【連載版】おかえりなさい。どうぞ、お幸せに。さようなら。

石河 翠

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ありがとう。すまない。愛している。(前)

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 ――やがて世界を救う英雄となる――

 めでたいはずの神託は、俺から愛するひとをみんな奪っていった。


 ***


 そもそも神託なんて、信じてはいなかった。正直に言って、あまりにも奇怪で異様なものにしか見えなかったからだ。神とやらが本当にこの世に存在するというのなら、神託なんて御大層なものを授けずに自分自身の手で世界を良くするべきだと思う。

 面倒くさいのか、あるいは神が力をふるうにはこの世界は脆弱すぎるのか。だが神託なんてものが存在するから、この世界は余計によどんでいるような気がした。いっそおかしな介入などせずに放っておけばよいものを。まったく忌々しい。

 神託で幸せになった人間がどれだけいるのか、俺は知らない。少なくとも俺は、この世界に生まれ落ちた瞬間から、不幸だった。

 俺の母親は、「英雄を産むことになる」という神託を受けていたそうだ。その結果、どうなったのか。察しが良い人間ならすぐにわかると思う。母は、まだ少女と言って差し支えのない時分に王家に召し上げられ――正確には、王命という名の脅迫により家族から引き離され――、望まぬままに身体を汚された。

 もちろん愛情など存在するはずもない。ただ、未来の英雄を孕むために行われた行為。俺だって、腐っても王族だ。王族や貴族の婚姻は、血と家を繋ぐためのものだと理解している。国王――父とは呼びたくもない――は、万が一にも「英雄」の身に、別の国の王族の血が混じる可能性を潰しておきたかったのだろう。もしもそんな事態に陥れば、自国の基盤が不安定になるのだから。

 それでも、もう少し待つことはできなかったのか。身体が十分に成長していれば、母は俺を産み落とした後も生きていられたかもしれないのに。子どもさえ生まれてしまえば用済みだとばかりに、母体を軽んじた侍医たちにひとの命を預かる資格などない。もちろんそれを命じた国王に、王たる資格があるはずがないのだ。

 とはいえ、時々違う考えを持つことだってある。あんな糞みたいな国王に無理矢理召し上げられたのだ。望まぬまま産まされた俺をこれからずっと育てることを強要されていたなら、母は正気を失っていたかもしれない。生きてさえいればと言うのはたやすいが、空想の世界に逃げねばならぬほど現実が過酷であるのならば、いっそこの世に別れを告げられたことは、母にとってわずかばかりの幸運だったようにも思える。そう考えると、汚らわしい俺の姿を延々と見せずに済んだことは、最初で最後の親孝行だったのかもしれなかった。

 母の命と引き換えに生まれてきた俺だが、俺は生まれてこの方母方の祖父母と血縁らしい交流をしたことがない。母方の祖父母は、俺に関わることを拒んだ。俺の存在さえ神託で明らかにされなければ、母はごく普通の貴族令嬢として平凡な人生が送れただろうから。

「尊き国の英雄に、我々のような凡人が関わるなど畏れ多いこと。すべて、陛下及び王家の皆さまの計らいのままに」

 それは王家にとって耳心地の良い言葉にされてはいたが、結局のところ、祖父母は母の死の原因となった俺のことを許してはいないのだろう。それもまた当然のことだと思う。だがたったひとりの味方もなく、王宮という伏魔殿に放り込まれた幼子がどんな暮らしをするか。そんなことをちらりとは考えなかったのだろうか。それとも、俺が苦しめば苦しむほど、母への弔いになると思ったのだろうか。

 どこぞの誰かも言っていたではないか。復讐は何も生まないが、復讐すれば気分は少しばかり晴れると。愛娘を奪われ怒りに震える祖父母の気持ちもわからないではなかった。

 だが結局のところ、俺が成人してしばらくするまで国の危機と呼ばれる事態は起きることがなかった。隣国との国境付近できな臭い動きは続いていたが、それも長年の小競り合いにより見慣れたもの。

 だからこそ、俺の待遇は年々悪くなっていった。母の実家の後ろ盾もない中で、未来の英雄だからと割り当てられていた予算もどんどん削られていく。それでも、変わり者の異母兄のおかげで王族として最低限の暮らしはできるのだ。何の問題もない。俺はひとり静かに王宮で粛々と過ごしていた。


 ***


 転機が訪れたのは、彼女の存在が明らかになった時だった。

 神殿の奥深くに、「災厄」と呼ばれる少女がいることを耳にした。「英雄」は国家の危機に出現するもの。対峙する存在がないのは不思議なことだと思っていたが、なんと彼女が幼いときに神殿が引き取って「保護」していたらしい。ようやっと自分の出番が来た、とはとても思えなかった。

 未来の英雄と予言された、名ばかりとはいえ王族たる自分の扱いでさえこのようなものだというのに、「災厄」と呼ばれた少女がどのような扱いを受けているのか。想像しただけで背筋が凍った。生きていれば御の字、そう言わざるをえない生活をしているだろうことは間違いない。

 慌てて異母兄の元へ向かった。異母兄は、自分勝手な王族の中で唯一俺のことを気にかけてくれていた人徳者だ。心から尊敬していたし、異母兄にならこの国を任せられると信じていた。だからこそ臣下として役に立てるように剣の腕も磨いてきた。けれど、俺を出迎えた異母兄は、俺が神殿で「保護」されている少女について言及すると苦虫を噛みつぶしたような顔をする。どうやら、異母兄は彼女の存在を最初から把握していたらしい。

 それならばなぜ早く知らせなかったのかと問えば、異母兄は口を歪ませて何やらまくしたててきた。「災厄」と予言された少女が見つかったのだと明らかになれば、「英雄」と予言された俺の価値が上がってしまう。そうすると、王太子に推挙されるのが異母兄ではなく俺になってしまうのではないか。それを恐れたのだと。なんとも婉曲で難しい言い回しが駆使されていたが、平たく言えばそういう話だった。

 なんだ、そんなことだったのかと呆れた。どうせ「英雄」というのは、使い捨てにされる政治の駒なのだというのに。まさか異母兄が、暗闇の中にありもしない鬼の形を見ていたとは。英雄が国王になることなど、お伽噺の中でしかありえない。国を興すところから始めれば話は別かもしれないが、代々王位を引き継ぐような国の中ではありえないことなのだ。

 戦いの才と政の才は違う。賢い異母兄にそれがわからぬはずがないだろうに、それでも異母兄は神託を恐れた。俺のことをただひとりわかってくれていると思っていたはずの異母兄が、結局俺のことを信頼などしていなかったのだと知り肩を落とした。

 王位なんて、興味はなかった。せめて、異母兄の役に立てたなら十分だった。異母兄に必要とされたなら、俺にも生まれてきた意味があると思えたからだ。だが結局、異母兄も俺のことなど必要とはしていなかった。傷ついたはずなのに、涙は一粒も流れてはこない。俺は再度王位継承権を放棄すること、臣籍降下して王宮を出ていくことを強調した上で、「災厄」と呼ばれた少女を自分が保護することを認めてもらった。異母兄はまだ何か言っていたが、もはや俺が殿下を兄と呼ぶことはない。

 自分の屋敷に保護した少女は、捨てられた子猫のようだった。傷つき、すべてに怯えていた。誰も信じられず、部屋の隅で小さく震える少女が哀れだった。こんな子どもが、世界を滅ぼす「災厄」を呼ぶわけがないだろう?

 もしも彼女が「災厄」となるのなら、それは彼女がこの世界を滅ぼしたいと思わせた周囲の人間が悪いのだ。だって当然じゃないか。生まれてから一度も自分に優しくなかった世界を、誰が愛せるだろう。俺だって同じだ。この世界を救ってくれなんて言われたところで、守ろうだなんて露ほども思わない。むしろ、こんな醜悪な神託とやらを心底ありがたがっている世界など、滅んでしまってもいいとさえ考えている。

 目の前の子どもよりも、俺の方がよほど「災厄」だ。深く息を吐き、もう一度ゆっくりと息を吸った。かび臭い、ほこりっぽい臭いが充満していた神殿の奥からはもうとっくに出てきているはずなのに、胸が痛くてたまらない。

 せめて自分だけは味方になってやりたいと思った。彼女がこの世界の滅びを望まぬほどに心穏やかに暮らすことができれば、自分もこの世界を憎まずに済むような気がした。傷ついた彼女を幸せにすることで、かつての幼い自分を慰めたかったのかもしれない。結局俺は誰よりも身勝手な理由で、彼女を俺の元に引き取ったのだ。
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