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3章
届いた手紙 6
しおりを挟むその夜、シオンを誘い庭に出た。領地最後の夜にせめて一緒にお酒でもと声をかけたら、さすがに断るわけにはいかなかったのだろう。
シオンはためらいながらもうなずいてくれた。
リリリリリッ……。
リーン、リーンッ……。
虫の声と季節が進んだことを感じさせる少しひんやりとした風を感じながら、ふたり並んで自家製のお酒をちびちびと飲み庭を眺めた。
「そういえば、最初にシオンがここにきた日にも庭で座ったわね。ふふっ。なんだかずっと前のことみたい……」
ふいにその時のまだ固い表情のシオンがやけに懐かしく思えて、笑みがこぼれた。
「あぁ、そうだな。随分もうここに長くいる気がするよ。……不思議なものだな」
泣きたくなるくらいに、静かで穏やかな時間だった。まさか明日にはここにシオンがいないなんて、信じられないくらいに。
「……ねぇ、シオン? 私と結婚したこと、後悔してる? 私とこんな形で出会ったこと……」
その問いかけに、シオンははっとしたように顔を上げた。
「……後悔なんてしていない。が俺にとっては人生でかけがえのない大切な時間だったように思う。まさか今さらこんな時間を過ごせるなんて、思っていなかったくらいにね……」
心からの思いがにじみ出た言葉に、ほっとした。ほんの一時でもここでの時間がシオンに平穏をもたらしてくれたのなら、こんなに嬉しいことはない。
「ならよかった……。私も後悔していない。シオンと一緒にいてとても楽しかった……。王都でも、ここでも……あなたに会えて本当によかったと思ってる。結婚したのがあなたでよかった。シオン」
心からの思いを込めてシオンを見やれば、シオンも泣きそうな顔で見つめ返してきた。
「でも、もう明日にはお別れなのね……。ね、養子縁組を急ぐにしてももし決まったらあなたの署名が必要でしょう? ならその連絡は、どうすればいい? 王都のお屋敷に手紙をかけばいい?」
あえて明るくたずねてみれば、シオンはしばし考え込み告げた。
「……いや、家族には君との離婚についても当分何も知らせずにおくつもりだ。君からの連絡は、タリオンを通じて連絡がつくようにしておく」
「……わかったわ。ならいざという時は、タリオンに手紙を書くわね」
そう言ったきり、ふたりで黙ってしばらく庭を眺めた。最後のひと時を惜しむように。
そしてそれぞれの部屋へと向かい、自室の前で足を止めた。
「じゃあ……おやすみ。シオン」
「あぁ、おやすみ……。アグリア」
これが最後のおやすみの挨拶だ。もうこんな時間は二度とやってこない。
精一杯の笑顔を浮かべたつもりが、思わず涙がじわりとにじんで慌ててうつむいた。
「……」
「……」
おやすみの挨拶を済ませたのに、なぜかシオンはその場から動かなかった。
早く立ち去ってほしいような、このまま離れたくない気持ちの間で揺れていた。シオンとの穏やかな時間が終わってしまうことが、たまらなく寂しかった。
恋をしたのだ。人生できっとたった一度の、本当の恋を。
あんなに愛する人なんていらない、そんな人と出会えたところで別れがつらくなるだけだと思っていたのに、シオンに恋をしてしまった。はじめから成就なんてするはずのない、一方通行の恋なのに。
「……じ、じゃあ……」
もうこれ以上は涙をこらえきれない、と慌てて扉を開け自室に入ろうとしたその時だった。
「……アグリア」
シオンの手が、目の前に伸びた。
「……!」
次の瞬間にはシオンの両腕に抱きとめられていた。
熱すぎるくらいの体温と、耳にかかる何かを必死にこらえるようなシオンの息遣いに息が止まる。驚きと嬉しさで、目尻にたまっていた涙がぽろりとこぼれ落ちた。
「シオン……」
そっと顔を上げすがるようにシオンを見上げれば、シオンの目には見たことのない顔をした自分が映り込んでいた。
「アグリア……」
シオンの指がそっと頬をなでていく。優しく宝物を扱うようにそっと、何度も繰り返し繰り返し。伝わる熱が幸せ過ぎてそっと目を閉じれば、やわらかな感触が目の上に降ってきた。
キスをされているのだと気づいて、思わずふるり、と瞼が震えた。
シオンの唇が、降るように瞼や頬に振ってくる。そこから新たな熱が生まれるようで、体が溶けそうだった。
(シオン……、シオン……。離れたくない……。ずっとこうしていたい。このままずっと、シオンと一緒に……)
そんな願いを心の中で何度も繰り返しながら、シオンからのキスを浴び続けた。
真夜中の廊下でふたり抱き合いながら、何度もキスをした。唇には決して触れないそのキスは、泣きそうに甘くて優しかった。
しばらく言葉もなく抱き合ったあと、シオンがそっと身を起こし離れた。ふたりの間にあった熱が一気に冷めていくのを感じて、きゅっと唇を噛み締めた。
「……おやすみ、アグリア」
そう言うとシオンは、最後に頭の上にそっとキスをしてそのまま自分の部屋へ入っていった。
扉が閉まったのを見た瞬間、そのまま床にぺたりと座り込んだ。同時にずっとこらえたままだった涙がぽろぽろとこぼれ出した。
「う……、うぅっ……。ひっく……、ふっ……、うぅ……」
涙はつぎから次へと頬をすべり落ち、いつまでも止まってはくれなかった。それを流れるままにして、ぼんやりと朝を迎えたのだった。
翌朝、シオンは領地を出て行った。
「じゃあ、さよなら……。アグリア。どうか幸せに……」
「……あなたも。シオン……。さよなら……」
たったそれだけ言葉を交わして――。
シオンの背中が見えなくなったと同時に、父に告げた。
「お父様、私……王都に行きます」
「そうか……」
父はもう、娘の思いなどとっくに見透かしていたのだろう。驚いた様子もなく、静かにうなずいた。
「王都で、シオン君にかけられている嫌疑を晴らしたいんだろう? だがどうやって?」
当然と言えば当然の問いかけに、しばし考え込んだ。正直何をすればクロイツからシオンを守ることができるのかなんて、まだ何も考えてられていない。
でも――。
「とりあえず、モンバルト先生の知り合いの料理屋のおかみさんが厨房を手伝ってくれる人を探してるっていうから、そこでしばらくお世話になることにしたわ。料理なら得意だし」
その店は、シオンが呼び出される予定の軍本部のすぐ近くにあった。
もし運が良ければシオンの動向もわかるかもしれないし、厨房の手伝いなら店先に立つ必要もない。ばったりシオンの義家族と顔を合わせるおそれもないだろう。
「まず王都に着いたら、その足でタリオンさんのところに行こうと思うの。シオンには内緒で、手紙のことを聞いてみようかと」
タリオンだってシオンの身を案じてあんな手紙を寄越したのだ。シオンのためだと言えば、きっと力を貸してくれるに違いない。
「そうか。お前らしいな。まったく……」
「え?」
父の少し呆れたような困ったような顔に、首を傾げた。
「お前は昔からそうだな。一度こうと決めたら、どこまでも突き進むんだ。そういうところは、母親似だな」
「お母様の……?」
父がおかしそうに笑いながらうなずいた。
「おかしなところが似るものだな、まったく……。止めたってお前は聞かんだろう。気が済むまでやってみるといい。ただしくれぐれも危険なことだけはしないように」
「わかってる! お父様を悲しませるようなことはしないわよ。私にはこの領地の未来を守るっていう、大事な役目があるんだもの」
安心させるように笑って見せれば、父は肩をすくめた。
「あ、でもモンバルト先生もあとで合流してくれるって言ってたわ。頼りになる知り合いがいるから、その人に頼めば軍の中の様子やクロイツの動きも多少はわかるかもって」
なんでも王都に、過去にいつか必ず恩を返すと約束してくれた人がいるらしい。それなりに力のある人物らしく、その人の力添えがあればシオンに何事かが起こってもどうにかできるかもしれないと言っていた、
「そうか。モンバルトがそう言うのなら、ひとまず安心か……。ま、領地のことは私に任せておきなさい。何があっても私が守ってみせるから、お前は好きなように動いてみるといい。……シオン君を守りたいんだろう?」
父の顔には、優しい笑みが浮かんでいた。
「……うん。このままシオンともう二度と会うことはなくても、できるだけのことはしたいの。このまま終わるのは絶対に嫌だから……」
「そうか……」
そう言うと父は嬉しそうに笑って、くしゃり、と頭をなでたのだった。
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