お姫さんと呼ばないで

秋月朔夕

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 華族の娘として生まれたからにはお家のために結婚しなさい。
  それがわたしと話す時の父の口癖だった。




 (ああ。緊張して仕方ないわ)
  ガタゴトと揺れる馬車の中、わたしは緊張のあまり今日初めて来た桃色の着物を強く握りしめるあまりに皺にしてしまう。けれども仕方ないのだ。幼い頃身体が弱かったせいで、生まれてから十六年ほとんど自分の屋敷から出たことがなかったのだから、どんな所でこれから生活が始まるのかと思うと少し恐ろしさがある。
 (……ううん。大丈夫よ)
  わたしが今向かっているのは幼馴染の宮野和真様のお屋敷。小さいころに何度かウチでお会いしただけだったけれど、とてもお優しい方だったことを覚えている。だから大丈夫。外国から帰ってきたばかりだというし、お土産話をたくさん聞こう。そう考えていたら馬車が止まった。
 「奥様ようこそおいでになりました。わたくしはこの屋敷の執事佐田と申します。どうぞ佐田と呼び捨てて下さいませ」
  玄関先に佐田と名乗った洋装の若い男と着物を来た数人の下女が丁寧に礼をしながらわたしを待っていた。
 「……佐田お出迎えありがとうございます。ここはすごく大きな洋館なのですね」
 「ええ。奥様をお迎えさせて頂くにあたって旦那様が改築したのですが気に入って頂けましたか」
 「とても素敵だと思います」
 「それは良かった。きっと旦那様も喜びます」
  にこやかな会話になんとか上手くやっていけそうだと胸を撫で下ろす。少しだけ緊張がほぐれ、洋館の中に入ると尚更珍しいものが溢れて辺りを何度も見渡してしまう。その様子に彼は微笑ましそうにしながらさりがなく館の説明をしてくれる。
 「そういえば、ここは外国の絵画や骨董品が多いのですね。やはり和真様が持ってきたものですか?」
  何年か外国に暮らしていたから気に入ったものを飾っているのだろうか、と思って聞くと佐田は部屋の扉の前で歩みを止めた。
 「……あの奥様。和真様とは一体どちら様のことですか?」
  怪訝そうな様子にわたしは首を横にして尋ねる。
 「え? 宮野和真様のことにございますけど」
  わたしが答えると彼の狼狽は一層濃くなった。先ほどのはきはきした態度はなく、どう説明するか戸惑っているようだ。
 「……佐田?」
  言いあぐねている彼に催促するよう呼びかけると、彼は覚悟を持って口を開きかけた――その時だった。



 「遅い」

  突然扉が開き、低い男の声が割って入ってきた。振り向けばわたしよりも頭二つ分高い背丈が立っていた。鋭角な顎に薄い唇に高い鼻梁。男らしい格好良さとはこのことか。丹精な顔立ちに思わず見惚れてしまい、頬が紅潮したのが恥ずかしくて俯いてしまう
(いけないわ。わたしには和真様がいらっしゃるのに他の殿方に見惚れるなんてはしたない)
  そう自分を叱責するが、胸の高鳴りは止まらなかった。今まで感じたことのない感情にわたしは困惑して、男を見ることが出来なかった。
 「……随分嫌われたものだな」
  先ほどよりもさらに低くなった声がよく聞き取れない程にわたしは動揺した。
 「あっ、あの!」
  どうしよう。反射的に口を開いたけど、なんて声を掛ければいいのか分からない。けれど素直に貴方に見惚れましたなんてことはもちろん口に出せるわけがなくて、ただ沈黙だけがこの場を支配してしまう。
 「なんだ」
  それでも男はわたしの答えを待つようでなお催促する。ぐるぐると頭の中が混乱したためにこの時わたしは非常に不躾な質問をしてしまうことになったのだ。
 「貴方はどちら様なのですか?」
 「…………は? 何を言っている。佐田これはどういうことだ」
  たっぷりと間のあいた後に厳しい声で佐田に説明を求める。あまりの剣の鋭さに思わず肩を跳ね上げるが、佐田は慣れているようで動じない。だが彼も頭を押さえて主人にどう告げるか考えているようだ。そして男性がもう一度佐田の名前を呼ぶと観念したように溜息を吐き出す。
 「……旦那様。大変申し上げにくいのですが、どうやら奥様は当家ではなく宮野家に嫁いだと認識されているようで」
 「なんだと!」
  男性は佐田の言葉にひどく激昂し、ダンッと扉を思い切り叩き飛ばした。人がこんなにも怒っているさまを見るのは初めてで思わず一歩下がった所を、彼は見逃さなかった。
 「今から説明してやるからこの部屋に来い。佐田はしばらくこの部屋に人を寄せるなっ!」
  来い、と言った時点で既に腕は彼に引っ張られていて、無理矢理彼に引き寄せられる形になっている。こんな状態で男性と二人きりになるのが恐ろしくて佐田を見ても彼は恭しく礼をするのみだった。



 「……残念だったな。佐田は俺の命令を一番に聞く」
  荒々しく鍵を掛け、わたしを寝台に突き飛ばして彼は地獄の底から這いあがったかのような低い声でわたしに言い聞かす。助けはこないのだと。
 「あ、の……」
  ゆっくりと彼はわたしにのしかかってくる。それはもうわたしが逃げることができないと分かっているからこその余裕だろう。異性との近すぎる距離は慣れないためか心臓が早鐘のように打っている。
 「ああ。自己紹介がまだで申し訳ないな。俺は青柳誠一郎……お前の旦那は今日から俺だ」
  顎を固定され半ば無理矢理重なり合った視線は絶対の意思を持つ瞳とかち合う。
 「どう、いうことでしょう。わたしの夫となる方は宮野様と聞いておりましたが」
 「その縁談は一年前にお前の家の財務危機によって破談になっている」
 「財務危機?」
 「……本当に何も聞かされていなかったんだな。お前の父には商才がないせいでどうにもならないほどの膨大な借金があるんだ。お前の『元婚約者様』はその借金に気付いてとっくにお前を捨てているし、他の華族達は醜聞を嫌ってお前たちなんか相手にしていない。だから平民である俺の所にお鉢が廻ってきたのさ」
 「そんな……」
  自分の家なのにそんなこと一切知らなかった。だが娘のわたしにわざわざ教えることを矜持の高い父はしたくなかったのだろう。そのために伏せられていたとしたらつじつまが合う。
 「事実だ。俺としてもお前との結婚で子爵家と縁戚になることができる。商売していく上ではお前ら華族と渡り合うので重要な武器になるんだ――勘違いするな。お前の価値はそれだけのもの。別に俺個人がお前のようなお姫さん(おひいさん)を望んだわけではない」
  おひいさん。そう彼はわたしを嘲笑して部屋から出て行った。広い部屋に残されたわたしはなにがなんだか分からないまま茫然とその場に立っていたのだった。







 (やらかした)
  執務室に入るなり俺は項垂れた。きっと彼女の中では俺の印象は最悪となっているだろう。脳裏に過ぎるのは寝台の上で怯えていた彼女の姿と触れた感触。押し倒した時、彼女はおこぼれそうな程大きな瞳を見開いて困惑を露わにした。俺はそれに気付きながらも少しでも彼女に触れたくてあえて無視してしまったのだ。少し動かせば口付け出来そうな距離はひどく俺の理性を溶かしそうになる。花のような甘い匂いも、薄ら紅潮した頬も小さく開いた唇も全て俺を誘っているようで試しているのかと思った。
 (本当に危なかった)
  潤んだ瞳を見てしまったせいで尚更俺の感情が暴発しようとした。けれどもそれをしなかったのはこれ以上彼女に怯えられたくなかったからだ。
 「はぁ……」
  大きい溜息を吐きだすと足元から猫の鳴き声が聞こえた。二年前から飼っている白い雄猫は何故か俺が落ち込んでいる時に傍にいることが多い。ただし撫でてやろうとすると引っ掻いてこようとするので注意が必要だ。
 (やはり本来の飼い主にしか懐かないのかもしれないな)
 本来の飼い主を想い浮かべ、深い溜息を吐く。それ聞く者は誰もいなかった。

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