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十二
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彼が帰ってこなくなってどれだけの月日が経ったのだろう。季節はもう春を迎えようとしているのに、わたしの心は一向に寒いまま。
「奥様、また旦那様のお部屋に居たのですね」
「ええ、だっていつ帰ってくるか分からないから」
彼の部屋でお茶を飲むわたしに佐田は苦笑する。佐田は彼が帰って来ないことを事業拡大のために中国に渡っていると説明された。けれど、そんなこと嘘である。現にわたしが彼の話題を出すと佐田の眼が僅かに下を向く。それはやましいことを隠している証拠だ。
――いっそ会社にでも乗り込もうか。
そう考えたのはわりと初期の頃だ。けれど、わたしが外に出ようとすれば、佐田が何かと理由を付けて阻止してくるのだ。買い物をしたいと言えば店の従業員が屋敷まで赴くし、一度実家に帰ってみたいと言えば、旦那様が居ない時では無理だと拒否される。歯がゆい思いで日々を過ごすわたしを、屋敷の者達がひそかに憐れんでいることを知っている。だからこそ居た堪れないのだ。
(これじゃあ監禁よ)
そもそも彼はなんでわたしに離縁を迫らないのか。会いたくないくらいにわたしのことが嫌いなら離縁してしまえる権利が彼にあるというのに。わたしと別れてしまえば、橘侯爵とも上手くいくのではないか。それともわたしを飼い殺し状態にして、密通を重ねているのだろうか。暗い疑念はいつも胸にある。けれど、それはわたしの責任なのだ。
「奥様……」
佐田が気遣うように何か言いかけた時、突然扉が叩かれる――現れたその人は実に意外な方であった。
「橘侯爵」
たおやかな微笑を見せる彼女は夜会の時と変わらず、女のわたしでも見惚れるほど美しかった。対するわたしはどうだ。化粧もせず、髪も一応結ってあるだけ。とてもじゃないが、客人を迎えうるには相応しくない。あまりの対比の悪さに羞恥心に打ち震えながらも、そんなことを表出すのはわたしの意地に関わることだった。たとえ自分の恰好がだらしなかったとしても、そこで動揺してしまえば弱みになってしまう。だからわたしは心から微笑む振りをして対面の横椅子に促す。
「まぁ! わたくしの名前を知ってらしたの」
「ええ。以前夜会でお見かけしたので……それで本日はいかがなされたのでしょうか」
「貴女に会ってみたくて誠一郎さんに黙って来たの」
ぺろりと舌を出す彼女は少女のようにあどけない笑みを見せながら、気安く彼の名前を呼ぶ彼女に苛立った。だけどそれは彼女にとっては理不尽な嫉妬である。だから胸の痛みに気付かない振りをして相槌を打つことにした。
「まぁ、橘侯爵にそんなことを言っていただけるなんて光栄ですわ」
「うふふ。誠一郎さんたらわたくしが貴女に会ってみたいと言ったら、断固として阻止してくるのだもの。意地悪な人だと思わない?」
自分の恋人と正妻を会わそうとする男なんか居るはずがないだろう。紅いぽってりとした唇が弧を描くさまはわたしにとってはちっとも面白くはない。
「そうですわね。けれどウチの使用人が案内に付いていなかったようですれど、何か粗相しましたのでしょうか?」
そう。彼女は突発的に現れた。彼が不在の今、客人が来訪された場合は使用人がわたしの元に知らせるはずだったのに、それもない。先ほどまで部屋に居た佐田もお茶を出すのに下がっている。意図的に二人きりになったこの状況はおかしいとしか言えない。
「いいえ。ただ、わたくし貴女との時間を無駄にしたくなくて、使用人にお願いしたの。だってせっかく誠一郎さんの眼を欺いたのだから、この機会を大事にしたいじゃない」
うっそりと眼を細められ、背筋がゾワリと泡立った。これは本能的なものかは分からない。けれど、わたしには彼女が獲物を狙う狩人に見えてしまったのだ。
(佐田、早く戻ってきて……!)
心の底から願った時、佐田が熱い紅茶を持って静かに入室する。知った人が居るだけで、やはり落ち着くものだと心の中でこっそり安堵の息を吐く。幸いなことに佐田も出て行こうとはしなかった。
「ねぇ、薫子さん。貴女は誠一郎さんが本当はどこに居るかご存知?」
唐突な問いは彼女の挑戦状なのだと女の勘が告げている。謎めいた笑みを濃くしてお茶を飲む彼女は優雅だけれど高飛車な感じがして、気持ちがささくれ立つのを感じる。
「貴女『は』ということは橘侯爵は彼の居場所をご存じですの?」
「ええ。だってわたくし彼が居ない間にある預かりものをしていますから」
「預かりものとはなんでしょう?」
「なんだと思います?」
これは何かの謎解きか。本当は居場所すら分かっていないのだから、彼がわたしに何を預けたのかも知るよしがない。自分が優位に立っているのだと見せつけているのだろうか。だとしたら人が悪いのも程がある。
「さぁ……わたしには分かりません」
屈辱を押し殺して答えれば、彼女の微笑が見えた――そしてさらに謎を深めさせるのだ。
「いいえ。貴女なら分かりますよ。だってそれは貴女と誠一郎さんを結ぶモノですもの」
「奥様、また旦那様のお部屋に居たのですね」
「ええ、だっていつ帰ってくるか分からないから」
彼の部屋でお茶を飲むわたしに佐田は苦笑する。佐田は彼が帰って来ないことを事業拡大のために中国に渡っていると説明された。けれど、そんなこと嘘である。現にわたしが彼の話題を出すと佐田の眼が僅かに下を向く。それはやましいことを隠している証拠だ。
――いっそ会社にでも乗り込もうか。
そう考えたのはわりと初期の頃だ。けれど、わたしが外に出ようとすれば、佐田が何かと理由を付けて阻止してくるのだ。買い物をしたいと言えば店の従業員が屋敷まで赴くし、一度実家に帰ってみたいと言えば、旦那様が居ない時では無理だと拒否される。歯がゆい思いで日々を過ごすわたしを、屋敷の者達がひそかに憐れんでいることを知っている。だからこそ居た堪れないのだ。
(これじゃあ監禁よ)
そもそも彼はなんでわたしに離縁を迫らないのか。会いたくないくらいにわたしのことが嫌いなら離縁してしまえる権利が彼にあるというのに。わたしと別れてしまえば、橘侯爵とも上手くいくのではないか。それともわたしを飼い殺し状態にして、密通を重ねているのだろうか。暗い疑念はいつも胸にある。けれど、それはわたしの責任なのだ。
「奥様……」
佐田が気遣うように何か言いかけた時、突然扉が叩かれる――現れたその人は実に意外な方であった。
「橘侯爵」
たおやかな微笑を見せる彼女は夜会の時と変わらず、女のわたしでも見惚れるほど美しかった。対するわたしはどうだ。化粧もせず、髪も一応結ってあるだけ。とてもじゃないが、客人を迎えうるには相応しくない。あまりの対比の悪さに羞恥心に打ち震えながらも、そんなことを表出すのはわたしの意地に関わることだった。たとえ自分の恰好がだらしなかったとしても、そこで動揺してしまえば弱みになってしまう。だからわたしは心から微笑む振りをして対面の横椅子に促す。
「まぁ! わたくしの名前を知ってらしたの」
「ええ。以前夜会でお見かけしたので……それで本日はいかがなされたのでしょうか」
「貴女に会ってみたくて誠一郎さんに黙って来たの」
ぺろりと舌を出す彼女は少女のようにあどけない笑みを見せながら、気安く彼の名前を呼ぶ彼女に苛立った。だけどそれは彼女にとっては理不尽な嫉妬である。だから胸の痛みに気付かない振りをして相槌を打つことにした。
「まぁ、橘侯爵にそんなことを言っていただけるなんて光栄ですわ」
「うふふ。誠一郎さんたらわたくしが貴女に会ってみたいと言ったら、断固として阻止してくるのだもの。意地悪な人だと思わない?」
自分の恋人と正妻を会わそうとする男なんか居るはずがないだろう。紅いぽってりとした唇が弧を描くさまはわたしにとってはちっとも面白くはない。
「そうですわね。けれどウチの使用人が案内に付いていなかったようですれど、何か粗相しましたのでしょうか?」
そう。彼女は突発的に現れた。彼が不在の今、客人が来訪された場合は使用人がわたしの元に知らせるはずだったのに、それもない。先ほどまで部屋に居た佐田もお茶を出すのに下がっている。意図的に二人きりになったこの状況はおかしいとしか言えない。
「いいえ。ただ、わたくし貴女との時間を無駄にしたくなくて、使用人にお願いしたの。だってせっかく誠一郎さんの眼を欺いたのだから、この機会を大事にしたいじゃない」
うっそりと眼を細められ、背筋がゾワリと泡立った。これは本能的なものかは分からない。けれど、わたしには彼女が獲物を狙う狩人に見えてしまったのだ。
(佐田、早く戻ってきて……!)
心の底から願った時、佐田が熱い紅茶を持って静かに入室する。知った人が居るだけで、やはり落ち着くものだと心の中でこっそり安堵の息を吐く。幸いなことに佐田も出て行こうとはしなかった。
「ねぇ、薫子さん。貴女は誠一郎さんが本当はどこに居るかご存知?」
唐突な問いは彼女の挑戦状なのだと女の勘が告げている。謎めいた笑みを濃くしてお茶を飲む彼女は優雅だけれど高飛車な感じがして、気持ちがささくれ立つのを感じる。
「貴女『は』ということは橘侯爵は彼の居場所をご存じですの?」
「ええ。だってわたくし彼が居ない間にある預かりものをしていますから」
「預かりものとはなんでしょう?」
「なんだと思います?」
これは何かの謎解きか。本当は居場所すら分かっていないのだから、彼がわたしに何を預けたのかも知るよしがない。自分が優位に立っているのだと見せつけているのだろうか。だとしたら人が悪いのも程がある。
「さぁ……わたしには分かりません」
屈辱を押し殺して答えれば、彼女の微笑が見えた――そしてさらに謎を深めさせるのだ。
「いいえ。貴女なら分かりますよ。だってそれは貴女と誠一郎さんを結ぶモノですもの」
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