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捨てられた町エルサリオ1~レティシア目線~
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冷たい霧雨が頬をかすめる中、私はそっと馬車を降りた。
何人もの旅人と肩を寄せ合うようにして乗った相乗り馬車。
それは、これまで私が神殿や王宮から与えられていた豪奢な馬車とは比べものにならないほど粗末だった。
座席は硬く、窓の枠も歪み、荷物が足元に転がってくるような揺れの強さ――けれど、不思議なほど心が安らいだ。
この空間には、飾られた言葉も、虚飾もなかった。
王宮や神殿で交わされる言葉は、常に誰かを押しのけ、己の立場を引き上げるための駆け引きばかり。
そこでは聖女という存在すら、神への祈りの象徴ではなく、権力を得るための「道具」として扱われていた。
私は、そうした争いに心を寄せられなかった。
神の言葉を聞く者として、本当に大切にすべきは――民の暮らし、命、祈りの声。
この相乗り馬車の中で交わされた会話――
小さな農村の天候の話、子どものいたずら、病気が癒えた家族への安堵――それらはまっすぐで、どこまでも温かかった。
「……こんなにも、穏やかな気持ちになれるのね」
私は誰にともなく呟いた。
霧雨の匂いの中、民の息づかいに触れながら、私の心は確かにほぐれていった。
これこそが、私の戻るべき場所なのだと、安らいだ。
緩やかな斜面に広がる灰色の森を越えた先、ようやく視界の先に、朽ちた木柵とひび割れた石門が見えた。
そこが、エルサリオ、
王国最南の地。
地図から消された、忘れられた村だった。
荒れ果てた大地に、かつての営みの気配はかすかに残る。ひび割れた井戸、風に揺れる空の家屋、そして草に埋もれかけた祈祷場の石畳。
この地に、神は「行け」とお命じになった。
けれど、私の心には、それだけではない想いがあった。
この村は、アリシアが「神の啓示」と称して裁きを下した土地だった。
「この地に蔓延る病は、神に背いた者への罰。
汚れを浄めるには、この地を閉ざさねばならぬ」
それが、アリシアの“神託”だった。
けれどそれは、本物の神の声ではなかった。
病と混乱が王都へ波及することを恐れた神殿上層部が、アリシアに語らせた“方便”――
民の命よりも、体裁と支配の安寧を守るための偽りだった。
結果として、村は封鎖され、物資も医術師も一切の支援が断たれた。
神の名のもとに助けを絶たれた人々は、孤独のうちに病に倒れ、飢えに苦しみ、声を上げることさえ許されずに消えていった。
やがて村の名は文書から削除され、王国の公式地図からも消された。
まるで、最初から存在しなかったかのように。
それでも、そこに住む人々は、ただ静かに暮らしたかっただけなのだ。
私は静かに、ひざをついた。
倒れたまま放置された祈祷場の前で、両手を組む。
「神よ。あなたはすべてをご存知なのでしょう。
この地に何があり、誰が嘘を語り、誰が祈りを捧げたのか……」
だからこそ、私はこの村に来た。
神の御言葉を伝えるためだけでなく、聖女を名乗る者として、あの日、この村を切り捨てた過ちに、少しでも償いを果たすために。
私は喉が潰れるほどに、違う、と声を出したが、叶わなかった。
けれど、それも罪なのだ。
声を上げ、それが結果として実を結ばなければ、私も同罪なのだ。
湿った土を踏みしめながら、私は村の入口へと歩を進めた。
門の傍には、一人の老人が立っていた。
痩せた頬と深く刻まれた皺。ひと目で長年この地に生きてきた者だと分かる。
その瞳は、私を射抜くように鋭かった。
「私は、神託を受けここに参りました」
ひくり、と汚いものを見るように顔が歪む。
「神託・・・お前が、聖女、だと?」
老人は低く唸るように言った。
「聖女アリシアの名は、まだ忘れられん。あの女の嘘が、この村を焼いたっ!何をしに来た!!」
私は、黙って彼の前に立ち、深く頭を下げた。
「私は、レティシア・エルメロワ。アリシアとは違います。神より託された真の神託を携え、この地へまいりました。けれど、それだけではありません」
顔を上げ、私は静かに、しかし確かな思いを込めて言葉を続けた。
「私は聖女の名を持つ者として、この地に背を向けた過ちを、少しでも正したいのです。
あの神託の犠牲となり、声を失った方々のために・・・どうか、祈らせてください」
沈黙の中、廃屋の影や木陰から、人々の視線が集まってきた。
やせ細った体で、かろうじて立っているような男。
布を巻いた腕に幼子を抱く女。
皆、どこかで名前を聞きつけ、あるいはただの好奇心かもしれない、けれどその目の奥には、ほんのわずかな光があった。
「・・・聖女なんて、信じられねえ」
声を震わせた中年の男が、声を張り上げた。
「うちの子は、アリシアの神託で村を出され・・・戻らなかったんだぞ!」
女が震える声で続ける。
「神託だって・・・結局は、誰かの都合で作られたものじゃないの・・・?」
それでも、誰かが心の奥で神を求めているのを、私は感じていた。
まるで荒れ果てた地の奥で、土の下にまだ残っている水脈のように。
そんな中、一人の若い娘が、よろけながら私の前に歩み出た。
その腕の中には、熱にうなされている幼い子がいた。
「でも・・・もし・・・もし、本当に神の声を聞いておられるのなら・・・この子を、助けて・・・」
私は彼女に近づき、膝をついて幼子の額に手を当てた。
その体温は高く、呼吸は苦しげで浅い。
目を閉じ、祈りの言葉を心に捧げる。
「神よ、どうか、この命に慈しみの光を・・・」
指先から柔らかな光が溢れ、幼子の額を包み込む。
雨に濡れた空気の中、その一筋の光は、まるで夜明け前の希望のように淡く、温かかった。
「・・・まさか、今・・・熱が・・・?」
娘が驚いたように呟く。幼子の息が落ち着き、苦悶の表情が消えていく。
その様子を見て、さっきまで沈黙していた老人が、声を震わせた。
「・・・これは、本物の・・・聖女・・・か・・・」
私は立ち上がり、村人たちに向き直った。
「信じるか否かは、皆様の自由です。けれど、神の御声は、今もこの地に届いています。そして私は、その声を伝えに来たのです。この村に、再び希望の灯をともすために」
何人もの旅人と肩を寄せ合うようにして乗った相乗り馬車。
それは、これまで私が神殿や王宮から与えられていた豪奢な馬車とは比べものにならないほど粗末だった。
座席は硬く、窓の枠も歪み、荷物が足元に転がってくるような揺れの強さ――けれど、不思議なほど心が安らいだ。
この空間には、飾られた言葉も、虚飾もなかった。
王宮や神殿で交わされる言葉は、常に誰かを押しのけ、己の立場を引き上げるための駆け引きばかり。
そこでは聖女という存在すら、神への祈りの象徴ではなく、権力を得るための「道具」として扱われていた。
私は、そうした争いに心を寄せられなかった。
神の言葉を聞く者として、本当に大切にすべきは――民の暮らし、命、祈りの声。
この相乗り馬車の中で交わされた会話――
小さな農村の天候の話、子どものいたずら、病気が癒えた家族への安堵――それらはまっすぐで、どこまでも温かかった。
「……こんなにも、穏やかな気持ちになれるのね」
私は誰にともなく呟いた。
霧雨の匂いの中、民の息づかいに触れながら、私の心は確かにほぐれていった。
これこそが、私の戻るべき場所なのだと、安らいだ。
緩やかな斜面に広がる灰色の森を越えた先、ようやく視界の先に、朽ちた木柵とひび割れた石門が見えた。
そこが、エルサリオ、
王国最南の地。
地図から消された、忘れられた村だった。
荒れ果てた大地に、かつての営みの気配はかすかに残る。ひび割れた井戸、風に揺れる空の家屋、そして草に埋もれかけた祈祷場の石畳。
この地に、神は「行け」とお命じになった。
けれど、私の心には、それだけではない想いがあった。
この村は、アリシアが「神の啓示」と称して裁きを下した土地だった。
「この地に蔓延る病は、神に背いた者への罰。
汚れを浄めるには、この地を閉ざさねばならぬ」
それが、アリシアの“神託”だった。
けれどそれは、本物の神の声ではなかった。
病と混乱が王都へ波及することを恐れた神殿上層部が、アリシアに語らせた“方便”――
民の命よりも、体裁と支配の安寧を守るための偽りだった。
結果として、村は封鎖され、物資も医術師も一切の支援が断たれた。
神の名のもとに助けを絶たれた人々は、孤独のうちに病に倒れ、飢えに苦しみ、声を上げることさえ許されずに消えていった。
やがて村の名は文書から削除され、王国の公式地図からも消された。
まるで、最初から存在しなかったかのように。
それでも、そこに住む人々は、ただ静かに暮らしたかっただけなのだ。
私は静かに、ひざをついた。
倒れたまま放置された祈祷場の前で、両手を組む。
「神よ。あなたはすべてをご存知なのでしょう。
この地に何があり、誰が嘘を語り、誰が祈りを捧げたのか……」
だからこそ、私はこの村に来た。
神の御言葉を伝えるためだけでなく、聖女を名乗る者として、あの日、この村を切り捨てた過ちに、少しでも償いを果たすために。
私は喉が潰れるほどに、違う、と声を出したが、叶わなかった。
けれど、それも罪なのだ。
声を上げ、それが結果として実を結ばなければ、私も同罪なのだ。
湿った土を踏みしめながら、私は村の入口へと歩を進めた。
門の傍には、一人の老人が立っていた。
痩せた頬と深く刻まれた皺。ひと目で長年この地に生きてきた者だと分かる。
その瞳は、私を射抜くように鋭かった。
「私は、神託を受けここに参りました」
ひくり、と汚いものを見るように顔が歪む。
「神託・・・お前が、聖女、だと?」
老人は低く唸るように言った。
「聖女アリシアの名は、まだ忘れられん。あの女の嘘が、この村を焼いたっ!何をしに来た!!」
私は、黙って彼の前に立ち、深く頭を下げた。
「私は、レティシア・エルメロワ。アリシアとは違います。神より託された真の神託を携え、この地へまいりました。けれど、それだけではありません」
顔を上げ、私は静かに、しかし確かな思いを込めて言葉を続けた。
「私は聖女の名を持つ者として、この地に背を向けた過ちを、少しでも正したいのです。
あの神託の犠牲となり、声を失った方々のために・・・どうか、祈らせてください」
沈黙の中、廃屋の影や木陰から、人々の視線が集まってきた。
やせ細った体で、かろうじて立っているような男。
布を巻いた腕に幼子を抱く女。
皆、どこかで名前を聞きつけ、あるいはただの好奇心かもしれない、けれどその目の奥には、ほんのわずかな光があった。
「・・・聖女なんて、信じられねえ」
声を震わせた中年の男が、声を張り上げた。
「うちの子は、アリシアの神託で村を出され・・・戻らなかったんだぞ!」
女が震える声で続ける。
「神託だって・・・結局は、誰かの都合で作られたものじゃないの・・・?」
それでも、誰かが心の奥で神を求めているのを、私は感じていた。
まるで荒れ果てた地の奥で、土の下にまだ残っている水脈のように。
そんな中、一人の若い娘が、よろけながら私の前に歩み出た。
その腕の中には、熱にうなされている幼い子がいた。
「でも・・・もし・・・もし、本当に神の声を聞いておられるのなら・・・この子を、助けて・・・」
私は彼女に近づき、膝をついて幼子の額に手を当てた。
その体温は高く、呼吸は苦しげで浅い。
目を閉じ、祈りの言葉を心に捧げる。
「神よ、どうか、この命に慈しみの光を・・・」
指先から柔らかな光が溢れ、幼子の額を包み込む。
雨に濡れた空気の中、その一筋の光は、まるで夜明け前の希望のように淡く、温かかった。
「・・・まさか、今・・・熱が・・・?」
娘が驚いたように呟く。幼子の息が落ち着き、苦悶の表情が消えていく。
その様子を見て、さっきまで沈黙していた老人が、声を震わせた。
「・・・これは、本物の・・・聖女・・・か・・・」
私は立ち上がり、村人たちに向き直った。
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