お姫さんと呼ばないで

秋月朔夕

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 あれから十日が過ぎたけれど、一向に彼はわたしに会いに来ようとうはしなかった――むろん初夜もなく、屋敷には日に日に使用人達が憐みの目でわたしを見ているように感じるのは被害妄想に取りつかれたせいだろうか。
 (会いに来てくれないのはわたしは飾り物の妻だから、よね))
  名目上妻であるが所詮は政略結婚だ。もしかしたら彼が好いている女性はいるのかもしれない。だってあんなに格好良いお方なのだから女性が放って置くはずがない。その中にはわたしなんかよりも大人で美人な人も居るだろう。そう考えると何故だか胸が苦しかった。
 (どうしてかしら……?)
  一目見たときから彼のことを想うだけで胸が締め付けられる。この気持ちがなんなのかわたしには分からないでいる。




 「奥様、旦那様からこちらに着替えて欲しいとの要望なのですがよろしいでしょうか?」
  その日の午後、書庫で過ごしていたわたしを訪ねてきたのは佐田だった。
 「もちろん構いません。ですが急に一体どうしたのでしょうか」
  佐田が持ってきたのは華族の令嬢達の間で流行りになっているフリルがふんだんに付いている純白のワンピースと頭がすっぽりと覆う大きな帽子であった。
 「今宵、旦那様が奥様と共に舞踏会に参ろうと提案されたのです」
 「まぁ! けれどわたし舞踏会なんて行ったことがないのだけど、大丈夫かしら」
  提案は嬉しい。だけど未熟なわたしのせいで夫に恥をかかせてしまっては申し訳ない。揺れる気持ちを見越してか佐田はわたしを安心させるようにこりと笑う。
 「確かに奥様のような可憐な方が横に居ては周囲の嫉妬で旦那様が大変でございましょう」
  あまりにも真面目に言うので思わず笑ってしまう。
 「笑いごとではございませんよ。それにこのお召し物は旦那様自ら選んでおりました」
 「……本当ですか?」
  彼がわたしの着る物を選ぶ姿が想像つかない。
 「ええ。貿易商である旦那様が選んだ物は確かなものですから絶対に奥様にお似合いになりますよ」
 「ありがとう、佐田。おかげで少し自信が持てました。ではすぐに着替えて参ります」
 「はい。ではお着替えが済みましたら旦那様が執務室でお待ちしておりますのでどうぞお行き下さいませ」
  そうなればいい、と浮足立つわたしを後ろから佐田は微笑ましげに口を綻ばせていたことをわたしは知らなかった。



  着替えは下女がすぐに手伝ってくれた。テキパキと変わるさまは見ていて気持ちが良い。
 (そういえばワンピースを着るのは和真様と初めて会った時以来だわ)
  確か十歳の時だったから――あれからもう六年も来ていなかった。だから鏡に映った自分がなんだか見慣れなくて不思議な気分になる。仕上がったわたしを下女は大変お似合いです、と言ってくれたけどあの方の眼にはどのように映るだろう。
 (嘘でも似合うと言ってくれたら良い)
  不安を胸に隠して彼の執務室の扉を開けた。



 「来たか」
 「はい」
  彼はわたしを一瞥してそのまま商談用のソファに座るように促す。初めて入った彼の執務室は西洋風の大きな机と商談用のソファとガラスの机。絵画や調度品などは一切なくあくまで実用性を重視したようだ。
 (……どうして何も言わないのかしら)
  部屋に入ってから結構経ったと思うのに彼は机に積み上げられた書類に目を通したままだ。彼の反応が気になってチラチラと見るが、彼がわたしに視線を移すことはない。
 (もしかしたらわたし出て行った方が良いのかな)
  仕事の邪魔をしてしまってはいけないのだと腰を上げた時だった。
 「お前にやるものがある」
  そう言って彼が机の引き出しから取りだしたのは真珠が幾重にも連なった美しい首飾りだった。
 「ありがとうございます。とても綺麗ですね」
 「気に入ったか?」
 「はい。大変嬉しく思っております」
 「……着けてやる」
  背後から彼の体温を感じた。彼との距離の近さに胸の鼓動が早くなるが、あっという間に首飾りは着けられてしまい残念だという気持ちが生まれる。
 (こんなにも女性の装飾品を着けることが早いのはきっと他の女性にも贈ったことがあるんだわ)
  ズキリと胸が痛むのを押し隠し、振り返ってお礼を言うと彼は一瞬止まったかのように見えた――その瞬間だった。突然彼がわたしの唇を奪ったのだ。
 「……っ……」
  呼吸さえ奪うような獰猛な口付け何が何だか分からなくて、ただ息のできない苦しさにわたしは彼の胸を押して抵抗した。
 「嫌か?」
  真っ直ぐにわたしを見る彼と先程の行為がすごく恥ずかしくて俯く。
 「その……初めて、だったから」
  驚いてしまった、と言おうとしてがもう彼はわたしのことが興味なかったかのようにまた机に戻ってしまい、また書類に目を向けている。そして結局彼はわたしに視線を戻すことなく馬車で舞踏会に向かうのだった。 
 
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