はじめまして、旦那様。離婚はいつになさいます?

あゆみノワ@書籍『完全別居の契約婚〜』

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3章

奇妙な距離 4

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 すっかり皆そろっての食事が日常になった。
 父とシオン、そして自分。そこにモンバルトが加わることもしょっちゅうだ。 

「ぶわっはっはっはっはっ! シオン、お前すっかり酒に弱くなったんじゃないか?」

 酒など一滴も入っていないような顔をして、モンバルトがシオンのグラスにトクトクと酒を注いだ。

「……そっちこそ少しは節度をわきまえたらどうだ。主治医とは言え、一応人の屋敷なんだ。少しは遠慮というものをだな……」

 シオンが、げんなりとした顔でモンバルトをたしなめた。けれどもはやモンバルトにとってこの屋敷は、勝手知ったる自分の別宅、みたいなものである。

「かっかっかっかっ! まぁそう固いことを言うな。酒の席でも真面目なんぞ、犬も食わんぞ。わかったらさぁ、のめ! 若造」
「……」

 とは言え、シオンもそれなりの量をすでに飲んでいる。大丈夫だろうか、と心配になる。
 けれどまぁ、父の腰もようやく完治したことだし、少しは目をつぶってあげてもいいだろう。

 それを感じ取ってか、お酒が解禁になったばかりの父がおいしそうに酒を飲みながらシオンに声をかけた。

「若いんだから、たまには羽目を外して飲んだくれたっていいんだぞ? もう私の心配なんてする必要はないからな! 好きに過ごしていいんだよ。シオン」
「は、はい……」

 父はもとから陽気な質ではあるけれど、シオンがきてからより一層明るくなった気がする。

(やっぱり義理とは言え息子がいるって、嬉しいものなのかしら……? それとも形だけとは言え、娘が結婚したことに安堵したとか?)

 おつまみになるような料理を手早く補充しながら、男衆に声をかけた。

「もう……! ふたりともあまり飲み過ぎないでよ? あとで介抱するの大変なんだからっ。シオンも無理に付き合うことないからね」

 そう声をかければ、シオンのやわらかい笑みが降ってきた。
 そこに漂う甘さに、思わずぐっと言葉をのみ込んだ。

(ぐっ……! またシオンから妙な色気がっ……。本当心臓に悪い……)

 むずがゆい感情が全身をかけ巡りクラリとしたのをごまかそうと、慌てて空の瓶を手に取った。

 テーブルの上にはすでに空になった瓶が二本、転がっていた。
 酒好きの父とモンバルトが遅くまで飲んだくれるのは、もう慣れっこだ。とは言え父は病み上がりだし、モンバルトだって明日朝早くに往診がある。

 となれば、そろそろお開きにしていい頃合いだ。

「ほらほら! 明日もあるんだし、もうお酒はそろそろおしまいよ。お父様も解禁になったからって、飲み過ぎは心臓に毒!」
「まぁそう言うな! アグリア。はっはっはっはっ!」

 父がすこぶる嬉しそうに笑う。
 
「ほら! アグリア、お前もまだ飲み足りないだろう! グラスを寄越せ、注いでやる!」
「ちょっと! モンバルト先生!? もう十分だったらっ。もうっ……!」

 ぎゃあぎゃあと言い合いをする隣で、シオンが穏やかな顔でグラスを傾ける。

 その光景に、思わずふわりと微笑んだ。
 シオンのお屋敷で見た家族の光景とは少し――、いや、大分変わってはいるけれど、これだって幸せな家族の形、みたいなものかもしれない。

 ふとそんなことを思った。


「……はい。熱いから気をつけて」

 シオンが手渡してくれた淹れたてのお茶から、ふわりと華やかな香りが漂ってくる。
 ふたりの間に漂うその香りに、しばし黙り込んだ。

 結局酒瓶を四本飲み切ったところで、ようやく酒の席はお開きになった。
 
 リリリリッ……。
 ジジッ……! リリリリ……。

 さわさわと夜風に葉が擦れ合う音に交じって、虫の鳴き声が静かな庭に響く。
 お酒で熱くなった頬をなでていく涼しい風が、気持ちいい。

「……今夜も、いい月。今くらいの季節が一番好き。気候もちょうどよくて、星もきれいに見えて……」
「あぁ。そうだな……」

 シオンとふたり残され、酔い覚ましに庭へ出た。なんだかこのまま部屋に上がるのがもったいない気がして。

「なぁ、アグリア」
「ん? なぁに?」 
「君は……」

 空を見上げていたシオンの視線が、すっと自分に向いた。
 そのまっすぐな眼差しに、鼓動が跳ねる。

「……いや、なんでもない。そろそろ部屋に上がろうか。少し冷えてきた」
「そうね」

 本当はもう少し一緒に月を見ていたかったけれど、これ以上一緒にいたらきっと何かが変わってしまう。何か言い知れぬ衝動に突き動かされて、思いもよらぬことをしてしまいそうだった。

(きっとお酒のせいね。こんなに飲んだの、久しぶりだし……)

 いつも通りの平静さを装い、自室の前にたどり着いた。そしてくるりとシオンを振り返り、笑みを浮かべた。

「じゃあ、おやすみなさい。シオン。もし明日二日酔いで辛いようなら、寝坊してもかまわないわよ。ふふっ」

 あえてからかうようにそう告げれば、シオンが小さく笑った。

「このくらい、飲んだうちに入らない。軍にいた時に、モンバルトに散々付き合わされて鍛えられたからな」
「ふふっ。モンバルト先生ったら、昔から変わらないわね」

 くすくすと笑い合い、部屋の扉の前で向かい合う。
 形だけの夫婦にしては、少し近すぎる距離感で。

「……じゃあ」
「あぁ……」

 互いにおやすみの挨拶を口にした。けれどシオンは立ち去ろうとはしなかった。そして自分も。

 お腹の底からわき上がる何か熱いものを持て余し、ふと顔を上げればシオンが熱い目で見下ろしていた。

「……シオン」

 気がつけばシオンの名前を呼んでいた。何かを言いかけたわけでも言いたいことがあったわけでもないのに。
 じっとこちらを見つめてくるシオンの目の奥で、何かがゆらりとゆらめいた。
 
「……アグリア」

 シオンの大きながっちりとした手がこちらに伸びてくるのを、ただじっと見つめていた。手がそっと頬に触れ、そして離れていく。
 思わず追いかけるように、その手をつかんでいた。

 離れようとした手が、もう一度頬に触れた。そのあたたかさに体がじんとする。頬に触れたまま動かない手に、自分の手をそっと重ね目を閉じた。
 
 自分が今何をしているのか、どうしたいのかもわからない。けれど何か強いものに突き動かされるように、ただ衝動に身を任せたくなった。

 吸い寄せられるように、顔が近づく。息遣いを感じられるほど近づいた体に、緊張と同時に喜びがかけ巡った。
 互いの指で互いの顔にそっと触れ、見つめ合った。

 シオンの指先が、すっと唇の上に届く。

「……っ」

 じっと息をつめていた口から、思わず吐息がこぼれ落ちた。
 その瞬間、シオンのもう一方のたくましい腕が自分の体をそっとかき抱いた。

 首筋にシオンの吐息を感じる。その感覚にクラリと今にも気を失いそうになりながらも、甘やかなひと時に酔いしれた。

 このままずっと触れ合っていたい。自然に体と心の奥底からわき上がったそんな思いに突き動かされ、必死にシオンにすがりついた。
 それに応えるようにシオンの腕にも力がこもり、そしてぱっと勢いよく離れた。
 
「……」
「……」

 互いにぱっと体を離せば、一気に体と心の熱が冷めていった。そしてぎこちない沈黙が落ちた。

「本当に……すまない。今のは……忘れてくれ。どうかしていた……」
「あ……うん。私も……。ごめんなさい……」

 互いに謝罪しながら、わざと明るい声でおやすみの挨拶を交わす。

「……お、おやすみ」
「お、おやすみなさい!」

 たった今流れていたはずのふたりの間にあった熱と甘やかな空気は、いつの間にかどこかへと離散してしまっていた。

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