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八
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とうとう彼の誕生日がやってきた。あれから悩んで結局決めたのは三日前のことだった。
(喜ぶかしら……?)
選んだのは藍色のネクタイ。どうせなら普段身につけられる物が良いと思って楓に使いを頼んでおいたのだ。気付かれないように引出の奥にしまっているが、秘密ごとがあるという事実だけで妙に緊張してしまう。
(いけない。こんな調子では、今日はもたないわ。少し落ち着かなければ……!)
自分自身を叱咤し、平静を取り戻すためにお茶を一口飲む。その時、部屋の扉が叩かれる。
「は、はい」
突然のことに驚いてしまい、声が上擦ってしまったことが気恥ずかしくて、咳をして誤魔化す――けれど、入ってきた男性があまりに意外だったため、思わず立ち上がった。
「旦那様っ!!」
まだ昼を過ぎたばかりだというのに、彼がやって来るなんて初めてだ。一体どうしたのだろうかとまじまじと彼を見つめた。
「俺が訪ねるのはそんなにも意外なことか?」
さらに、意外なことは彼がわたしに口を開いたことだ。
「――そうですね。このようなことはあまりなかったので」
動揺を隠すように頷けば、彼は面白味のない返事だとばかりに鼻を鳴らした。
「別に来たくて来たんじゃない」
攻撃的な物言いがわたしを傷付けていることを彼は考えてもいないだろう。どうしてこんなに無礼な態度ばかり取られているのに、怒りよりも悲しみがあるのか。
「では、なにか用がおありで?」
自分の感情を表に出したくなくて、つっけんどんな物言いのまま俯く。そのため彼の表情は分からないし、気付く余裕もない。あるのはちっぽけな矜持だけだ。
(……行為の後はいつも優しくわたしの身体を清めるくせに)
何故、わたしが意識のある時はこうも無愛想なのか。見苦しく罵ってしまいそうなのを堪えて、ぎゅっと下唇を噛んで彼の返事を待つ。
「――お前を今夜の舞踏会に誘いに来た」
「え?」
苦々しく言い切る彼は、本当はわたしなんか誘いたくなかったと訴えているようだ。
「仕方ないだろう。お前は俺の妻なんだから」
重い溜息が頭上に降るとわたしの顔が歪みかけ、慌てて表情を出さないよう努める。
「分かりました。それでは衣装を楓に用意してもらいますので、失礼します」
これ以上傷付きたくなくて、彼の横を通りすぎようとした時だ。突然、彼がわたしの腕を掴んで引き留めたのだ。
「な、にを――」
今度こそ動揺は隠せなかった。ぎりぎりと力任せに腕を掴まれているせいで、脂汗が背中を伝う。
「先に言っておくが、お前の元婚約者殿は今夜来ないからな」
低い声でわたしを威嚇しているが、正直何故そんな話になるのか分からない。けれど、わたしの言動の何かが彼の琴線に触れたのだろう。痛みから逃れようと腕を振り回したが、暴力的な力は強まるばかりだ。
「っ、分か、ってるか、ら……離してぇっ」
恥も外聞もなく叫ぶと、ようやく望みは叶う。
「……分かっているならいい」
ぶっきらぼうに呟き、引き留める暇もないままま彼は足早に去っていく。残されたわたしは座ることもせず、楓が衣装を持ってやってくるまで呆然と立ち続けた。
結局、わたし達は会場に着くまでろくな会話もない。唯一言われたのはお前を探すのは面倒だから俺の眼の届く所にいろ、と告げられたことだけだ。新調した着物も丁寧にされた化粧の世辞もなく、お互い目線の一つも合わせない。それは会場の中でも同じで前回のように彼は女性に囲まれて、わたしは所在なさげに会場の端に居る。妻という名目で舞踏会に誘われたというのにあんまりな態度じゃないか。内心の憤りを感じながらも、彼から離れないように言われた今回は移動する彼を確認して合わせてさりげなく自分も半端な距離を保つことにした。
(他の女性には愛想が良いのね)
自分には見せない笑顔で女性に応える彼を見ると何故か胃が締め付けられるようにキリキリと痛む。そもそもどうしてわたしは彼のことを気にしているのか。彼にとって自分は家名を手に入れるだけの女でしかない。そして毎晩わたしを抱くのはただ跡継ぎが欲しいだけなのだろう。
(きっと子供が出来たらわたしは必要なくなる)
そう思えるくらいわたし達の関係は冷え切っている。いまさら贈り物をしたくらいでは修復なんて出来るのか。胸に抱える不安がドロドロと蜷局を巻く。
(なんでこんなに嫌な気持ちになってしまうのよ……)
彼はわたしのことなんかちっとも気にしてはない。わたしだけが彼を気にしている。そもそも気になるというのはどういう意味での感情か。彼と一緒に居ると怖いし妙に緊張する――けれど、わたしが寝ている時だけ見せる優しさが忘れられないし、彼の白檀と煙草の混じった苦くて切ない香りが妙に頭から離れられない。未だ名前の付けられない感情に振り回される自分が愚かしい。自嘲が鼻を擽った時、会場からひと際大きな歓声が聞こえた。橘侯爵が来た、と皆が振り返るように視線を辿るとそこに現れたのは紅い着物が良く似合うあでやかな美女がゆっくりと会場に進んでいくのが見える。
(……溜息をつきたくなるくらい綺麗な方)
着物の上からでも分かる肉欲的な体躯にほっそりとした白いうなじ。瞳は涼やかでいて、泣きホクロが婀娜っぽい雰囲気を出させている。蠱惑的な唇は艶やかに紅く弧を描き、周囲に注目されることを楽しむように目的の人物の元へ進まれる。
――そしてその目的の人物も彼女がやってくるのを待っていたかのように、ゆったりとした笑みを見せる。
(どうして旦那様の元へ……?)
いつの間にか彼を取り巻く女性は誰も居ない。わたしが横に居た時におかまいなしに群がる彼女達も侯爵夫人が相手だと敵わないようだと判断したのだろう。それは暗にわたしでは勝てると思われていることを指していたのだ。
(どうしてわたしはこんな所にいるの)
二人は親密な雰囲気で会話を楽しんでいる。それだけで一枚の絵画のようにさまになる。しかし、やがて不作法に凝視するわたしに気付いた彼女と目線がかち合うと、彼女は高らかに嗤った。こんな小娘なんか眼中にないといった感じですぐに彼に何かを囁き、彼はそれに反応して顔を赤らめる。それはもう彼女に気持ちがあるのだと周囲に言っているようなのだ。
(もうこれ以上見たくないわ……)
プチン、と自分の中にあった糸が音を立てて切れるとわたしはいてもたっても居られなくなり、よろよろと惨めな敗北者そのものになって会場を後にする。
――馬車に揺られている間、わたしは一人笑って、そして……泣いた。
(喜ぶかしら……?)
選んだのは藍色のネクタイ。どうせなら普段身につけられる物が良いと思って楓に使いを頼んでおいたのだ。気付かれないように引出の奥にしまっているが、秘密ごとがあるという事実だけで妙に緊張してしまう。
(いけない。こんな調子では、今日はもたないわ。少し落ち着かなければ……!)
自分自身を叱咤し、平静を取り戻すためにお茶を一口飲む。その時、部屋の扉が叩かれる。
「は、はい」
突然のことに驚いてしまい、声が上擦ってしまったことが気恥ずかしくて、咳をして誤魔化す――けれど、入ってきた男性があまりに意外だったため、思わず立ち上がった。
「旦那様っ!!」
まだ昼を過ぎたばかりだというのに、彼がやって来るなんて初めてだ。一体どうしたのだろうかとまじまじと彼を見つめた。
「俺が訪ねるのはそんなにも意外なことか?」
さらに、意外なことは彼がわたしに口を開いたことだ。
「――そうですね。このようなことはあまりなかったので」
動揺を隠すように頷けば、彼は面白味のない返事だとばかりに鼻を鳴らした。
「別に来たくて来たんじゃない」
攻撃的な物言いがわたしを傷付けていることを彼は考えてもいないだろう。どうしてこんなに無礼な態度ばかり取られているのに、怒りよりも悲しみがあるのか。
「では、なにか用がおありで?」
自分の感情を表に出したくなくて、つっけんどんな物言いのまま俯く。そのため彼の表情は分からないし、気付く余裕もない。あるのはちっぽけな矜持だけだ。
(……行為の後はいつも優しくわたしの身体を清めるくせに)
何故、わたしが意識のある時はこうも無愛想なのか。見苦しく罵ってしまいそうなのを堪えて、ぎゅっと下唇を噛んで彼の返事を待つ。
「――お前を今夜の舞踏会に誘いに来た」
「え?」
苦々しく言い切る彼は、本当はわたしなんか誘いたくなかったと訴えているようだ。
「仕方ないだろう。お前は俺の妻なんだから」
重い溜息が頭上に降るとわたしの顔が歪みかけ、慌てて表情を出さないよう努める。
「分かりました。それでは衣装を楓に用意してもらいますので、失礼します」
これ以上傷付きたくなくて、彼の横を通りすぎようとした時だ。突然、彼がわたしの腕を掴んで引き留めたのだ。
「な、にを――」
今度こそ動揺は隠せなかった。ぎりぎりと力任せに腕を掴まれているせいで、脂汗が背中を伝う。
「先に言っておくが、お前の元婚約者殿は今夜来ないからな」
低い声でわたしを威嚇しているが、正直何故そんな話になるのか分からない。けれど、わたしの言動の何かが彼の琴線に触れたのだろう。痛みから逃れようと腕を振り回したが、暴力的な力は強まるばかりだ。
「っ、分か、ってるか、ら……離してぇっ」
恥も外聞もなく叫ぶと、ようやく望みは叶う。
「……分かっているならいい」
ぶっきらぼうに呟き、引き留める暇もないままま彼は足早に去っていく。残されたわたしは座ることもせず、楓が衣装を持ってやってくるまで呆然と立ち続けた。
結局、わたし達は会場に着くまでろくな会話もない。唯一言われたのはお前を探すのは面倒だから俺の眼の届く所にいろ、と告げられたことだけだ。新調した着物も丁寧にされた化粧の世辞もなく、お互い目線の一つも合わせない。それは会場の中でも同じで前回のように彼は女性に囲まれて、わたしは所在なさげに会場の端に居る。妻という名目で舞踏会に誘われたというのにあんまりな態度じゃないか。内心の憤りを感じながらも、彼から離れないように言われた今回は移動する彼を確認して合わせてさりげなく自分も半端な距離を保つことにした。
(他の女性には愛想が良いのね)
自分には見せない笑顔で女性に応える彼を見ると何故か胃が締め付けられるようにキリキリと痛む。そもそもどうしてわたしは彼のことを気にしているのか。彼にとって自分は家名を手に入れるだけの女でしかない。そして毎晩わたしを抱くのはただ跡継ぎが欲しいだけなのだろう。
(きっと子供が出来たらわたしは必要なくなる)
そう思えるくらいわたし達の関係は冷え切っている。いまさら贈り物をしたくらいでは修復なんて出来るのか。胸に抱える不安がドロドロと蜷局を巻く。
(なんでこんなに嫌な気持ちになってしまうのよ……)
彼はわたしのことなんかちっとも気にしてはない。わたしだけが彼を気にしている。そもそも気になるというのはどういう意味での感情か。彼と一緒に居ると怖いし妙に緊張する――けれど、わたしが寝ている時だけ見せる優しさが忘れられないし、彼の白檀と煙草の混じった苦くて切ない香りが妙に頭から離れられない。未だ名前の付けられない感情に振り回される自分が愚かしい。自嘲が鼻を擽った時、会場からひと際大きな歓声が聞こえた。橘侯爵が来た、と皆が振り返るように視線を辿るとそこに現れたのは紅い着物が良く似合うあでやかな美女がゆっくりと会場に進んでいくのが見える。
(……溜息をつきたくなるくらい綺麗な方)
着物の上からでも分かる肉欲的な体躯にほっそりとした白いうなじ。瞳は涼やかでいて、泣きホクロが婀娜っぽい雰囲気を出させている。蠱惑的な唇は艶やかに紅く弧を描き、周囲に注目されることを楽しむように目的の人物の元へ進まれる。
――そしてその目的の人物も彼女がやってくるのを待っていたかのように、ゆったりとした笑みを見せる。
(どうして旦那様の元へ……?)
いつの間にか彼を取り巻く女性は誰も居ない。わたしが横に居た時におかまいなしに群がる彼女達も侯爵夫人が相手だと敵わないようだと判断したのだろう。それは暗にわたしでは勝てると思われていることを指していたのだ。
(どうしてわたしはこんな所にいるの)
二人は親密な雰囲気で会話を楽しんでいる。それだけで一枚の絵画のようにさまになる。しかし、やがて不作法に凝視するわたしに気付いた彼女と目線がかち合うと、彼女は高らかに嗤った。こんな小娘なんか眼中にないといった感じですぐに彼に何かを囁き、彼はそれに反応して顔を赤らめる。それはもう彼女に気持ちがあるのだと周囲に言っているようなのだ。
(もうこれ以上見たくないわ……)
プチン、と自分の中にあった糸が音を立てて切れるとわたしはいてもたっても居られなくなり、よろよろと惨めな敗北者そのものになって会場を後にする。
――馬車に揺られている間、わたしは一人笑って、そして……泣いた。
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