2 / 8
2
しおりを挟む
「力加減は大丈夫?」
「はい、あの、大丈夫です」
受け答えがおかしくないか心配になったものの、すぐに気持ちがよくなって頭がボーッとしてくる。長い指でグーッと頭皮を揉まれるのがこんなに気持ちいいなんて知らなかった。
最初は慎兄さんが触っていると思うだけで首のあたりがソワソワした。緊張して全身カチカチだったのに、いつの間にか気持ちがよくてウトウトしている。「慎兄さんが上手だからなんだろうな」と尊敬しつつ、気がついたらすっかり眠気に負けてしまっていた。
そんな僕に気づいたのか、慎兄さんは何も言わずに髪を洗ってくれた。長い指が優しく頭に触れるたびに、僕はフワフワした浮遊感と心地よさにうっとりした。
(何もかも初めてのことばっかりだけど……すごく気持ちいい……)
フワフワしたりウトウトしたり、ここがどこで何をしているのかわからなくなる。
「寝てる顔も可愛いなぁ。あーやばい、キスしたくなる」
近くで慎兄さんの囁くような声が聞こえる。
(……あれ……? 僕、眠って……?)
ゆっくり目を開けたら、慎兄さんに見下ろされていてびっくりした。一瞬夢かと思ったけど、そういえば頭を洗ってもらっていたんだっけと思い出す。
「気持ちよかった?」
「え、と……」
お湯の音が聞こえなくなっているということは“すぱ”というのは終わったんだろう。それなのに頭が暖かい。どういう状況かわからなくてキョロキョロと視線を動かす。
「ホットタオルしてるから、あと少し眠ってていいよ。終わったら起こしてあげるから」
「は、はい」
どうやら僕は完全に眠っていたらしい。恥ずかしくて小さい声で返事をしたら、慎兄さんがニコッと笑いかけてくれた。
(……笑顔がかっこよすぎてつらい……!)
慌てて目を瞑ったものの、ドキドキしているせいか今度は眠ることはなかった。
ホットタオルというのが終わったあと、席に戻ったら慎兄さんが首や肩を揉んでくれた。首に手が触れたときは一瞬ビクッとしてしまったけど、別に嫌だったわけじゃない。むしろ触られたことが嬉しくて顔まで真っ赤になってしまった。
(慎兄さんに触られるのはまだ緊張するけど、でもこうやって触られるの、嫌じゃない)
椅子に座ったときは緊張でガチガチだった。髪を切る前に「希望の長さとかある?」と聞かれても答えることすらできなかった。いつも行く床屋では毎回同じように切ってもらうだけだから長さなんて考えたこともない。何て答えればいいのか焦っていると「俺好みにしても平気?」と聞かれて思わず「はいっ」と答えていた。
(いま考えると、俺好みってすごい言葉だよね)
美容師ってみんなああいうことを言うんだろうか。そうだったとしても、慎兄さんに言われて嬉しくないはずがない。
(それにこんなにたくさん触ってもらったし……って、これじゃ変態みたいだ)
恥ずかしくて顔がますます熱くなる。髪を切るのも染めるのも、シャンプーするのもマッサージするのも全部慎兄さんがやってくれた。こんな贅沢な時間は二度とない。僕にとって一生の宝物ができた。
ドライヤーで乾かしてくれている慎兄さんを鏡越しにそっと見る。この顔もしっかり覚えておかなくてはと何度何度もも鏡を見た。
「乾かすときは手櫛でも綺麗にまとまるからね。こうやって根元からかき上げるみたいにして内側も乾かして……はい、終わり。内側をちょっとすいておいたから乾くのも早いはずだよ。せっかくだから少しだけ整髪料つけておこうか」
「は、はい」
お洒落な容器からクリーム状の整髪料を指で取るとサッサッと艶々の髪に塗る。慎兄さんの手が動くたびにいい匂いがしてまたうっとりした。普段整髪料を使うことがないから、それだけで急にお洒落になったような気になる。
「はい、完成」
改めて鏡を見た僕は、あまりにもお洒落な髪の毛にポカンとしてしまった。顔は同じなのに、もっさりした田舎者がちょっとだけ都会の人になったように見える。染めた髪もお洒落すぎて自分じゃないみたいだ。
「後ろはこんな感じね。ここではそんなに目立たない色味だけど、太陽に当たったら綺麗に見えるから」
合わせ鏡の中の後頭部には、黒い中に違う色の髪の毛が何本も入っている。慎兄さんいわく何とかという横文字の染め方らしく、全部を染めるよりずっとお洒落だ。
(タブレットで写真見せられたときはどうなるかと思ったけど、これなら変な目で見られないかな)
僕みたいな田舎者でもおかしくないように見えるなんて、やっぱり慎兄さんはすごい。
「時間が経ったら少し色が抜けて明るくなるけど、その頃は髪も伸びてるだろうしまた切りにおいで」
「え……?」
一瞬聞き逃してしまった。鏡の中の慎兄さんを見ると、「また俺が切ってあげるから」と言われてギョッとする。
「あ、あの、また、切りに来るんですか?」
思わずそんなことを口走ってしまい、慌てて「ええと、そうじゃなくて」と口ごもった。
(こんなこと言ったら失礼じゃないか!)
そう思っていても、こんなお洒落な美容院にまた来るなんて僕には無理だ。視線をウロウロさせていると、鏡の中の慎兄さんが「あはは」と笑った。
「三春くんは相変わらず遠慮がちだなぁ。急に連絡してくる二海とは大違いだ。もし俺に切られるのが嫌じゃなかったら、ぜひ来てほしい」
「そんな、嫌だなんて絶対に思わないです」
「よかった。それじゃあ連絡先交換しようか」
「え?」
「店に電話で予約してもらってもいいけど、俺がいないときもあるからね。直接メッセージもらったほうがありがたい」
「でも、あの、」
さすがにそこまでしてもらうのは迷惑じゃないだろうか。それに僕から慎兄さんに連絡なんてできるとは思えなかった。どんな文章を送ればいいか考えて考えて、結局送れないような気がする。そう思ったけど、会計のときに「スマホ貸してくれる?」と言われて慌てて渡してしまった。
こうして家族以外は数人しか登録していないメッセージアプリに、慎兄さんの連絡先が加わることになった。
いつもと違う髪型と初めて髪を染めたからか、帰り道は周囲の目が気になって仕方がなかった。同時に「慎兄さんに切ってもらった」なんて浮かれ足にもなる。それでも「あんな奴がなんであんな髪型を?」と思われているような気がした僕は、気がつけばいつもより早足に家へと向かっていた。
ようやく家にたどり着くと、ちょうど出かけようとしていた二海兄さんと玄関で鉢合わせた。
「おぉー、可愛いじゃん」
「可愛いって……」
僕が「ただいま」と言う前に「想像以上に可愛くなったな」なんて言われて、思わず呆れた顔になってしまう。
「な? 慎太郎に任せてよかっただろ?」
「それはまぁ、そう思うけど」
お洒落になりたいとは思っていないけど、慎兄さんにいろいろしてもらえたのは嬉しい。だって、こういうことでもない限り慎兄さんに近づける機会なんて僕にはないんだ。
「……なに?」
スニーカーを履きながら、二海兄さんがじっと僕を見ている。何だろうと思って声をかけたら「うーん、こりゃあかえってまずいかもなぁ」なんて言い出すから思わずムッとしてしまった。
「そりゃあ僕みたいな男にはこんなお洒落な髪、似合わないと思うけどさ。でも、勝手にあれこれ言ったのは二海兄さんだからね」
「違うって。可愛くなったのは当然として、これじゃ余計な虫まで寄って来そうだなって思っただけ」
「虫……?」
もしかして、最後につけてもらった整髪料に虫が寄って来るってことだろうか。たしかにいい匂いがしたから春なら虫が近寄ってきたかもしれない。でもいまは秋の終わりで、帰り道で虫に纏わり付かれるなんてことはなかった。
「二海兄さんって、たまに変なこと言うよな」と思いながら靴を脱いでいると「一応、気をつけろよ」とまた言われる。
「ま、諦められなかったのは慎太郎もだし、あいつが責任持ってくれんだろうけど」
「責任って何のこと?」
よくわからないことを言いながらドアを開けた二海兄さんにそう尋ねた。すると「おまえも兄貴も、ろくでもない輩にモテるってことだよ」と言いながらにやりと笑う。
「ちょっと、それじゃあ意味がわからない」
「心配すんな。おまえも兄貴と一緒で彼氏が守ってくれるだろうからさ。その彼氏が一番ろくでもねぇけどな」
「え? って、彼氏って、僕そんな人いないからね!」
「わーってるって。んじゃ俺、優美んとこ行ってくるから」
「鍵、ちゃんと締めとけよ」と言いながら二海兄さんが出て行った。夕方から優美ちゃんのところに行くということは泊まってくるってことなんだろう。
二海兄さんと優美ちゃんはつき合いが長いベテランカップルだ。優美ちゃんは小さいときからよく知っている幼馴染みで、僕や壱夜兄さんとも仲がいい。二人とももう二十九歳だし泊まることだってしょっちゅうある。
(結婚しないのかなぁ)
優美ちゃんは絶対に結婚したがっている。それなのに待たせっぱなしだなんて、二海兄さんはヘタレなんだろうか。鍵をかけながら、二海兄さんが最後に口にした言葉を思い出した。
(彼氏が守ってくれるって……そんなの、僕にいるわけないじゃんか)
そもそもなんで彼氏なんだ。彼女がいるかもしれないって思わないんだろうか。
(そりゃあ、僕はずっと慎兄さんしか見てなかったけどさ)
そのせいか、いままで女の子を好きになったことは一度もなかった。だからといって慎兄さんと付き合いたいなんて大それたことは思っていない。告白しようと思ったことももちろんなかった。
だって、相手は七歳も年上なんだ。それに慎兄さんは昔からすごくモテていたし、そんな慎兄さんが僕を親友の弟以上に見てくれるはずがない。
(わかってるけど、やっぱり諦めきれないっていうか……)
それでも慎兄さんが都会に行ったときに一度は諦めた。思い出すとつらくなるから、最初のうちはできるだけ思い出さないようにもした。ここ二、三年はようやく「懐かしいなぁ」なんて写真を眺めたりできるようになったけど、今日からまた少しだけつらくなるような気がする。
(だって、実際に会ったら昔の気持ちを思い出してしまうっていうか)
小学生のときは慎兄さんのことばかり考えていた。会うのは恥ずかしいのに会えないと悲しくなる。だから、いつもこっそり覗き見なんてことまでしていた。そんな僕に気づいた慎兄さんがニコッと微笑んでくれるのがたまらなく好きだった。
(そう、ずっとずっと好きだったんだ)
でも、好きなままでいても仕方がない。中学生になってそれがわかった。だから忘れようと努力した。それなのに今日会ってしまったせいで昔の気持ちが蘇ってしまった。
(しかも前よりもっと好きになってたなんて)
きっとずっと我慢してきたせいだ。“片思いだった人”は“いまでも一番好きな人”になってしまった。
(いまさらそんなこと思ってもどうにもならないのになぁ)
僕みたいな田舎者はかっこいい慎兄さんの隣にはふさわしくない。しかも僕は男で立派な大人でもない。
(壱夜兄さんみたいな大人の男だったら、少しは違ってたのかな)
壱夜兄さんは優しくて大人で、それに弟の僕から見ても綺麗な人だ。女性的じゃないのに、かっこいいっていうよりも綺麗って言葉が似合う大人の男だと思う。
(だから靜佳と付き合ってるって聞いたときも変だとは思わなかった)
むしろお似合いだと思った。靜佳は小学二年生のときに海外から引っ越してきた幼馴染みだ。生まれたときから海外暮らしだったからか、子ども心になんて大人っぽいんだろうと思ったのを覚えている。
そんな靜佳と壱夜兄さんは恋人だ。二十六歳と三十二歳なんてそれなりの年の差だと思うけど全然そんな感じがしない。むしろ大人の恋人という感じで素敵だなぁといつも思っている。
二海兄さんだってチャラチャラしているけど高校のときはイケメンで有名だった。ファンクラブもあったみたいだし、いまでもすぐナンパされるんだって優美ちゃんが嫉妬するくらいにはモテるらしい。
(それに比べて僕は……)
小さい頃から何をしても自信が持てなかった。年が離れているから兄さんたちは可愛がってくれたけど、外に出たらただの冴えない男でしかない。人見知りで社交的でもないし、そんなだからモテたことなんて一度もなかった。兄さんたちとばかり一緒にいたから友達と呼べる人もほとんどいない。
そんな僕がかっこよくてお洒落な慎兄さんと付き合うとか……。
(ないない)
あまりにもあり得なさすぎて思わずブンブンと頭を振った。
(そもそも幼稚園のときからずっと好きだったなんて、慎兄さんが知ったらドン引きだよ)
だから、僕がずっと好きだったってことは絶対に気づかれないようにしないと駄目だ。
「……髪、どうしようかなぁ」
慎兄さんは「また切りにおいで」と言ってくれたけど、僕から連絡することはできそうにない。今日いた三人のお客さんも想像どおりお洒落な感じで、働いている美容師の人たちもみんな素敵だった。そんなお店にまた行くのかと想像するだけで気後れしてしまう。
(うん、また行くなんて僕には無理だ)
おじさんにはびっくりされそうだけど、伸びてきたらいつもの床屋に行こう。何度か切っているうちにお洒落な色の部分もなくなるはず。そうしたらいつもの僕に戻って、そのうちお洒落な髪にしたことも忘れるに違いない。
せっかく連絡先を交換したけどメッセージを送ることはない気がする。わかっていたことなのに残念な気持ちもあって、スマホの画面をそっと撫でた。
「はい、あの、大丈夫です」
受け答えがおかしくないか心配になったものの、すぐに気持ちがよくなって頭がボーッとしてくる。長い指でグーッと頭皮を揉まれるのがこんなに気持ちいいなんて知らなかった。
最初は慎兄さんが触っていると思うだけで首のあたりがソワソワした。緊張して全身カチカチだったのに、いつの間にか気持ちがよくてウトウトしている。「慎兄さんが上手だからなんだろうな」と尊敬しつつ、気がついたらすっかり眠気に負けてしまっていた。
そんな僕に気づいたのか、慎兄さんは何も言わずに髪を洗ってくれた。長い指が優しく頭に触れるたびに、僕はフワフワした浮遊感と心地よさにうっとりした。
(何もかも初めてのことばっかりだけど……すごく気持ちいい……)
フワフワしたりウトウトしたり、ここがどこで何をしているのかわからなくなる。
「寝てる顔も可愛いなぁ。あーやばい、キスしたくなる」
近くで慎兄さんの囁くような声が聞こえる。
(……あれ……? 僕、眠って……?)
ゆっくり目を開けたら、慎兄さんに見下ろされていてびっくりした。一瞬夢かと思ったけど、そういえば頭を洗ってもらっていたんだっけと思い出す。
「気持ちよかった?」
「え、と……」
お湯の音が聞こえなくなっているということは“すぱ”というのは終わったんだろう。それなのに頭が暖かい。どういう状況かわからなくてキョロキョロと視線を動かす。
「ホットタオルしてるから、あと少し眠ってていいよ。終わったら起こしてあげるから」
「は、はい」
どうやら僕は完全に眠っていたらしい。恥ずかしくて小さい声で返事をしたら、慎兄さんがニコッと笑いかけてくれた。
(……笑顔がかっこよすぎてつらい……!)
慌てて目を瞑ったものの、ドキドキしているせいか今度は眠ることはなかった。
ホットタオルというのが終わったあと、席に戻ったら慎兄さんが首や肩を揉んでくれた。首に手が触れたときは一瞬ビクッとしてしまったけど、別に嫌だったわけじゃない。むしろ触られたことが嬉しくて顔まで真っ赤になってしまった。
(慎兄さんに触られるのはまだ緊張するけど、でもこうやって触られるの、嫌じゃない)
椅子に座ったときは緊張でガチガチだった。髪を切る前に「希望の長さとかある?」と聞かれても答えることすらできなかった。いつも行く床屋では毎回同じように切ってもらうだけだから長さなんて考えたこともない。何て答えればいいのか焦っていると「俺好みにしても平気?」と聞かれて思わず「はいっ」と答えていた。
(いま考えると、俺好みってすごい言葉だよね)
美容師ってみんなああいうことを言うんだろうか。そうだったとしても、慎兄さんに言われて嬉しくないはずがない。
(それにこんなにたくさん触ってもらったし……って、これじゃ変態みたいだ)
恥ずかしくて顔がますます熱くなる。髪を切るのも染めるのも、シャンプーするのもマッサージするのも全部慎兄さんがやってくれた。こんな贅沢な時間は二度とない。僕にとって一生の宝物ができた。
ドライヤーで乾かしてくれている慎兄さんを鏡越しにそっと見る。この顔もしっかり覚えておかなくてはと何度何度もも鏡を見た。
「乾かすときは手櫛でも綺麗にまとまるからね。こうやって根元からかき上げるみたいにして内側も乾かして……はい、終わり。内側をちょっとすいておいたから乾くのも早いはずだよ。せっかくだから少しだけ整髪料つけておこうか」
「は、はい」
お洒落な容器からクリーム状の整髪料を指で取るとサッサッと艶々の髪に塗る。慎兄さんの手が動くたびにいい匂いがしてまたうっとりした。普段整髪料を使うことがないから、それだけで急にお洒落になったような気になる。
「はい、完成」
改めて鏡を見た僕は、あまりにもお洒落な髪の毛にポカンとしてしまった。顔は同じなのに、もっさりした田舎者がちょっとだけ都会の人になったように見える。染めた髪もお洒落すぎて自分じゃないみたいだ。
「後ろはこんな感じね。ここではそんなに目立たない色味だけど、太陽に当たったら綺麗に見えるから」
合わせ鏡の中の後頭部には、黒い中に違う色の髪の毛が何本も入っている。慎兄さんいわく何とかという横文字の染め方らしく、全部を染めるよりずっとお洒落だ。
(タブレットで写真見せられたときはどうなるかと思ったけど、これなら変な目で見られないかな)
僕みたいな田舎者でもおかしくないように見えるなんて、やっぱり慎兄さんはすごい。
「時間が経ったら少し色が抜けて明るくなるけど、その頃は髪も伸びてるだろうしまた切りにおいで」
「え……?」
一瞬聞き逃してしまった。鏡の中の慎兄さんを見ると、「また俺が切ってあげるから」と言われてギョッとする。
「あ、あの、また、切りに来るんですか?」
思わずそんなことを口走ってしまい、慌てて「ええと、そうじゃなくて」と口ごもった。
(こんなこと言ったら失礼じゃないか!)
そう思っていても、こんなお洒落な美容院にまた来るなんて僕には無理だ。視線をウロウロさせていると、鏡の中の慎兄さんが「あはは」と笑った。
「三春くんは相変わらず遠慮がちだなぁ。急に連絡してくる二海とは大違いだ。もし俺に切られるのが嫌じゃなかったら、ぜひ来てほしい」
「そんな、嫌だなんて絶対に思わないです」
「よかった。それじゃあ連絡先交換しようか」
「え?」
「店に電話で予約してもらってもいいけど、俺がいないときもあるからね。直接メッセージもらったほうがありがたい」
「でも、あの、」
さすがにそこまでしてもらうのは迷惑じゃないだろうか。それに僕から慎兄さんに連絡なんてできるとは思えなかった。どんな文章を送ればいいか考えて考えて、結局送れないような気がする。そう思ったけど、会計のときに「スマホ貸してくれる?」と言われて慌てて渡してしまった。
こうして家族以外は数人しか登録していないメッセージアプリに、慎兄さんの連絡先が加わることになった。
いつもと違う髪型と初めて髪を染めたからか、帰り道は周囲の目が気になって仕方がなかった。同時に「慎兄さんに切ってもらった」なんて浮かれ足にもなる。それでも「あんな奴がなんであんな髪型を?」と思われているような気がした僕は、気がつけばいつもより早足に家へと向かっていた。
ようやく家にたどり着くと、ちょうど出かけようとしていた二海兄さんと玄関で鉢合わせた。
「おぉー、可愛いじゃん」
「可愛いって……」
僕が「ただいま」と言う前に「想像以上に可愛くなったな」なんて言われて、思わず呆れた顔になってしまう。
「な? 慎太郎に任せてよかっただろ?」
「それはまぁ、そう思うけど」
お洒落になりたいとは思っていないけど、慎兄さんにいろいろしてもらえたのは嬉しい。だって、こういうことでもない限り慎兄さんに近づける機会なんて僕にはないんだ。
「……なに?」
スニーカーを履きながら、二海兄さんがじっと僕を見ている。何だろうと思って声をかけたら「うーん、こりゃあかえってまずいかもなぁ」なんて言い出すから思わずムッとしてしまった。
「そりゃあ僕みたいな男にはこんなお洒落な髪、似合わないと思うけどさ。でも、勝手にあれこれ言ったのは二海兄さんだからね」
「違うって。可愛くなったのは当然として、これじゃ余計な虫まで寄って来そうだなって思っただけ」
「虫……?」
もしかして、最後につけてもらった整髪料に虫が寄って来るってことだろうか。たしかにいい匂いがしたから春なら虫が近寄ってきたかもしれない。でもいまは秋の終わりで、帰り道で虫に纏わり付かれるなんてことはなかった。
「二海兄さんって、たまに変なこと言うよな」と思いながら靴を脱いでいると「一応、気をつけろよ」とまた言われる。
「ま、諦められなかったのは慎太郎もだし、あいつが責任持ってくれんだろうけど」
「責任って何のこと?」
よくわからないことを言いながらドアを開けた二海兄さんにそう尋ねた。すると「おまえも兄貴も、ろくでもない輩にモテるってことだよ」と言いながらにやりと笑う。
「ちょっと、それじゃあ意味がわからない」
「心配すんな。おまえも兄貴と一緒で彼氏が守ってくれるだろうからさ。その彼氏が一番ろくでもねぇけどな」
「え? って、彼氏って、僕そんな人いないからね!」
「わーってるって。んじゃ俺、優美んとこ行ってくるから」
「鍵、ちゃんと締めとけよ」と言いながら二海兄さんが出て行った。夕方から優美ちゃんのところに行くということは泊まってくるってことなんだろう。
二海兄さんと優美ちゃんはつき合いが長いベテランカップルだ。優美ちゃんは小さいときからよく知っている幼馴染みで、僕や壱夜兄さんとも仲がいい。二人とももう二十九歳だし泊まることだってしょっちゅうある。
(結婚しないのかなぁ)
優美ちゃんは絶対に結婚したがっている。それなのに待たせっぱなしだなんて、二海兄さんはヘタレなんだろうか。鍵をかけながら、二海兄さんが最後に口にした言葉を思い出した。
(彼氏が守ってくれるって……そんなの、僕にいるわけないじゃんか)
そもそもなんで彼氏なんだ。彼女がいるかもしれないって思わないんだろうか。
(そりゃあ、僕はずっと慎兄さんしか見てなかったけどさ)
そのせいか、いままで女の子を好きになったことは一度もなかった。だからといって慎兄さんと付き合いたいなんて大それたことは思っていない。告白しようと思ったことももちろんなかった。
だって、相手は七歳も年上なんだ。それに慎兄さんは昔からすごくモテていたし、そんな慎兄さんが僕を親友の弟以上に見てくれるはずがない。
(わかってるけど、やっぱり諦めきれないっていうか……)
それでも慎兄さんが都会に行ったときに一度は諦めた。思い出すとつらくなるから、最初のうちはできるだけ思い出さないようにもした。ここ二、三年はようやく「懐かしいなぁ」なんて写真を眺めたりできるようになったけど、今日からまた少しだけつらくなるような気がする。
(だって、実際に会ったら昔の気持ちを思い出してしまうっていうか)
小学生のときは慎兄さんのことばかり考えていた。会うのは恥ずかしいのに会えないと悲しくなる。だから、いつもこっそり覗き見なんてことまでしていた。そんな僕に気づいた慎兄さんがニコッと微笑んでくれるのがたまらなく好きだった。
(そう、ずっとずっと好きだったんだ)
でも、好きなままでいても仕方がない。中学生になってそれがわかった。だから忘れようと努力した。それなのに今日会ってしまったせいで昔の気持ちが蘇ってしまった。
(しかも前よりもっと好きになってたなんて)
きっとずっと我慢してきたせいだ。“片思いだった人”は“いまでも一番好きな人”になってしまった。
(いまさらそんなこと思ってもどうにもならないのになぁ)
僕みたいな田舎者はかっこいい慎兄さんの隣にはふさわしくない。しかも僕は男で立派な大人でもない。
(壱夜兄さんみたいな大人の男だったら、少しは違ってたのかな)
壱夜兄さんは優しくて大人で、それに弟の僕から見ても綺麗な人だ。女性的じゃないのに、かっこいいっていうよりも綺麗って言葉が似合う大人の男だと思う。
(だから靜佳と付き合ってるって聞いたときも変だとは思わなかった)
むしろお似合いだと思った。靜佳は小学二年生のときに海外から引っ越してきた幼馴染みだ。生まれたときから海外暮らしだったからか、子ども心になんて大人っぽいんだろうと思ったのを覚えている。
そんな靜佳と壱夜兄さんは恋人だ。二十六歳と三十二歳なんてそれなりの年の差だと思うけど全然そんな感じがしない。むしろ大人の恋人という感じで素敵だなぁといつも思っている。
二海兄さんだってチャラチャラしているけど高校のときはイケメンで有名だった。ファンクラブもあったみたいだし、いまでもすぐナンパされるんだって優美ちゃんが嫉妬するくらいにはモテるらしい。
(それに比べて僕は……)
小さい頃から何をしても自信が持てなかった。年が離れているから兄さんたちは可愛がってくれたけど、外に出たらただの冴えない男でしかない。人見知りで社交的でもないし、そんなだからモテたことなんて一度もなかった。兄さんたちとばかり一緒にいたから友達と呼べる人もほとんどいない。
そんな僕がかっこよくてお洒落な慎兄さんと付き合うとか……。
(ないない)
あまりにもあり得なさすぎて思わずブンブンと頭を振った。
(そもそも幼稚園のときからずっと好きだったなんて、慎兄さんが知ったらドン引きだよ)
だから、僕がずっと好きだったってことは絶対に気づかれないようにしないと駄目だ。
「……髪、どうしようかなぁ」
慎兄さんは「また切りにおいで」と言ってくれたけど、僕から連絡することはできそうにない。今日いた三人のお客さんも想像どおりお洒落な感じで、働いている美容師の人たちもみんな素敵だった。そんなお店にまた行くのかと想像するだけで気後れしてしまう。
(うん、また行くなんて僕には無理だ)
おじさんにはびっくりされそうだけど、伸びてきたらいつもの床屋に行こう。何度か切っているうちにお洒落な色の部分もなくなるはず。そうしたらいつもの僕に戻って、そのうちお洒落な髪にしたことも忘れるに違いない。
せっかく連絡先を交換したけどメッセージを送ることはない気がする。わかっていたことなのに残念な気持ちもあって、スマホの画面をそっと撫でた。
296
あなたにおすすめの小説
ダブルパーソナリティ
ユーリ
BL
「おやすみ、菜乃。また明日」
両腕を失った菜乃は義手と共に心身を療養させるためにサナトリウムにいた。そこに書類上の夫が現れ「本当の夫婦になりたい」と言ってきてーー初めて顔を合わせるふたりは、少しずつ距離を縮めてゆく。
もう観念しなよ、呆れた顔の彼に諦めの悪い僕は財布の3万円を机の上に置いた
谷地
BL
お昼寝コース(※2時間)8000円。
就寝コースは、8時間/1万5千円・10時間/2万円・12時間/3万円~お選びいただけます。
お好みのキャストを選んで御予約下さい。はじめてに限り2000円値引きキャンペーン実施中!
液晶の中で光るポップなフォントは安っぽくぴかぴかと光っていた。
完結しました *・゚
2025.5.10 少し修正しました。
神楽
立樹
BL
谷川彰也は、大学でも美形で人の注目を集めている近松神楽にモーニングコールをしている。
ただ、モーニングコールをするだけの仲だった。ある日、コールをしていることがバレてしまった。
彰也も近松に言っていない秘密があって……。
サンタからの贈り物
未瑠
BL
ずっと片思いをしていた冴木光流(さえきひかる)に想いを告げた橘唯人(たちばなゆいと)。でも、彼は出来るビジネスエリートで仕事第一。なかなか会うこともできない日々に、唯人は不安が募る。付き合って初めてのクリスマスも冴木は出張でいない。一人寂しくイブを過ごしていると、玄関チャイムが鳴る。
※別小説のセルフリメイクです。
あなたのいちばんすきなひと
名衛 澄
BL
亜食有誠(あじきゆうせい)は幼なじみの与木実晴(よぎみはる)に好意を寄せている。
ある日、有誠が冗談のつもりで実晴に付き合おうかと提案したところ、まさかのOKをもらってしまった。
有誠が混乱している間にお付き合いが始まってしまうが、実晴の態度はいつもと変わらない。
俺のことを好きでもないくせに、なぜ付き合う気になったんだ。
実晴の考えていることがわからず、不安に苛まれる有誠。
そんなとき、実晴の元カノから実晴との復縁に協力してほしいと相談を受ける。
また友人に、幼なじみに戻ったとしても、実晴のとなりにいたい。
自分の気持ちを隠して実晴との"恋人ごっこ"の関係を続ける有誠は――
隠れ執着攻め×不器用一生懸命受けの、学園青春ストーリー。
【完結】ネクラ実況者、人気配信者に狙われる
ちょんす
BL
自分の居場所がほしくて始めたゲーム実況。けれど、現実は甘くない。再生数は伸びず、コメントもほとんどつかない。いつしか実況は、夢を叶える手段ではなく、自分の無価値さを突きつける“鏡”のようになっていた。
そんなある日、届いた一通のDM。送信者の名前は、俺が心から尊敬している大人気実況者「桐山キリト」。まさかと思いながらも、なりすましだと決めつけて無視しようとした。……でも、その相手は、本物だった。
「一緒にコラボ配信、しない?」
顔も知らない。会ったこともない。でも、画面の向こうから届いた言葉が、少しずつ、俺の心を変えていく。
これは、ネクラ実況者と人気配信者の、すれ違いとまっすぐな好意が交差する、ネット発ラブストーリー。
※プロットや構成をAIに相談しながら制作しています。執筆・仕上げはすべて自分で行っています。
彼はオレを推しているらしい
まと
BL
クラスのイケメン男子が、なぜか平凡男子のオレに視線を向けてくる。
どうせ絶対に嫌われているのだと思っていたんだけど...?
きっかけは突然の雨。
ほのぼのした世界観が書きたくて。
4話で完結です(執筆済み)
需要がありそうでしたら続編も書いていこうかなと思っておいます(*^^*)
もし良ければコメントお待ちしております。
⚠️趣味で書いておりますので、誤字脱字のご報告や、世界観に対する批判コメントはご遠慮します。そういったコメントにはお返しできませんので宜しくお願いします。
フローブルー
とぎクロム
BL
——好きだなんて、一生、言えないままだと思ってたから…。
高二の夏。ある出来事をきっかけに、フェロモン発達障害と診断された雨笠 紺(あまがさ こん)は、自分には一生、パートナーも、子供も望めないのだと絶望するも、その後も前向きであろうと、日々を重ね、無事大学を出て、就職を果たす。ところが、そんな新社会人になった紺の前に、高校の同級生、日浦 竜慈(ひうら りゅうじ)が現れ、紺に自分の息子、青磁(せいじ)を預け(押し付け)ていく。——これは、始まり。ひとりと、ひとりの人間が、ゆっくりと、激しく、家族になっていくための…。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる