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◆ 第二章 異邦への旅路
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「そろそろ冷えてきたな。離宮へ戻るとするか」
陽が傾き始め、肌寒さを感じるようになってきた。夕暮れの一歩手前といった時分であるのに、東屋に吹き抜ける風は随分と冷たく感じる。叔父上と共に東屋を出て、黒珠宮の廊下へと戻る。
「お見送り致します」
「不要だ」
せめて黒珠宮の門まではと思ったが、叔父上には必要ないと一蹴される。廊下の上で向き合いながら、叔父上はじっと私の目を見た。少しばかり笑みを潜めて、真面目な表情になっている。
「幸せ気分なのは良いが、姫宮の務めも忘れぬように」
「はい。承知しております」
釘を刺しておきたかったのだろう。浮かれているばかりでは駄目だと、現実の辛さも直視するように、叔父が声をかけてくれた。それは優しさだ。私はゆっくりと頷く。姫宮の務めを忘れたことなど、今までに一度もない。
「顔つきが変わったな」
「そう……でしょうか」
「あぁ。見違えるようだ。良い旅だったのだろう」
確かに、良い旅だった。黒髪黒目の姫宮として生きること。それを改めて見つめなおせる機会が、思いがけずあったのだ。私の方に、叔父上の手が伸びる。華奢な指先が私の頬に添えられた。
「お前はもう立派な姫宮だ。己が身を差し出して、国を守る守護者だよ」
姫宮の務めのことにおいては、叔父上に褒めてもらうことが一番嬉しかった。先代である叔父上に認めてもらえることが、心が震えるほどに嬉しかったのだ。ゆっくりと離れていく指先を、名残惜しく感じる。
「兄弟たちと仲良くな」
叔父上がそう言った直後に、叔父上の背後から二人の兄がやって来るのが見えた。靴音が響く。叔父上にも聞こえたことだろう。それでも、叔父上は身を翻して去り、兄たちの横を通り抜けて行った。
「朝水叔父上、いらしていたんですね」
「あぁ、だがもう帰る。ではな」
紫蘭兄上の呼びかけに随分とそっけなく返して、叔父上は去っていく。叔父上は、紫蘭兄上を嫌っているようにみえる。顔だけは、父に似ているため好ましいと言っていたこともあるけれど、私と話すときのような朗らかさを、兄たちの前では見せないのだ。
「吉乃、叔父上と何の話をしてたんだ?」
「こら、兄上。何でも根掘り葉掘りと聞き出すものではありませんよ」
「……本当に柊弥は小煩いな」
私の前にやって来た二人の兄たち。私と叔父上の会話の内容を聞きたがる紫蘭兄上を、柊弥兄上が諫めた。紫蘭兄上は私が関わる全てのことを把握していたいのだという。二人の兄の軽妙なやり取りに、私は小さく笑ってしまった。
「叔父上に土産を買い忘れてしまって、怒られていました」
「おやおや、それは失策だったね」
「はい」
くすくすと、柊弥兄上が笑う。私も、自分が犯した失態を笑うことしか出来なかった。見事なまでに頭の中から抜けていたのだ。兄弟たちのことで一杯一杯で、完全に失念していた。叔父上が私を責めるのも当然だと思う。
「兄上たちには、ちゃんとお土産を買ってきたんです。……淡月、もう渡せるだろうか」
「すぐに支度致します」
背後に立つ淡月を振り返り見れば、淡月が礼を取りながら頭を下げる。そして、他の侍従に何事かを命じた。その侍従は、素早く動き、走るではないのに、走っているかのような速度で去っていく。おそらく、土産を取りに行ってくれているのだろう。
「では、土産が届くまでそこの太黒房(たいこくぼう)にでも入るか」
紫蘭兄上が顎で指した太黒房は、すぐそばにあった。そこは、兄弟たちが自由に使える部屋の一つだ。歓談したり、お茶をしたり、黒珠宮の主たる天瀬の王族であれば、誰でも好きに使える。
とはいえ、弟たちは黒珠宮に寄り付かず、兄たちは一日の殆どを黒烈殿で過ごすため、使用される頻度の低い部屋だった。思えば、一日中黒珠宮に入り浸るのは私くらいなものだった。
太黒房に入ると、ほのかに温かい。東屋に長く留まり風に当たったことで、体が冷えていたのだと知る。それぞれの侍従長が、それぞれの主の為に椅子を引き、私たちはそこに座る。三つの椅子が、三角形を作るような形で置かれ、その中央に茶器が用意された卓があった。
「旅の中で、何が一番思い出深いものとなった?」
香りのよい花茶を淡月が茶器に注ぐ。二人の兄にも、同じものが用意された。鼻孔をくすぐる甘い匂いが、私は堪らなく好きなのだ。匂いを嗅いで悦に入っていると、紫蘭兄上から質問が飛んでくる。
「一番……ですか、難しいですね。どこもかしこも楽しくて……。月琴の演奏を聞いたんです。道端で演奏していて、美しい音色でした。お金も、その時に初めて触れたんです」
「金、か。確かに吉乃が触れることは今までになかったかもな」
金には人の欲望が絡みつく。それゆえ、私に触らせてこなかった、と紫蘭兄上が言った。柊弥兄上も小さく頷く。どうやら私が金に触れたことがないのは、兄たちの総意ゆえだったらしい。旅の序盤を振り返り、そこから先へと進む。
「それで、えっと……黒猫が膝に乗ってきたり、美しい夕日を眺めたり。たくさん小舟に乗ったのも面白かったです。華蛇の地では、小さな子供たちに触れて……、子がいる生活もいいなと、少し思いました」
「なんだ吉乃。子供が欲しいのか? お前が清玖の子を産んでやるつもりか?」
私の発言を受けて、紫蘭兄上が揶揄うようにそんなことを言った。女性ではない私には、子を宿すための臓腑が存在しない。それくらい分かっている。紫蘭兄上の意地悪な物言いに、私はむっとした。
「私たちが睦まじくしていれば、黒闢天がそのようになさるかもしれませんね」
「……本気なのか?」
「どうでしょう」
反撃、とばかりに私も言い返す。世界でたった一人の黒髪黒目を生み出す黒闢天なのだ。もしかすると私は、世界でたった一人、男でありながら子を産む者になるかもしれない。私の発言に、紫蘭兄上は驚いた様子で、少しばかり顔を青ざめた。
「祝福が強く、吉乃と清玖の間に子が出来るようなことがあれば、我ら天瀬の兄弟は歓迎するよ」
「ありがとうございます、柊弥兄上」
青ざめた顔で、本気じゃないよな、と言ってくる紫蘭兄上とは対照的に、柊弥兄上は穏やかに頷いて、起こり得るか分からない未来の話を受け止めてくれた。私と清玖の愛が募って子が生まれるというのなら嬉しいが、それでも、積極的に子供を望む気持ちは私にはなかった。
「宮様、品のご準備が整いました」
「こちらへ」
淡月が盆を持ってきた。布がかかっており、その布の下に何があるのかは見えない。机の上に置かれたそれらを隠す布を、私は手を伸ばして取り除いた。そこにあったのは、私が選んだ二つの杯。硝子製で、とても大きな杯だった。
「ほう、これは見事だな」
「グラスというやつですね」
そうだ。グラスというのだった。流石、博識な柊弥兄上だ。なんでもご存知で、尊敬する。馴染みのない言葉たちは、私の頭に定着することなく流れて行ってしまうので、オルドローズで出会った物たちの名前を覚えるのに一苦労していた。
「こんなに大きな杯は、天瀬ではあまり見ませんから、物珍しく思い、兄上方の土産の品にと選びました」
「ありがとう、吉乃。これなら、ちびちびと酒を注がなくてもいいな」
「だからといって、大酒はいけませんよ」
「酔わないんだから、どれだけ飲んだっていいだろう」
「体に障ります」
兄上は、酒を好まれていた。泥酔するようなことはないし、悪い酔い方をする兄ではないけれど、それでも健康を憂慮する柊弥兄上の気持ちもよく分かった。それなのに、紫蘭兄上は柊弥兄上の忠告をいなして、聞く耳を持っていない。
「紫蘭兄上、どうかお酒はほどほどに。大きな杯を持参致しましたが、兄上の健康を害するためではないのです」
「分かった。酒は控えることにしよう」
「……何という身替わりの早さ。これから、兄上に諫言を申し上げるときは吉乃に代弁してもらおうかな」
「おいやめろ、柊弥」
私が懇願すると、紫蘭兄上は数秒前の己の言葉を覆し、酒は控えると言った。その有様に、柊弥兄上が眉を顰める。柊弥兄上よりも私が言う方が、紫蘭兄上は素直に聞いてくれるのであれば、それも手段の一つなのかもしれない。
「この花、ご存知ですか。天瀬にはない花で、オルドローズの国の花なんだそうです。名前はえっと……、ば……ば」
グラスに描かれた花を指さす。だが、その花の名前が出てこない。けれど、兄上たちはきっと分かってるのだ。唸りながら名前を思い出そうとする私を、頑張れ、という顔でみてくる。
「ば、ばら!」
閃いた。そうだ、ばら、だ。答えを導きだせた私に、兄上たちが拍手をしてくれる。まるで、赤子が初めて喋ったのを祝するようで、恥ずかしくなってしまう。周りの侍従たちも目じりを下げて、微笑ましいという面貌で私を見ていた。羞恥が更に募る。
「ばら、という名前だとユーリが教えてくれました。……オルドでは聴きなれない言葉がたくさんあって、少し頭が疲れてしまいました」
「でも、楽しかったんだろう?」
「はい」
力強く頷く。楽しかったことは、間違いない。旅のどの部分を思い出しても、楽しいという記憶しかなかった。それは、私の旅を快適にしてくれた淡月や葉桜たちがいたからであり、また、私のそばにずっと清玖がいてくれたからだ。
「このグラス、勿体なくて使えないな。宝物殿に飾らせるか」
土産に贈ったグラスを手にしながら、色々な方向から眺める紫蘭兄上がそんなことを口にしたので、驚いてしまった。宝物殿には、天瀬に古くから伝わる名品たちが飾られている。そんな場所にこのグラスを飾るのは、あまりにも不相応だった。
「大袈裟です兄上。それに、飾るのではなく使って頂いた方が、私は嬉しいです」
「分かった。毎日これで全ての飲み物を飲もう」
私が願えば、すぐに意見を変える紫蘭兄上が面白くて、私は笑ってしまった。口元を隠しながら笑う私を見て、紫蘭兄上と柊弥兄上も優しい笑みを浮かべる。
「美しいお土産をありがとう、吉乃」
「いえ……、礼には及びません、柊弥兄上。少しでも喜んで頂ければと思って、選んでまいりました」
「少しでも喜んでもらえれば、だと? なにを言ってる吉乃。俺も柊弥も大喜びだ」
大きな手が伸びて、私の頭を荒っぽく撫でた。湯浴みのあとに、淡月が丹念に梳いてくれた髪がぐしゃぐしゃになる。こんな風に頭を撫でるのは、紫蘭兄上だけだ。清玖も私の頭を撫でてくれるけれど、もっとずっと優しい。その荒々しさが兄らしくて、また笑えた。
「ありがとう、吉乃」
二人の兄の声が重なって、私の耳に届く。喜んでもらえたことが嬉しくて堪らなかった。また土産を贈りたいな、と思うほどに胸が幸喜で満ちている。土産の為に旅行をしたいだなんて、可笑しなことだけれど。
陽が傾き始め、肌寒さを感じるようになってきた。夕暮れの一歩手前といった時分であるのに、東屋に吹き抜ける風は随分と冷たく感じる。叔父上と共に東屋を出て、黒珠宮の廊下へと戻る。
「お見送り致します」
「不要だ」
せめて黒珠宮の門まではと思ったが、叔父上には必要ないと一蹴される。廊下の上で向き合いながら、叔父上はじっと私の目を見た。少しばかり笑みを潜めて、真面目な表情になっている。
「幸せ気分なのは良いが、姫宮の務めも忘れぬように」
「はい。承知しております」
釘を刺しておきたかったのだろう。浮かれているばかりでは駄目だと、現実の辛さも直視するように、叔父が声をかけてくれた。それは優しさだ。私はゆっくりと頷く。姫宮の務めを忘れたことなど、今までに一度もない。
「顔つきが変わったな」
「そう……でしょうか」
「あぁ。見違えるようだ。良い旅だったのだろう」
確かに、良い旅だった。黒髪黒目の姫宮として生きること。それを改めて見つめなおせる機会が、思いがけずあったのだ。私の方に、叔父上の手が伸びる。華奢な指先が私の頬に添えられた。
「お前はもう立派な姫宮だ。己が身を差し出して、国を守る守護者だよ」
姫宮の務めのことにおいては、叔父上に褒めてもらうことが一番嬉しかった。先代である叔父上に認めてもらえることが、心が震えるほどに嬉しかったのだ。ゆっくりと離れていく指先を、名残惜しく感じる。
「兄弟たちと仲良くな」
叔父上がそう言った直後に、叔父上の背後から二人の兄がやって来るのが見えた。靴音が響く。叔父上にも聞こえたことだろう。それでも、叔父上は身を翻して去り、兄たちの横を通り抜けて行った。
「朝水叔父上、いらしていたんですね」
「あぁ、だがもう帰る。ではな」
紫蘭兄上の呼びかけに随分とそっけなく返して、叔父上は去っていく。叔父上は、紫蘭兄上を嫌っているようにみえる。顔だけは、父に似ているため好ましいと言っていたこともあるけれど、私と話すときのような朗らかさを、兄たちの前では見せないのだ。
「吉乃、叔父上と何の話をしてたんだ?」
「こら、兄上。何でも根掘り葉掘りと聞き出すものではありませんよ」
「……本当に柊弥は小煩いな」
私の前にやって来た二人の兄たち。私と叔父上の会話の内容を聞きたがる紫蘭兄上を、柊弥兄上が諫めた。紫蘭兄上は私が関わる全てのことを把握していたいのだという。二人の兄の軽妙なやり取りに、私は小さく笑ってしまった。
「叔父上に土産を買い忘れてしまって、怒られていました」
「おやおや、それは失策だったね」
「はい」
くすくすと、柊弥兄上が笑う。私も、自分が犯した失態を笑うことしか出来なかった。見事なまでに頭の中から抜けていたのだ。兄弟たちのことで一杯一杯で、完全に失念していた。叔父上が私を責めるのも当然だと思う。
「兄上たちには、ちゃんとお土産を買ってきたんです。……淡月、もう渡せるだろうか」
「すぐに支度致します」
背後に立つ淡月を振り返り見れば、淡月が礼を取りながら頭を下げる。そして、他の侍従に何事かを命じた。その侍従は、素早く動き、走るではないのに、走っているかのような速度で去っていく。おそらく、土産を取りに行ってくれているのだろう。
「では、土産が届くまでそこの太黒房(たいこくぼう)にでも入るか」
紫蘭兄上が顎で指した太黒房は、すぐそばにあった。そこは、兄弟たちが自由に使える部屋の一つだ。歓談したり、お茶をしたり、黒珠宮の主たる天瀬の王族であれば、誰でも好きに使える。
とはいえ、弟たちは黒珠宮に寄り付かず、兄たちは一日の殆どを黒烈殿で過ごすため、使用される頻度の低い部屋だった。思えば、一日中黒珠宮に入り浸るのは私くらいなものだった。
太黒房に入ると、ほのかに温かい。東屋に長く留まり風に当たったことで、体が冷えていたのだと知る。それぞれの侍従長が、それぞれの主の為に椅子を引き、私たちはそこに座る。三つの椅子が、三角形を作るような形で置かれ、その中央に茶器が用意された卓があった。
「旅の中で、何が一番思い出深いものとなった?」
香りのよい花茶を淡月が茶器に注ぐ。二人の兄にも、同じものが用意された。鼻孔をくすぐる甘い匂いが、私は堪らなく好きなのだ。匂いを嗅いで悦に入っていると、紫蘭兄上から質問が飛んでくる。
「一番……ですか、難しいですね。どこもかしこも楽しくて……。月琴の演奏を聞いたんです。道端で演奏していて、美しい音色でした。お金も、その時に初めて触れたんです」
「金、か。確かに吉乃が触れることは今までになかったかもな」
金には人の欲望が絡みつく。それゆえ、私に触らせてこなかった、と紫蘭兄上が言った。柊弥兄上も小さく頷く。どうやら私が金に触れたことがないのは、兄たちの総意ゆえだったらしい。旅の序盤を振り返り、そこから先へと進む。
「それで、えっと……黒猫が膝に乗ってきたり、美しい夕日を眺めたり。たくさん小舟に乗ったのも面白かったです。華蛇の地では、小さな子供たちに触れて……、子がいる生活もいいなと、少し思いました」
「なんだ吉乃。子供が欲しいのか? お前が清玖の子を産んでやるつもりか?」
私の発言を受けて、紫蘭兄上が揶揄うようにそんなことを言った。女性ではない私には、子を宿すための臓腑が存在しない。それくらい分かっている。紫蘭兄上の意地悪な物言いに、私はむっとした。
「私たちが睦まじくしていれば、黒闢天がそのようになさるかもしれませんね」
「……本気なのか?」
「どうでしょう」
反撃、とばかりに私も言い返す。世界でたった一人の黒髪黒目を生み出す黒闢天なのだ。もしかすると私は、世界でたった一人、男でありながら子を産む者になるかもしれない。私の発言に、紫蘭兄上は驚いた様子で、少しばかり顔を青ざめた。
「祝福が強く、吉乃と清玖の間に子が出来るようなことがあれば、我ら天瀬の兄弟は歓迎するよ」
「ありがとうございます、柊弥兄上」
青ざめた顔で、本気じゃないよな、と言ってくる紫蘭兄上とは対照的に、柊弥兄上は穏やかに頷いて、起こり得るか分からない未来の話を受け止めてくれた。私と清玖の愛が募って子が生まれるというのなら嬉しいが、それでも、積極的に子供を望む気持ちは私にはなかった。
「宮様、品のご準備が整いました」
「こちらへ」
淡月が盆を持ってきた。布がかかっており、その布の下に何があるのかは見えない。机の上に置かれたそれらを隠す布を、私は手を伸ばして取り除いた。そこにあったのは、私が選んだ二つの杯。硝子製で、とても大きな杯だった。
「ほう、これは見事だな」
「グラスというやつですね」
そうだ。グラスというのだった。流石、博識な柊弥兄上だ。なんでもご存知で、尊敬する。馴染みのない言葉たちは、私の頭に定着することなく流れて行ってしまうので、オルドローズで出会った物たちの名前を覚えるのに一苦労していた。
「こんなに大きな杯は、天瀬ではあまり見ませんから、物珍しく思い、兄上方の土産の品にと選びました」
「ありがとう、吉乃。これなら、ちびちびと酒を注がなくてもいいな」
「だからといって、大酒はいけませんよ」
「酔わないんだから、どれだけ飲んだっていいだろう」
「体に障ります」
兄上は、酒を好まれていた。泥酔するようなことはないし、悪い酔い方をする兄ではないけれど、それでも健康を憂慮する柊弥兄上の気持ちもよく分かった。それなのに、紫蘭兄上は柊弥兄上の忠告をいなして、聞く耳を持っていない。
「紫蘭兄上、どうかお酒はほどほどに。大きな杯を持参致しましたが、兄上の健康を害するためではないのです」
「分かった。酒は控えることにしよう」
「……何という身替わりの早さ。これから、兄上に諫言を申し上げるときは吉乃に代弁してもらおうかな」
「おいやめろ、柊弥」
私が懇願すると、紫蘭兄上は数秒前の己の言葉を覆し、酒は控えると言った。その有様に、柊弥兄上が眉を顰める。柊弥兄上よりも私が言う方が、紫蘭兄上は素直に聞いてくれるのであれば、それも手段の一つなのかもしれない。
「この花、ご存知ですか。天瀬にはない花で、オルドローズの国の花なんだそうです。名前はえっと……、ば……ば」
グラスに描かれた花を指さす。だが、その花の名前が出てこない。けれど、兄上たちはきっと分かってるのだ。唸りながら名前を思い出そうとする私を、頑張れ、という顔でみてくる。
「ば、ばら!」
閃いた。そうだ、ばら、だ。答えを導きだせた私に、兄上たちが拍手をしてくれる。まるで、赤子が初めて喋ったのを祝するようで、恥ずかしくなってしまう。周りの侍従たちも目じりを下げて、微笑ましいという面貌で私を見ていた。羞恥が更に募る。
「ばら、という名前だとユーリが教えてくれました。……オルドでは聴きなれない言葉がたくさんあって、少し頭が疲れてしまいました」
「でも、楽しかったんだろう?」
「はい」
力強く頷く。楽しかったことは、間違いない。旅のどの部分を思い出しても、楽しいという記憶しかなかった。それは、私の旅を快適にしてくれた淡月や葉桜たちがいたからであり、また、私のそばにずっと清玖がいてくれたからだ。
「このグラス、勿体なくて使えないな。宝物殿に飾らせるか」
土産に贈ったグラスを手にしながら、色々な方向から眺める紫蘭兄上がそんなことを口にしたので、驚いてしまった。宝物殿には、天瀬に古くから伝わる名品たちが飾られている。そんな場所にこのグラスを飾るのは、あまりにも不相応だった。
「大袈裟です兄上。それに、飾るのではなく使って頂いた方が、私は嬉しいです」
「分かった。毎日これで全ての飲み物を飲もう」
私が願えば、すぐに意見を変える紫蘭兄上が面白くて、私は笑ってしまった。口元を隠しながら笑う私を見て、紫蘭兄上と柊弥兄上も優しい笑みを浮かべる。
「美しいお土産をありがとう、吉乃」
「いえ……、礼には及びません、柊弥兄上。少しでも喜んで頂ければと思って、選んでまいりました」
「少しでも喜んでもらえれば、だと? なにを言ってる吉乃。俺も柊弥も大喜びだ」
大きな手が伸びて、私の頭を荒っぽく撫でた。湯浴みのあとに、淡月が丹念に梳いてくれた髪がぐしゃぐしゃになる。こんな風に頭を撫でるのは、紫蘭兄上だけだ。清玖も私の頭を撫でてくれるけれど、もっとずっと優しい。その荒々しさが兄らしくて、また笑えた。
「ありがとう、吉乃」
二人の兄の声が重なって、私の耳に届く。喜んでもらえたことが嬉しくて堪らなかった。また土産を贈りたいな、と思うほどに胸が幸喜で満ちている。土産の為に旅行をしたいだなんて、可笑しなことだけれど。
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