【連載版】おかえりなさい。どうぞ、お幸せに。さようなら。

石河 翠

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ありがとう。すまない。愛している。(中)

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 彼女との生活は、とても静かで穏やかなものだった。少しずつ警戒心を解いていく様子に、そういえば殿下も、最初に会った時はこんな風に近づいてきたのだと思い出した。何がいけなかったのだろうか。俺がもっとひとの心の機微を理解していれば、殿下に恐れられずにすんだのだろうか。

 反省を踏まえて、優しく優しく。子どもが泣かずに済むように。穏やかに夜、眠りにつくことができるように。美味しいご飯を、お腹いっぱい食べられるように。子どもが子どもらしく気兼ねなく過ごせるように。

 それだけを意識して彼女に接する。彼女が笑ってくれるだけで、じくじくと痛む胸の痛みも和らいだ。時々、妙に距離感が近いような気もしたけれど、頼れる人間がようやくできたから甘えているだけだろうと思っていた。まさか彼女が成人していたとは。年齢を知り、慌てて淑女に対する距離感に切り替えようとしたが、時既に遅し。

 そもそもとっくに俺の方が、彼女に惹かれていた。「災厄」なんてとんでもない。彼女ほど、清らかなひとを俺は見たことがなかった。今の彼女が微笑みかければ、国王だって大神官だって彼女にひざまずくだろう。かつて彼女が神殿で虐げられていたのは、妻帯できない神官たちが己の欲に負けそうだったからに違いない。厳しい戒律を破ってしまいそうになるその恐れを、無垢な彼女に暴力としてぶつけていたのだ。

 だからこそ、まともな人間として彼女に手を出すわけにはいかなかった。彼女の生育環境につけこんで、その身体を好きに貪るなど獣にも劣る行為だ。それに万が一にも、彼女が子どものために命を落とすようなことがあったら、俺は耐えられない。彼女にそばにいられるなら、一生清い関係でも構わないと思っていた。まあ結局のところ、俺の理性とやらは彼女の涙であっさり崩壊したわけなのだけれども。

 戦で血まみれになっても正気を失わずに済んだのは、夢の中では甘い匂いのする彼女に会えたからだ。俺には、俺の帰りを待ってくれるひとがいる。それだけで終わりのない戦いにも立ち向かうことができた。けれど、ある日俺たちは敵襲に遭ってしまった。

 俺自身は辛くも難を逃れたが、戦闘に巻き込まれて負傷した部下が大量にいた。その中でも一番の重傷者を背負い、少しずつ撤退することにした。敵の目を逃れるため、まともとは言い難い獣道を進んでいく。その日は、後ろが崖下になっている場所での野営だった。何か食べられるものはないか。そろりそろりと探索をしていたときのこと。

 いきなり背中に衝撃が走った。状況も理解できないまま、ただ「あ」とひとつ声を発し、俺は崖下へ落下した。ちらりと見えたのは、俺が背負っていたはずの部下の後姿だった。真面目で実直な部下だ。最近結婚したばかりで、もうすぐ子どもも生まれると聞いていた。

 なぜという想いと、ああやっぱりという想いがまじりあい、俺は薄く笑う。あの部下がもともと王宮の近衛にいたことを、俺はたまたま知っていた。近衛が戦場の最前線に出されるなんて珍しいこともあるものだと思ったからだったが、なるほど。実家や家族を人質にとられていたのかもしれない。

 異母兄は、そこまで俺を疎ましく思っていたのか。それが悲しくて、そして彼女の元に戻れないことが申し訳なくて、視界がぼやけた。それが俺が覚えている最後の記憶だ。崖下にはおあつらえむきに川が流れていて、俺は夜の濁流に飲み込まれていった。


 ***


 気が付いた時、俺は国境から遠く離れた場所に流れ着いていた。命が助かったのは、奇跡としか言いようがない。けれどその代わりとでも言うのだろうか、大切にしていた剣帯がなくなっていた。

 実は俺が見つけられたのは、なくなった剣帯のおかげらしい。闇夜にぼんやりとほのかに光っているのに気が付き近寄ってみたところ、俺が川岸に倒れていたそうだ。俺を引き上げた途端、役目は終わったと言わんばかりに剣帯が光になって消えていったというから驚きだ。そんなことがあってたまるかという想いと、だから命が助かったのかという想いがまぜこぜになる。やはり、神とやらは実在するのかもしれない。

 ありがとう。俺は、また君に救われたみたいだ。俺は君を守ると誓ったのに、いつも俺が守られてばかりじゃないか。

 俺を助けてくれたのは、風変わりな「聖女」だった。「聖女」だというのに、お付きの神殿騎士も神官もいない。どういうわけかと尋ねてみれば、お飾りの聖女などごめんだと逃げ出してきたのだという。

 ずいぶん危機管理がしっかりしているなと思った。人間は、誰しも物事をつい楽観的に考えてしまう。初動を見誤り、身動きがとれなくなることも多い。例えば、母のように。俺のように。彼女のように。目の前の聖女が神殿の手から逃げおおせたことが、少しだけ痛快だった。痛い目に遭わなければ学習できない場合が多い中、聖女は正しい判断をしている。もしかしたら、身近で失敗した人間でもいたのかもしれないと思うほどに。

 神殿に関わりたくないというわりに、聖女は実に聖女らしかった。神殿を否定したくせに、どうしてそんなことをするのか。俺には理解できない。けれど、聖女は当然のように言ってのける。

「わたしは『聖女』であり、あなたは『英雄』ですから」
「……神託というあいまいなものに、自分のすべてを預けるような真似はしたくないのだがな」

 また神託か、というのが本音だった。誰もかれもが神託を信じすぎてはいないだろうか。うろんな眼差しをしていたのだろう、聖女は少しばかり苦笑しながら小さくうなずいた。

「その考え方は、間違ってはいないでしょう。神託は、必ずしも訪れる未来を伝えているわけではありません。受け取った神託をどう解釈するのか、どう行動するのかは、人間に委ねられています」
「よくわからないが、まあ好きにしてくれ。助けてくれたお礼に、祖国までの用心棒役はしっかりこなすから。だがその先は、悪いがまた別の人間を雇ってくれ」
「約束ですよ?」
「破れないように、ご丁寧に誓約魔法をかけてきたのはそちらだろう」
「ああ、そうでしたね。すみません。でも、大丈夫ですよ、わたしもこの旅の終わりは近づいています。大切なひとに会えるはずなのです。あなたも、わたしも」
「とんでもない自信だ。どうしてそう心から信じられるんだ」
「だってわたしたちは、善き行いをしているでしょう? だからきっと大丈夫です」

 そこで、面紗の下で聖女が微笑みかけてきたのがわかる。少し、苦手だと思った。悪いひとではないのだ。ただ誰からも愛されて育ったことがわかる発言のすべてがまぶしすぎて、居心地が悪い。俺とは根本的な部分でわかりあえないような気がした。

 おかげさまで、聖女と祖国に向かっている間に俺にも大層なあだ名がついた。「英雄」も「勇者」も実に自分から遠い単語だ。俺は、世界を救いたいなんて思ってはいない。助けたいのは、彼女ただひとりだけ。彼女さえいればいい。彼女こそが、俺の世界なのだから。正しく生きていれば、善き行動を心がけていれば、すべてきっとうまくいくと信じているような聖女には口が裂けても言えなかったが。

 森に出現する魔獣を倒した。
 早く。

 街道に現れる賊を討伐した。
 早く。早く。

 病に苦しむ人々のために薬草を集めた。
 早く。早く。早く。

 どれだけ頑張っても、助ける相手は無限に湧いてくる。こんなことをしている場合ではないのに。彼女が、たったひとりで俺の帰りを待っているのに。

 けれど俺は、聖女と約束を交わしてしまっている。誓約魔法を破れば、その代償は死だ。聖女さえいなければ。恩人のはずの聖女が時々憎たらしくなる。それを必死で抑えながら、少しずつ国へ近づいていった。仲間も加わり、さらに歩みは遅くなる。

 祖国は悪しき竜に支配されているらしい。周辺の国に住む人々は、口々に竜への憎しみを語った。竜に怪我をさせられた人々はどれだけ竜が醜悪な生き物かを語っていたし、竜によって身内を亡くした人々は涙をひたすら流していた。竜は問答無用で炎を吐き、すべてを焼き尽くすのだという。

 聖女は彼らの話を親身になって聞いていたが、俺は話を聞けば聞くほど、早く国へ戻らなければと焦るばかりだった。そんな恐ろしい場所で、彼女はどうやって暮らしているのだろう。最悪の想像が頭をよぎり、時々意味もなく叫びたくなる。

 そうして予想よりもずっと長い時間をかけて、俺は帰ってきた。祖国までたどり着いた時、俺は早々にとんでもないものを見た。見てしまった。国の象徴たる王城は、影も形もなかった。目に入るのは下町の店や家屋だけ。貴族街も軒並み焼け落ちている。王家の所有する森――俺が譲り受け、屋敷を立てた場所――も無事だとはとても思えなかった。

 もしや、君はとっくに?

 それだけでも動揺するには十分だったというのに、すぐ近くで大きな悲鳴が聞こえた。慌てて駆けつけてみれば、そこにいたのは真っ黒な竜だった。噂に聞く竜は話だけでも反吐が出そうなほど禍々しいと思っていたはずなのに、きらめく夜空のような姿に目を奪われる。この竜こそがまごうことなき「災厄」であるにもかかかわらず、見惚れていたという事実が恥ずかしくて、悔しくて、目の前が赤くなった。

 ――騎士さま――

 そう呼ばれた気がした。黒い竜がじっとこちらを見ている。ふわりと、夢の中で散々嗅いだ、彼女のあの甘い香りがした。くらりとめまいがする。

 お前、彼女を喰らったのか?

 肌が粟立つような、髪の毛が逆立つような。この竜が彼女を屠ったというのなら。

「竜よ、覚悟しろ!」

 俺は、震える手で剣を振り上げた。「英雄」やら、「勇者」と呼ばれるようになってから、妙に切れ味が良くなったような気がする剣がぎらりと光る。

 何が、善き行いをすればだ。結局、俺は間に合わなかった。大切なものを救えなかった。それは、俺が神を信じていなかったからなのか。英雄として恥じない生き方をしていれば、彼女は救われたのか? 頭をかきむしりたくなるほどの焦燥が押し寄せる。それでもこの戦いが彼女への弔いとなるのなら。

「竜よ、この世界を焼き尽くさせるわけにはいかない!」

 情報は武器だ。王宮でも、戦場でもそうだった。思い込みで動けば命を落とす。竜に剣を向ける前に、もっと考えるべきだった。あの黒い竜が一体何をしているのか。人々はどんな風に暮らしているのか。黒い竜は、本当に「災厄」と呼ばれる悪しき存在なのか。当事者から遠く離れた人間ほど、好き勝手なことを言う。それを自分は誰よりもわかっていたはずだったのに。

 後悔先に立たず。
 それを俺はこの後、身を以て体験することになる。
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