがとう、アグリア。私、ここにきてよかったわ。とっても!」
どうやらナラの出産は、新しい命と希望を運んできたらしい。
皆体はくたくたに疲れ切っていたけれど、心はどこか晴れやかで清々しい気持ちで帰途に着いたのだった。
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