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第一章
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「アンちゃん!」
思ったよりも勢いよく吹き飛んでしまったことに驚きつつ、アンナは慌ててテッドを振り返る。テッドは小さな身体を震わせながら、涙目でアンナを見つめていた。
「テッド、本当にごめんなさい」
「え?」
「あなたに、見せるべきではなかったわ」
「アンちゃん?」
テッドの母親をぶちのめしたことへの後悔はない。けれどこんな幼子の前で、実の母親に暴力を振るうというとんでもない場面を見せてしまった。あの女の口を封じることばかりに気をとられ、テッドへの配慮ができなかったなんて。自分を恥じながら、アンナはそっと頭を下げる。けれどテッドは、アンナにひしと抱き着いた。
「アンちゃん、守ってくれてありがとう。僕、嬉しかったよ」
「……テッド。私の方こそ、ありがとう」
怖い、近づくなと言われてもおかしくなかったはずなのだ。今、腕の中にある温かさに感謝しながら、アンナはジムに頼んだ。
「ジム、急いで護衛とともにテッドを安全な場所へ移動させて。私は聞かされていないけれど、こんな時のためのあれこれも想定されているのでしょう」
「はい、承知いたしました。奥さまは……」
「閣下と一緒に、今後の話し合いをさせていただきます。テッド、あなたのことが心配なの。ジムの言うことを聞いて待っていてくれる?」
「うん、わかった」
それに、あの女のことも確認しなくては。なぜ吹き飛ばされた女のことをジムも周りの人間も心配しないのか。その辺りのことを詳しく聞くのが怖いが、だからといって張り飛ばした本人が無視するわけにはいかないだろう。まあ警邏や女の親族に対しては、過剰防衛でごり押しする腹づもりなのだが。あんな女を野放しにしている方が悪いのだと主張させてもらおう。
ジムに連れられてテッドが出ていくと、興奮冷めやらぬ様子の侯爵が近づいてくる。
「素晴らしい。加護が発動したのだな」
加護? あれが? 一体どこのどいつがあんな暴力的な加護を授けてきたというのか。だが、そんな話は後回しだ。感極まったかのように拍手をしてくる侯爵をアンナは睨みつけた。
「私、閣下に対しても腹を立てておりますの。なぜかおわかりですか?」
「いいや。何か問題があっただろうか」
自分を娶った時もそうだったが、どうしてこの侯爵はこれほどまでに女性に対して無神経になれるのだろう。これで仕事はできるそうだから、家庭内の出来事についてのみ特化して無能になるのだろうか。前世、春香の娘が教えてくれた「ノンデリ」という単語が、脳内にふと浮かび上がる。
テッドの母親である侯爵の前妻は、完全に育児ノイローゼに陥っていたようだった。先々代の誓約だか呪いだか、侯爵夫人の心得として我が子の世話を母親がこなさなければならないというのは本当に大変なことなのだ。現代日本ですらワンオペは厳しいのに、いわんや異世界をや。
だが、ここで考えてみてほしい。使用人の手も借りることができずに、経験豊富な乳母もなしに生粋のご令嬢が育児をするなんてどう考えても無理がある。そして、子どもは女性ひとりで生まれるものではないのだ。単為生殖ができない以上、子どもには父親と母親が存在している。それならば育児で苦しむ前妻に対して、侯爵こそが手を差し伸べるべきだったのではないか?
そして、テッドへの接し方も気になる部分がある。侯爵は何かにつけて「侯爵家嫡男たるもの」という立場で接している。確かに上級貴族であれば、自分たちの行動ひとつひとつに気を配る必要があるのだろう。ちょっとしたことで足元をすくわれることになるのはよく理解できる。だが、それはそれとしてもっとわかりやすい愛情を示してやってもよいのではないだろうか。先ほどのジムへの指示だって、本来ならばアンナではなく侯爵が出してしかるべきもののはず。
「失礼ながら、閣下の行動はあまりにも配慮に欠けているように思えてなりません。私の輿入れの際にも、自分の妻になれたのだからそれで十分だろう、感謝しろと思われていたようですが。同様のことをテッドの母であるあの女性にも思われていたのではありませんか?」
「は? 違う、いや、違わない、のか? だが、君と彼女は全然違っていて!」
「何が違うのかわかりかねます。閣下、いくら閣下が女性から引く手あまたとはいえそのような考え方はいかがなものかと」
前回伝えた自分の気持ちは、なんら侯爵に響いていなかったのではないか。疑惑の眼差しでアンナは侯爵を見つめる。窮地に追い込まれたかのごとく秀麗な美貌を歪ませた侯爵は、たまりかねたように言い放った。
「だが、血が繋がっているという理由だけで、顔も知らぬ兄だか弟だかの尻拭いを散々させられてきているのだぞ。ようやっとあらかた片付いたと胸を撫でおろしていたら、今度は生まれたばかりの子どもを抱えた厄介な女を押し付けてくるなんて。不安定な立場となった、血の繋がった甥とその母親の生きる場所を確保するために、仕方なく結婚してやったのだ。ありがたいと思えと言いたくなっても仕方のないことではないか」
「……そんな」
侯爵の育児に対する姿勢が、どことなく他人事に見える理由。その信じられない秘密を耳にして、アンナは二の句が継げなくなったのだった。
思ったよりも勢いよく吹き飛んでしまったことに驚きつつ、アンナは慌ててテッドを振り返る。テッドは小さな身体を震わせながら、涙目でアンナを見つめていた。
「テッド、本当にごめんなさい」
「え?」
「あなたに、見せるべきではなかったわ」
「アンちゃん?」
テッドの母親をぶちのめしたことへの後悔はない。けれどこんな幼子の前で、実の母親に暴力を振るうというとんでもない場面を見せてしまった。あの女の口を封じることばかりに気をとられ、テッドへの配慮ができなかったなんて。自分を恥じながら、アンナはそっと頭を下げる。けれどテッドは、アンナにひしと抱き着いた。
「アンちゃん、守ってくれてありがとう。僕、嬉しかったよ」
「……テッド。私の方こそ、ありがとう」
怖い、近づくなと言われてもおかしくなかったはずなのだ。今、腕の中にある温かさに感謝しながら、アンナはジムに頼んだ。
「ジム、急いで護衛とともにテッドを安全な場所へ移動させて。私は聞かされていないけれど、こんな時のためのあれこれも想定されているのでしょう」
「はい、承知いたしました。奥さまは……」
「閣下と一緒に、今後の話し合いをさせていただきます。テッド、あなたのことが心配なの。ジムの言うことを聞いて待っていてくれる?」
「うん、わかった」
それに、あの女のことも確認しなくては。なぜ吹き飛ばされた女のことをジムも周りの人間も心配しないのか。その辺りのことを詳しく聞くのが怖いが、だからといって張り飛ばした本人が無視するわけにはいかないだろう。まあ警邏や女の親族に対しては、過剰防衛でごり押しする腹づもりなのだが。あんな女を野放しにしている方が悪いのだと主張させてもらおう。
ジムに連れられてテッドが出ていくと、興奮冷めやらぬ様子の侯爵が近づいてくる。
「素晴らしい。加護が発動したのだな」
加護? あれが? 一体どこのどいつがあんな暴力的な加護を授けてきたというのか。だが、そんな話は後回しだ。感極まったかのように拍手をしてくる侯爵をアンナは睨みつけた。
「私、閣下に対しても腹を立てておりますの。なぜかおわかりですか?」
「いいや。何か問題があっただろうか」
自分を娶った時もそうだったが、どうしてこの侯爵はこれほどまでに女性に対して無神経になれるのだろう。これで仕事はできるそうだから、家庭内の出来事についてのみ特化して無能になるのだろうか。前世、春香の娘が教えてくれた「ノンデリ」という単語が、脳内にふと浮かび上がる。
テッドの母親である侯爵の前妻は、完全に育児ノイローゼに陥っていたようだった。先々代の誓約だか呪いだか、侯爵夫人の心得として我が子の世話を母親がこなさなければならないというのは本当に大変なことなのだ。現代日本ですらワンオペは厳しいのに、いわんや異世界をや。
だが、ここで考えてみてほしい。使用人の手も借りることができずに、経験豊富な乳母もなしに生粋のご令嬢が育児をするなんてどう考えても無理がある。そして、子どもは女性ひとりで生まれるものではないのだ。単為生殖ができない以上、子どもには父親と母親が存在している。それならば育児で苦しむ前妻に対して、侯爵こそが手を差し伸べるべきだったのではないか?
そして、テッドへの接し方も気になる部分がある。侯爵は何かにつけて「侯爵家嫡男たるもの」という立場で接している。確かに上級貴族であれば、自分たちの行動ひとつひとつに気を配る必要があるのだろう。ちょっとしたことで足元をすくわれることになるのはよく理解できる。だが、それはそれとしてもっとわかりやすい愛情を示してやってもよいのではないだろうか。先ほどのジムへの指示だって、本来ならばアンナではなく侯爵が出してしかるべきもののはず。
「失礼ながら、閣下の行動はあまりにも配慮に欠けているように思えてなりません。私の輿入れの際にも、自分の妻になれたのだからそれで十分だろう、感謝しろと思われていたようですが。同様のことをテッドの母であるあの女性にも思われていたのではありませんか?」
「は? 違う、いや、違わない、のか? だが、君と彼女は全然違っていて!」
「何が違うのかわかりかねます。閣下、いくら閣下が女性から引く手あまたとはいえそのような考え方はいかがなものかと」
前回伝えた自分の気持ちは、なんら侯爵に響いていなかったのではないか。疑惑の眼差しでアンナは侯爵を見つめる。窮地に追い込まれたかのごとく秀麗な美貌を歪ませた侯爵は、たまりかねたように言い放った。
「だが、血が繋がっているという理由だけで、顔も知らぬ兄だか弟だかの尻拭いを散々させられてきているのだぞ。ようやっとあらかた片付いたと胸を撫でおろしていたら、今度は生まれたばかりの子どもを抱えた厄介な女を押し付けてくるなんて。不安定な立場となった、血の繋がった甥とその母親の生きる場所を確保するために、仕方なく結婚してやったのだ。ありがたいと思えと言いたくなっても仕方のないことではないか」
「……そんな」
侯爵の育児に対する姿勢が、どことなく他人事に見える理由。その信じられない秘密を耳にして、アンナは二の句が継げなくなったのだった。
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