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第28話 揺らぐ均衡
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アズーリア王都リュト。
王立学院の一室には、潮風の香りとインクの匂いが混ざり合っていた。
机上に積まれた報告書の束を前に、アレクシス・ヴァルドゥスト王太子は静かに眉をひそめた。
何枚も重なる紙の上には、世界各地から届いた記録がびっしりと並ぶ。
「……また増えたか」
彼の傍らで控えていた男――側近のラウル・エンデルが、新しい報告を差し出した。
ヴァルドゥスト王国の北方鉱山地帯、アズーリア東岸、そして遠く南方諸国。
穢素の濃度上昇を示す赤い印が、地図の上でじわじわと広がっていた。
「もはや局地的な現象ではありません」
ラウルの低い声が静寂を破る。
「自然のものか、人工的なものか……あるいは、それ自体が変異したのか。
いずれにせよ、毒素は日に日に強まっています」
アレクシスは報告書を閉じ、深く息を吐いた。
「……理が崩れつつある、ということか」
窓の外では、リュトの港が陽光を反射して白く輝いていた。
漁船が行き交い、穏やかな鐘の音が波に混じって響く。
この平穏が、いま世界のどこよりも異質であることを、彼はよく理解していた。
「不思議なものだな。
なぜ、このリュトだけが穢れに侵されぬ」
ラウルは書簡の束から一枚を抜き出し、軽く掲げる。
「三女神大教院と、“聖乙女ミサキ”の影響と見る者が多いようです」
「ミサキ嬢、か」
アレクシスは唇の端をわずかに上げた。
「最近は学院に顔を出していないな。以前、浄化の術を見たが――光魔法の腕は確かだ。
ただ、性格に難がある」
* * *
この世界は、五つの大陸と広大な海で構成されている。
それぞれの国は海で隔たれているため、長く大規模な戦争は避けられてきた。
その中で最大の国がヴァルドゥスト王国。
鉱物に恵まれてはいるが、寒冷で農地は少なく人の住める土地も限られている。
対してアズーリア王国は豊富な資源と、肥沃な土地、温暖で穏やかな気候を誇る。
かつてヴァルドゥストは資源を求め、幾度かアズーリアへ戦を仕掛けた。
しかし、どちらの国も傷を負い、今はかろうじて均衡を保っている。
その“平和の証”として、アレクシス自身が留学生としてアズーリアに滞在していた。
扉を叩く音が、思索を断ち切った。
「殿下、アズーリアの王子殿下がお見えです」
入ってきたのは、金の髪を持つ青年――レオネル・アズーリア第一王子。
その後ろに、黒衣の騎士ユリウスが控えていた。
「アレクシス殿下」
レオネルは軽く顎を引き、目の前の報告書に視線を落とす。
「……ヴァルドゥストの海域でも、穢素の濃度が限界を超えたと聞いた」
「ああ。黒い泡が海を覆い、漁師たちが倒れている。
穢素を吸った魔魚が暴走し、村がひとつ消えた」
「こちらも、王都以外の各地に似たような報告が上がっています」
ユリウスが一歩進み出て告げる。
「港近くの浅瀬では貝や魚の変色が始まり、航路の制限も検討段階です」
部屋に、重たい沈黙が落ちた。
「……穢素は自然発生するものだと、これまで信じられてきた」
レオネルが窓の外を見やりながら言う。
「だが、なぜ今になって世界中で同時に増えている? 何かの意志を感じる」
アレクシスはしばしの間沈黙し、やがて低く答えた。
「誰かが“広げている”のかもしれない。
だが確証はない。もはや、理そのものが変質しているのかもしれんな」
レオネルはゆっくりとアレクシスの方へ視線を戻した。
「……もしそれが真実なら、敵は国ではなく“世界”ということか」
「言い換えれば――毒に沈みゆく世界と、影響を受けぬリュトの対立構図だ」
アレクシスの声に微かな棘が混じる。
「どういう意味だ?」
レオネルの目に一瞬、闘志が宿った。
二人の間に走る緊張を、ユリウスが一歩前に出て和らげる。
「お二人とも……。穢素は国境を越えています。もはや一国の問題ではありません」
アレクシスは息をつき、背もたれに深く体を預けた。
「……まったく、その通りだ」
* * *
ラウルが机上に新しい地図を広げた。
そこには、世界各地の穢素発生地点が赤い印で記されている。
ヴァルドゥストから広がり、海を越えてアズーリアへ――
そして、リュトの周囲だけがぽっかりと白く残っていた。
「……リュトは奇跡の地、というわけか」
アレクシスが皮肉めいた笑みを浮かべると、レオネルが低く返す。
「奇跡ではなく、聖域だ。三女神大教院の結界が作用しているとも言われている」
アレクシスは興味深げに顎をなぞった。
「聖乙女と大教院、か。ところで……先日“不可侵領域”の浄化に同行したという女性――“アコ”。
彼女は、どういう人物なのだ?」
ユリウスがレオネルに視線を投げ、レオネルが小さく頷く。
「公にしておりませんので、あくまで内密に願います……。
彼女は聖乙女と共に召喚された異界の人間です。
料理人で、食材の毒の有無を見抜く力を持っています」
「食材の毒を見抜く?」
アレクシスの瞳が一瞬、鋭く光る。
「それは、ただの料理人の技とは思えんな」
レオネルが口元に穏やかな笑みを浮かべる。
「確かに。付け足しますと、まだ見習いの料理人です」
アレクシスは小さく肩をすくめた。
「面白い。理の外から来た者が、理の歪みを見抜く……か」
ラウルが低声で問う。
「どうなさいますか、殿下」
「まずは観察だ」
アレクシスは地図を見下ろし、赤く染まった海を指先でなぞった。
「……海は国境を選ばない。そして、理は気まぐれだ。このままでは、すべての大陸が毒に沈むだろう」
その言葉を区切るように、リュトの港から鐘の音が響いた。
穏やかで、美しい音。
けれど、アレクシスにはそれが――世界の崩壊を告げる合図のように聞こえた。
王立学院の一室には、潮風の香りとインクの匂いが混ざり合っていた。
机上に積まれた報告書の束を前に、アレクシス・ヴァルドゥスト王太子は静かに眉をひそめた。
何枚も重なる紙の上には、世界各地から届いた記録がびっしりと並ぶ。
「……また増えたか」
彼の傍らで控えていた男――側近のラウル・エンデルが、新しい報告を差し出した。
ヴァルドゥスト王国の北方鉱山地帯、アズーリア東岸、そして遠く南方諸国。
穢素の濃度上昇を示す赤い印が、地図の上でじわじわと広がっていた。
「もはや局地的な現象ではありません」
ラウルの低い声が静寂を破る。
「自然のものか、人工的なものか……あるいは、それ自体が変異したのか。
いずれにせよ、毒素は日に日に強まっています」
アレクシスは報告書を閉じ、深く息を吐いた。
「……理が崩れつつある、ということか」
窓の外では、リュトの港が陽光を反射して白く輝いていた。
漁船が行き交い、穏やかな鐘の音が波に混じって響く。
この平穏が、いま世界のどこよりも異質であることを、彼はよく理解していた。
「不思議なものだな。
なぜ、このリュトだけが穢れに侵されぬ」
ラウルは書簡の束から一枚を抜き出し、軽く掲げる。
「三女神大教院と、“聖乙女ミサキ”の影響と見る者が多いようです」
「ミサキ嬢、か」
アレクシスは唇の端をわずかに上げた。
「最近は学院に顔を出していないな。以前、浄化の術を見たが――光魔法の腕は確かだ。
ただ、性格に難がある」
* * *
この世界は、五つの大陸と広大な海で構成されている。
それぞれの国は海で隔たれているため、長く大規模な戦争は避けられてきた。
その中で最大の国がヴァルドゥスト王国。
鉱物に恵まれてはいるが、寒冷で農地は少なく人の住める土地も限られている。
対してアズーリア王国は豊富な資源と、肥沃な土地、温暖で穏やかな気候を誇る。
かつてヴァルドゥストは資源を求め、幾度かアズーリアへ戦を仕掛けた。
しかし、どちらの国も傷を負い、今はかろうじて均衡を保っている。
その“平和の証”として、アレクシス自身が留学生としてアズーリアに滞在していた。
扉を叩く音が、思索を断ち切った。
「殿下、アズーリアの王子殿下がお見えです」
入ってきたのは、金の髪を持つ青年――レオネル・アズーリア第一王子。
その後ろに、黒衣の騎士ユリウスが控えていた。
「アレクシス殿下」
レオネルは軽く顎を引き、目の前の報告書に視線を落とす。
「……ヴァルドゥストの海域でも、穢素の濃度が限界を超えたと聞いた」
「ああ。黒い泡が海を覆い、漁師たちが倒れている。
穢素を吸った魔魚が暴走し、村がひとつ消えた」
「こちらも、王都以外の各地に似たような報告が上がっています」
ユリウスが一歩進み出て告げる。
「港近くの浅瀬では貝や魚の変色が始まり、航路の制限も検討段階です」
部屋に、重たい沈黙が落ちた。
「……穢素は自然発生するものだと、これまで信じられてきた」
レオネルが窓の外を見やりながら言う。
「だが、なぜ今になって世界中で同時に増えている? 何かの意志を感じる」
アレクシスはしばしの間沈黙し、やがて低く答えた。
「誰かが“広げている”のかもしれない。
だが確証はない。もはや、理そのものが変質しているのかもしれんな」
レオネルはゆっくりとアレクシスの方へ視線を戻した。
「……もしそれが真実なら、敵は国ではなく“世界”ということか」
「言い換えれば――毒に沈みゆく世界と、影響を受けぬリュトの対立構図だ」
アレクシスの声に微かな棘が混じる。
「どういう意味だ?」
レオネルの目に一瞬、闘志が宿った。
二人の間に走る緊張を、ユリウスが一歩前に出て和らげる。
「お二人とも……。穢素は国境を越えています。もはや一国の問題ではありません」
アレクシスは息をつき、背もたれに深く体を預けた。
「……まったく、その通りだ」
* * *
ラウルが机上に新しい地図を広げた。
そこには、世界各地の穢素発生地点が赤い印で記されている。
ヴァルドゥストから広がり、海を越えてアズーリアへ――
そして、リュトの周囲だけがぽっかりと白く残っていた。
「……リュトは奇跡の地、というわけか」
アレクシスが皮肉めいた笑みを浮かべると、レオネルが低く返す。
「奇跡ではなく、聖域だ。三女神大教院の結界が作用しているとも言われている」
アレクシスは興味深げに顎をなぞった。
「聖乙女と大教院、か。ところで……先日“不可侵領域”の浄化に同行したという女性――“アコ”。
彼女は、どういう人物なのだ?」
ユリウスがレオネルに視線を投げ、レオネルが小さく頷く。
「公にしておりませんので、あくまで内密に願います……。
彼女は聖乙女と共に召喚された異界の人間です。
料理人で、食材の毒の有無を見抜く力を持っています」
「食材の毒を見抜く?」
アレクシスの瞳が一瞬、鋭く光る。
「それは、ただの料理人の技とは思えんな」
レオネルが口元に穏やかな笑みを浮かべる。
「確かに。付け足しますと、まだ見習いの料理人です」
アレクシスは小さく肩をすくめた。
「面白い。理の外から来た者が、理の歪みを見抜く……か」
ラウルが低声で問う。
「どうなさいますか、殿下」
「まずは観察だ」
アレクシスは地図を見下ろし、赤く染まった海を指先でなぞった。
「……海は国境を選ばない。そして、理は気まぐれだ。このままでは、すべての大陸が毒に沈むだろう」
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穏やかで、美しい音。
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