継母になった嫌われ令嬢です。お飾りの妻のはずが溺愛だなんて、どういうことですか?

石河 翠

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第一章

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 令嬢によっては悲嘆の涙を流し続けたあげく、儚くなっていたかもしれない。けれど、ここにいたのは前世の記憶を持っているアンナだ。彼女にとって、誰からも愛されない生活というものはある意味でなじみ深いものである。アンナは悲嘆にくれることなく、淡々と少ない自分の荷物をまとめ、台所から当面の食料をかき集めて馬車に飛び乗ったのだった。

 アンナの前世は、既婚子持ちの日本人女性春香だ。その春香の人生もまた散々なものだった。夫の頼みで夢だった仕事を辞めて家庭に入り、家族のために長年働いていたはずなのに、彼女の存在は家族にとって年中無休で無償の家政婦以外の何物でもなかったのだから。

 同じ会社に勤めていた夫は、頼りがいがある男らしい男性に見えていた。結婚してしまえば、それは頼りがいがあるのではなく、自分勝手でひとの話を聞かないだけなのだとすぐに露見したのだが。

 気遣いがあるのではなく長いものに巻かれるだけの夫は、舅に先立たれた姑との同居も勝手に決めてしまった。長男なのだから、いつかは同居する可能性を考えていなかったわけではない。けれどまだ思春期で受験生の息子と娘、そしてまだ介護が必要ではない姑では、生活リズムがあまりにも違いすぎる。

 起床する時間もバラバラ、食の好みもバラバラ。仕事や塾で食事の時間だってバラバラだというのに、姑は自分が思い描く家族団らんが実現しないことに腹を立てていた。それを親のない女を嫁にもらってやったのにと春香に八つ当たりされても、春香にだってどうしようもない。何せ、パートと塾の送り迎えを維持するだけでも精一杯。物理的に時間がないのだから姑には付き合えない。

 けれど夫は、姑の機嫌が悪いのは春香の努力不足だと一刀両断した。その上、自分は仕事が忙しいからと残業ばかり。自宅に帰ってくる時間は日に日に遅くなっていく。気が付けば、長期出張に出かけていて顔を合わせるのは月に一度あるかないかくらいだ。同じ会社に働いていたからこそ、春香にはどうにも解せなかった。夫の部署は、もともと短期の出張ですら少ないのである。ここまでひとりの社員を拘束するものだろうか。

 まあ結局のところ、夫は仕事ではなく浮気にかまけていたのだが。そのことに春香が気が付いたのは本当に偶然だった。ある日、元同僚から春香宛に連絡が入ったのである。理由は、有給休暇中の夫と連絡を取りたいが、電話が繋がらないので春香から連絡を取ってもらえないかというもの。どうやら、社内で何か緊急事態が起きたようなのだ。そこで春香は、夫の長期出張というのがありもしないでたらめだということを知ったのだった。

 元同僚に確認してみれば、出張どころか、夫は毎晩残業なしで帰宅していたらしい。それならば、家に帰ってこない夫は一体どこで何をしているのか。疑問に思った春香がパートの帰りに会社近くで張り込んでみた結果、簡単にその答えを得ることができた。夫は若い女を囲い、気ままに二人暮らしを満喫していたのである。そしてそのことについて、なんら罪悪感を持つどころか、すべては至らない春香のせいだと開き直ったのだった。

 自分が外に女性を作ったのは、家が安らげないせい。家が安らげないのは、妻が姑と折り合いが悪く、子どもたちが反抗的なせい。妻が姑と折り合いが悪いのは、妻が至らないせい。子どもたちが反抗的なのは、妻の育て方が悪いせい。すべての原因を春香にされて、彼女はほとほと嫌になってしまった。

 その上、浮気を知り悲嘆にくれる春香を周囲は口々に責め立てた。浮気は男の甲斐性、ひとつやふたつ目をつぶれと言い放ったのは姑だった。姑は、まるであてこすりのように浮気相手の女性のことを褒め称えた。そのくせ離婚が決定したときに、夫は姑の面倒を愛人ではなく元妻である彼女に丸投げしようとしてきたのだから、どこまで自分を馬鹿にすれば気が済むのだろうと心底呆れたものだ。離婚してからもまだ奴隷でいると思われていたらしい。

 離婚後は親権をとるつもりだった春香だが、子どもたちにはあっさりと拒否された。行きたい学校があるので、父親について行くと決めたらしい。金も稼げない専業主婦に価値はないと突きつけられたようで、彼女は膝から崩れ落ちた。夫に裏切られたことよりも、子どもたちに内心下に見られていたという事実にこそうちのめされたのだ。

 家族とは一体何だったのだろう。何のために頑張っていたのだろう。ようやっと自由を手に入れたはずなのに、ご飯も食べられなくなった。そうしてぼんやりと過ごしていたところで風邪を引き、高熱で寝込む羽目になったのだ。体調不良の中で、食欲もなくひとりぼっち。まあその後のことは推して知るべし。おそらくは、孤独死でもしたのだろう。なんとも空しい最期である。

 だからアンナは、自分が異世界の貴族令嬢なんてものに生まれ変わったと気が付いたところで何にも期待なんてしていなかった。どうせまた今回も、ぼろぼろになって捨てられるに決まっている。そもそもこの世界で、女性の権利なんてないに等しい。家族から嫌われている状態では、きっと生きていくことさえままならない。

 だったら最初から心がすり減らないようにビジネスライクに過ごさせてもらおう。自殺する勇気はないから、静かに暮らせたらそれでいい。そう決意し新たな生活に飛び込んだのである。
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