継母になった嫌われ令嬢です。お飾りの妻のはずが溺愛だなんて、どういうことですか?

石河 翠

文字の大きさ
21 / 28
第一章

(21)

しおりを挟む
「か、母さま……? 何をおっしゃっているの? アンちゃんはとっても優しいんだよ?」
「あら、でも母さまなのは母さまだけでしょう。それが何よりの証拠よ。本当にかわいそうに。あの女の料理のせいで、倒れただなんて」
「違うよ、それはアンちゃんのせいじゃないんだってば」
「大丈夫。これからは、わたくしがあなたを守ってあげるわ」

 目の前でテッドを抱きしめて離さない麗しい女がテッドの母親だと知り、アンナはなるほどと納得した。周囲には死んでいると話していたテッドの母親が生きている、この事実だけでこの女がどれだけ危険なのかなんとなく理解できるというものだ。

「怪我はないか? 手を」
「いいえ、結構です」
「……そうか」

 差し伸べられた侯爵の手を取ることなく、ゆっくりと自力で起き上がったアンナは、侯爵にのみ聞こえるように小声でつぶやいた。

「私のことなどどうでもよいのです。それよりも早くテッドを引き離さないと」
「わたしが近づくことで、逆上されるのが一番まずい。何をするのか予想できない。わたし以外の人間には、そこまで執着しないのだが」
「なるほど。そういう方ですのね」

 息子が大事なら死ぬ気で守れと怒鳴りたくなるのを必死でこらえながら、アンナはあえて淡々と返事をした。自分の思い通りにならないこと……それこそ個人の力でどうしようもない事情にまで、自分の希望に沿うべきだと無茶を言う人間はどこにでも存在する。なんとも傍迷惑なことに、テッドの母親もまたそういう人間だったらしい。

「死んでいたと言われていた人間が現れたというのに、大して驚かないのだな」
「これでも多少は驚いておりますよ」

 まあ驚いたのは、相思相愛のおしどり夫婦というかつての侯爵夫妻の話がすべて作り話であったということなのだが。この調子だと、社交の場に出てこなかったのも、溺愛どころか対人トラブルを起こさないようにするための苦肉の策だったのだろう。

 そもそも死んだ扱いにされている人間というのは、前世春香の暮らす日本ではたびたび耳にした話だ。死んだと思っていた父親が実は借金を残して蒸発したクズだったとか、死んだと思っていた母親は夫に愛想を尽かして出ていっていただけだったとか。時代によっては珍しくもなんともなかった。

 なんだったら、前世の春香は離婚後しばらくしてから死んだが、夫の実家周辺では都合よく元夫は妻と死別したということにでもなっているに違いない。なにせ浮気をして離婚からの再婚ではご近所からの嘲笑の的だが、最愛の妻に先立たれ涙に暮れていたところを慰めた後妻という形であればこの上ない美談になるのだから。

「さあ、今日からはまた家族三人で暮らしましょう。わたくし、お料理が上手になったのよ。テッドの大好きなレモンパイを作ってあげるわ」
「僕、レモンパイは嫌いです!」
「ふわふわのメレンゲに、甘酸っぱいレモンカスタードクリーム。バターたっぷりのパイ生地がお口の中でさくさくと素敵な音を奏でるの」
「うっ」

 テッドの母親には小声で話すアンナと侯爵の会話はもちろんのこと、先日食事会で倒れたことを思い出して青い顔をするテッドのうめき声さえ聞こえないらしい。まあ、正確には聞こえていないのではなく、聞く気がないだけなのだが。春香の元夫もそうだったが、ひとの話を聞かない人間は自分以外の人間も自分と同じように感情を持って生きているという感覚がないのだ。自分以外はみな等しく、自分を彩るための背景であり、自分が不快にならないように努力すべきだと当たり前に考えている。自然すぎて、そう思っていることにさえ気が付いていないからこそ、彼らは恐ろしいのだ。

「おそらくあやつは、出産と同時に常識までひり出したのだ」
「閣下。失礼ながら、目の前の方は昔からあのような調子だったのでしょう。確かに出産も子育ても大変なことですが、誰も彼もがあのような獣になると思われては心外です」
「言葉が過ぎた。すまない。少なくともわたしが知っているテッドの母親は、このように話の噛み合わぬ状態の姿のみだ」
「……それは。いえ、今大事なのはテッドのことです」

 どことなく侯爵の言葉にひっかかりを覚えたが、その違和感は一度無視することにした。自分勝手な言葉を垂れ流す女から、どうやってテッドを引き離すか。それが問題だ。だがありがたいことに、テッドへ甘い言葉をささやいていた女は、叩きのめすべき悪女が立ち上がっていたことにようやく気が付いたらしい。今度はアンナに言葉の照準が合わせられた。

「まあ、そのような小汚い姿にならなければ、自分が侯爵夫人にふさわしくないことを理解できないだなんて、悪女というのは本当におかわいそう」

 流れるような罵倒だが、アンナは表情を変えることなく女に近づく。反論されないのは自分が正しいことの証明だと判断したのか、テッドの母親の罵詈雑言はますますひどくなった。

「なんとか言ったらどうなのかしら。ああ、全部真実ですもの。否定する術すらお持ちではないのでしょう?」

 ふふんと鼻で笑いあからさまに煽ってくる女に対して、アンナはそっと右手を伸ばす。女の矛先が自分に向いた今こそがチャンスなのだ。女は一瞬その身を強張らせたが、自分の勝ちを確信したのか後ろに下がったり、避けたりするような素振りは見せなかった。

「まあ、事実を述べられて言葉に詰まったら暴力だなんて、これだから下級貴族の女というのは、本当に下品で見苦しい生き物だこと。あちらだけではなく、頭まで緩いのね」

 正直なところ「股が緩い」なんて言葉をテッドの前で使ったら容赦なく締め上げるつもりだったが、ぎりぎり伏せられていたのであえて追及しないことにする。藪をつついて蛇が出てはかなわない。まだテッドには早い言葉なのだから。

 そしてアンナは妖精のように美しい女の顔をゆっくりと撫でた。張り手ではない。あくまで子どもの頬に触れるような優し気な手つきで、頬からドレスの胸元まで一気に撫でつけられ、一瞬女が困惑する。

 なんとなく、まさに無意識の行動なのだろう。先ほどまでアンナの右のてのひらが覆っていた頬に自身の左手を当てた。そして数秒の後に、女が絶叫したのだ。

「一体、どういうつも……ひいっ、わたくしの顔に紫色の汁が! いやあ、悪女がわたくしにこんな汚らわしいものを。ああ、なんてこと。ようやっと手に入れたドレスにまでべとべととした紫の汁が染み込んでいるなんて。あの悪女はわたくしを呪い殺すつもりなのだわ! しかもなぜか羽虫がわたくしの元に。虫なんてわたくしにはふさわしくないのよ。いやあ、悪女は魔女だったのだわ!」

 小さな羽虫を追い払いながら、悲鳴をあげてしゃがみ込む。その間にアンナはテッドの手を取り、侯爵の後ろに立たせたのだった。
しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

転生先が意地悪な王妃でした。うちの子が可愛いので今日から優しいママになります! ~陛下、もしかして一緒に遊びたいのですか?

朱音ゆうひ@11/5受賞作が発売されます
恋愛
転生したら、我が子に冷たくする酷い王妃になってしまった!  「お母様、謝るわ。お母様、今日から変わる。あなたを一生懸命愛して、優しくして、幸せにするからね……っ」 王子を抱きしめて誓った私は、その日から愛情をたっぷりと注ぐ。 不仲だった夫(国王)は、そんな私と息子にそわそわと近づいてくる。 もしかして一緒に遊びたいのですか、あなた? 他サイトにも掲載しています( https://ncode.syosetu.com/n5296ig/)

「転生したら推しの悪役宰相と婚約してました!?」〜推しが今日も溺愛してきます〜 (旧題:転生したら報われない悪役夫を溺愛することになった件)

透子(とおるこ)
恋愛
読んでいた小説の中で一番好きだった“悪役宰相グラヴィス”。 有能で冷たく見えるけど、本当は一途で優しい――そんな彼が、報われずに処刑された。 「今度こそ、彼を幸せにしてあげたい」 そう願った瞬間、気づけば私は物語の姫ジェニエットに転生していて―― しかも、彼との“政略結婚”が目前!? 婚約から始まる、再構築系・年の差溺愛ラブ。 “報われない推し”が、今度こそ幸せになるお話。

皇帝陛下の愛娘は今日も無邪気に笑う

下菊みこと
恋愛
愛娘にしか興味ない冷血の皇帝のお話。 小説家になろう様でも掲載しております。

転生皇女はフライパンで生き延びる

渡里あずま
恋愛
平民の母から生まれた皇女・クララベル。 使用人として生きてきた彼女だったが、蛮族との戦に勝利した辺境伯・ウィラードに下賜されることになった。 ……だが、クララベルは五歳の時に思い出していた。 自分は家族に恵まれずに死んだ日本人で、ここはウィラードを主人公にした小説の世界だと。 そして自分は、父である皇帝の差し金でウィラードの弱みを握る為に殺され、小説冒頭で死体として登場するのだと。 「大丈夫。何回も、シミュレーションしてきたわ……絶対に、生き残る。そして本当に、辺境伯に嫁ぐわよ!」 ※※※ 死にかけて、辛い前世と殺されることを思い出した主人公が、生き延びて幸せになろうとする話。 ※重複投稿作品※

死に戻ったら、私だけ幼児化していた件について

えくれあ
恋愛
セラフィーナは6歳の時に王太子となるアルバートとの婚約が決まって以降、ずっと王家のために身を粉にして努力を続けてきたつもりだった。 しかしながら、いつしか悪女と呼ばれるようになり、18歳の時にアルバートから婚約解消を告げられてしまう。 その後、死を迎えたはずのセラフィーナは、目を覚ますと2年前に戻っていた。だが、周囲の人間はセラフィーナが死ぬ2年前の姿と相違ないのに、セラフィーナだけは同じ年齢だったはずのアルバートより10歳も幼い6歳の姿だった。 死を迎える前と同じこともあれば、年齢が異なるが故に違うこともある。 戸惑いを覚えながらも、死んでしまったためにできなかったことを今度こそ、とセラフィーナは心に誓うのだった。

『壁の花』の地味令嬢、『耳が良すぎる』王子殿下に求婚されています〜《本業》に差し支えるのでご遠慮願えますか?〜

水都 ミナト
恋愛
 マリリン・モントワール伯爵令嬢。  実家が運営するモントワール商会は王国随一の大商会で、優秀な兄が二人に、姉が一人いる末っ子令嬢。  地味な外観でパーティには来るものの、いつも壁側で1人静かに佇んでいる。そのため他の令嬢たちからは『地味な壁の花』と小馬鹿にされているのだが、そんな嘲笑をものととせず彼女が壁の花に甘んじているのには理由があった。 「商売において重要なのは『信頼』と『情報』ですから」 ※設定はゆるめ。そこまで腹立たしいキャラも出てきませんのでお気軽にお楽しみください。2万字程の作品です。 ※カクヨム様、なろう様でも公開しています。

元貧乏貴族の大公夫人、大富豪の旦那様に溺愛されながら人生を謳歌する!

楠ノ木雫
恋愛
 貧乏な実家を救うための結婚だった……はずなのに!?  貧乏貴族に生まれたテトラは実は転生者。毎日身を粉にして領民達と一緒に働いてきた。だけど、この家には借金があり、借金取りである商会の商会長から結婚の話を出されてしまっている。彼らはこの貴族の爵位が欲しいらしいけれど、結婚なんてしたくない。  けれどとある日、奴らのせいで仕事を潰された。これでは生活が出来ない。絶体絶命だったその時、とあるお偉いさんが手紙を持ってきた。その中に書いてあったのは……この国の大公様との結婚話ですって!?  ※他サイトにも投稿しています。

婚約破棄された際もらった慰謝料で田舎の土地を買い農家になった元貴族令嬢、野菜を買いにきたベジタリアン第三王子に求婚される

さくら
恋愛
婚約破棄された元伯爵令嬢クラリス。 慰謝料代わりに受け取った金で田舎の小さな土地を買い、農業を始めることに。泥にまみれて種を撒き、水をやり、必死に生きる日々。貴族の煌びやかな日々は失ったけれど、土と共に過ごす穏やかな時間が、彼女に新しい幸せをくれる――はずだった。 だがある日、畑に現れたのは野菜好きで有名な第三王子レオニール。 「この野菜は……他とは違う。僕は、あなたが欲しい」 そう言って真剣な瞳で求婚してきて!? 王妃も兄王子たちも立ちはだかる。 「身分違いの恋」なんて笑われても、二人の気持ちは揺るがない。荒れ地を畑に変えるように、愛もまた努力で実を結ぶのか――。

処理中です...