2 / 42
1 透明人間、現る (1)
しおりを挟む
三日前、祖父が倒れた。
「まだ、意識は戻らないのか」
カウンター席に座った祖父の旧友の問いに、俺はコーヒーを準備しながら頷く。
客は彼一人。それが十一月下旬の平日昼下がりという中途半端な時間帯のせいか、この喫茶店ならではの現象かはわからない。彼は本日の、そして俺自身の客第一号だ。
どうぞ、と言い添え、カップをソーサーにのせてカウンターに置く。うまく淹れられただろうか。確かめる方法はない。サーバーに残った液体を別のカップに移して口に含んでみたが、少し苦みを感じられる湯が喉を滑りおりていっただけだった。
祖父の旧友は慣れた手つきでカップを口元に運ぶ。彼は祖父と特に親しい人物で、俺も幼い頃には何度か会い、可愛がってもらった記憶がある。母も彼には祖父が倒れたことを連絡したようだ。同じく祖父も、今日から俺が手伝いに入ることを知らせていたのだろう。彼は祖父の不在を知りながらも訪ねてくれた。
「ミツ坊は、この店を継ぐのか?」
祖父の旧友はカップを置き、まっすぐ俺に目を向けた。内心たじろぐ。祖父はもう戻らないと言われたような気がしたからだ。
「懐かしい呼び方ですね。――継ぐっていうか、まぁ、祖父が帰ってくるまで留守番をするつもりです。気ままな店ですけど、ずっと閉めているわけにもいきませんから。こんな若造に任せてはいられないって、すぐ戻ってくると思いますけどね」
俺は冗談めかして肩をすくめた。他意はないのだろう。祖父や彼ほどに長く人生を歩めば、老いも病もあるいは死も、もっとずっと身近なものになるのかもしれない。ようやく二十年といくつかを越えた俺にとっては、まだ遠く特別で不吉にすら思える言葉であっても。
「……まぁ、あまり気を落とすなよ」
祖父の旧友は会計をすませた後、そう言い置いて出ていった。
店内に再び静寂が戻ってくる。三席のカウンターと小上がりに四人程度が座れるテーブル席が一つ。十人も入れば大混雑の極小喫茶店だ。正面にある三つの長細い窓からは、晩秋の穏やかな陽光が差し込んでいる。光の中で脇役に徹するのは、色ガラスを使ったカラフルなランプ。天井から吊り下げられ、それぞれの客席の手元を照らすよう配された小ぶりの照明は、日が落ちるとともに存在感を増すだろう。
遠くでチャイムが鳴っている。小学校か中学校か。この辺りはあまり土地勘がないので、どちらかはわからない。窓の外に、道路をはさんで向かいの住宅が見える。人や車が行き交う様子はない。
一時間に三本ほどが停車する私鉄の小さな駅を最寄りとし、さらに小道の入り組む住宅街を歩くこと十数分。商売をする上で決して有利とはいえない立地にあるこの店は、二十五年ほど前に祖父が始めた。
名を〈喫珈琲カドー〉という。姓の〝角尾〟から名付けたのだと思うが、由来を聞いたことはない。
祖父はどちらかといえば人当たりもよく、穏やかで真面目な気質だ。親族のひいき目ではなく誰に聞いてもそう答えると思う。だが〈喫珈琲カドー〉は、そんな店主のイメージを真っ向からひっくり返してしまうような店だった。
妻を早くに亡くした祖父は、男手一つで俺の母を育てあげた。そして愛娘の結婚を機に、突然の脱サラを果たす。当時はまだ終身雇用が崩れていなかった時代で、コツコツと勤続年数をのばす平凡なサラリーマンの、あと数年で定年というタイミングでの自主退職は、周囲の人間を驚かせたそうだ。そのまま喫茶業へ転身。その営業形態がまた周りをあきれさせた。
不定営業。メニューはブレンドコーヒーのみ。ただでさえ不利な要素の多い喫茶店だというのに、定めのない営業時間と単一のメニューがさらに客層を狭くする。加えて自宅一階を改装して店舗にした祖父は、店内は整えたものの外観にはほとんど手をつけなかった。出入り口の扉と縦に長細い窓が三つという外観は一般住宅とさほど変わらず、一見して喫茶店とはわからない。その上、大きな看板を出すでもなく、扉にぶら下げた〝喫珈琲カドー 営業中〟という手の平サイズの札が営業を示す唯一の目印という状態。祖父の友人知人と近所の住人といった常連しか来ないような趣味を地でいく店は、しかしながら二十五年という長きにわたって生き残り、周囲を驚きあきれ果てさせ続けていた。
「まだ、意識は戻らないのか」
カウンター席に座った祖父の旧友の問いに、俺はコーヒーを準備しながら頷く。
客は彼一人。それが十一月下旬の平日昼下がりという中途半端な時間帯のせいか、この喫茶店ならではの現象かはわからない。彼は本日の、そして俺自身の客第一号だ。
どうぞ、と言い添え、カップをソーサーにのせてカウンターに置く。うまく淹れられただろうか。確かめる方法はない。サーバーに残った液体を別のカップに移して口に含んでみたが、少し苦みを感じられる湯が喉を滑りおりていっただけだった。
祖父の旧友は慣れた手つきでカップを口元に運ぶ。彼は祖父と特に親しい人物で、俺も幼い頃には何度か会い、可愛がってもらった記憶がある。母も彼には祖父が倒れたことを連絡したようだ。同じく祖父も、今日から俺が手伝いに入ることを知らせていたのだろう。彼は祖父の不在を知りながらも訪ねてくれた。
「ミツ坊は、この店を継ぐのか?」
祖父の旧友はカップを置き、まっすぐ俺に目を向けた。内心たじろぐ。祖父はもう戻らないと言われたような気がしたからだ。
「懐かしい呼び方ですね。――継ぐっていうか、まぁ、祖父が帰ってくるまで留守番をするつもりです。気ままな店ですけど、ずっと閉めているわけにもいきませんから。こんな若造に任せてはいられないって、すぐ戻ってくると思いますけどね」
俺は冗談めかして肩をすくめた。他意はないのだろう。祖父や彼ほどに長く人生を歩めば、老いも病もあるいは死も、もっとずっと身近なものになるのかもしれない。ようやく二十年といくつかを越えた俺にとっては、まだ遠く特別で不吉にすら思える言葉であっても。
「……まぁ、あまり気を落とすなよ」
祖父の旧友は会計をすませた後、そう言い置いて出ていった。
店内に再び静寂が戻ってくる。三席のカウンターと小上がりに四人程度が座れるテーブル席が一つ。十人も入れば大混雑の極小喫茶店だ。正面にある三つの長細い窓からは、晩秋の穏やかな陽光が差し込んでいる。光の中で脇役に徹するのは、色ガラスを使ったカラフルなランプ。天井から吊り下げられ、それぞれの客席の手元を照らすよう配された小ぶりの照明は、日が落ちるとともに存在感を増すだろう。
遠くでチャイムが鳴っている。小学校か中学校か。この辺りはあまり土地勘がないので、どちらかはわからない。窓の外に、道路をはさんで向かいの住宅が見える。人や車が行き交う様子はない。
一時間に三本ほどが停車する私鉄の小さな駅を最寄りとし、さらに小道の入り組む住宅街を歩くこと十数分。商売をする上で決して有利とはいえない立地にあるこの店は、二十五年ほど前に祖父が始めた。
名を〈喫珈琲カドー〉という。姓の〝角尾〟から名付けたのだと思うが、由来を聞いたことはない。
祖父はどちらかといえば人当たりもよく、穏やかで真面目な気質だ。親族のひいき目ではなく誰に聞いてもそう答えると思う。だが〈喫珈琲カドー〉は、そんな店主のイメージを真っ向からひっくり返してしまうような店だった。
妻を早くに亡くした祖父は、男手一つで俺の母を育てあげた。そして愛娘の結婚を機に、突然の脱サラを果たす。当時はまだ終身雇用が崩れていなかった時代で、コツコツと勤続年数をのばす平凡なサラリーマンの、あと数年で定年というタイミングでの自主退職は、周囲の人間を驚かせたそうだ。そのまま喫茶業へ転身。その営業形態がまた周りをあきれさせた。
不定営業。メニューはブレンドコーヒーのみ。ただでさえ不利な要素の多い喫茶店だというのに、定めのない営業時間と単一のメニューがさらに客層を狭くする。加えて自宅一階を改装して店舗にした祖父は、店内は整えたものの外観にはほとんど手をつけなかった。出入り口の扉と縦に長細い窓が三つという外観は一般住宅とさほど変わらず、一見して喫茶店とはわからない。その上、大きな看板を出すでもなく、扉にぶら下げた〝喫珈琲カドー 営業中〟という手の平サイズの札が営業を示す唯一の目印という状態。祖父の友人知人と近所の住人といった常連しか来ないような趣味を地でいく店は、しかしながら二十五年という長きにわたって生き残り、周囲を驚きあきれ果てさせ続けていた。
0
あなたにおすすめの小説
罪悪と愛情
暦海
恋愛
地元の家電メーカー・天の香具山に勤務する20代後半の男性・古城真織は幼い頃に両親を亡くし、それ以降は父方の祖父母に預けられ日々を過ごしてきた。
だけど、祖父母は両親の残した遺産を目当てに真織を引き取ったに過ぎず、真織のことは最低限の衣食を与えるだけでそれ以外は基本的に放置。祖父母が自身を疎ましく思っていることを知っていた真織は、高校卒業と共に就職し祖父母の元を離れる。業務上などの必要なやり取り以外では基本的に人と関わらないので友人のような存在もいない真織だったが、どうしてかそんな彼に積極的に接する後輩が一人。その後輩とは、頗る優秀かつ息を呑むほどの美少女である降宮蒔乃で――
七竈 ~ふたたび、春~
菱沼あゆ
ホラー
変遷していく呪いに終わりのときは来るのだろうか――?
突然、英嗣の母親に、蔵を整理するから来いと呼び出されたり、相変わらず騒がしい毎日を送っていた七月だが。
ある日、若き市長の要請で、呪いの七竃が切り倒されることになる。
七竃が消えれば、呪いは消えるのか?
何故、急に七竃が切られることになったのか。
市長の意図を探ろうとする七月たちだが――。
学園ホラー&ミステリー
百合ランジェリーカフェにようこそ!
楠富 つかさ
青春
主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?
ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!!
※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。
表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。
与兵衛長屋つれあい帖 お江戸ふたり暮らし
かずえ
歴史・時代
旧題:ふたり暮らし
長屋シリーズ一作目。
第八回歴史・時代小説大賞で優秀短編賞を頂きました。応援してくださった皆様、ありがとうございます。
十歳のみつは、十日前に一人親の母を亡くしたばかり。幸い、母の蓄えがあり、自分の裁縫の腕の良さもあって、何とか今まで通り長屋で暮らしていけそうだ。
頼まれた繕い物を届けた帰り、くすんだ着物で座り込んでいる男の子を拾う。
一人で寂しかったみつは、拾った男の子と二人で暮らし始めた。
あるフィギュアスケーターの性事情
蔵屋
恋愛
この小説はフィクションです。
しかし、そのようなことが現実にあったかもしれません。
何故ならどんな人間も、悪魔や邪神や悪神に憑依された偽善者なのですから。
この物語は浅岡結衣(16才)とそのコーチ(25才)の恋の物語。
そのコーチの名前は高木文哉(25才)という。
この物語はフィクションです。
実在の人物、団体等とは、一切関係がありません。
極上イケメン先生が秘密の溺愛教育に熱心です
朝陽七彩
恋愛
私は。
「夕鶴、こっちにおいで」
現役の高校生だけど。
「ずっと夕鶴とこうしていたい」
担任の先生と。
「夕鶴を誰にも渡したくない」
付き合っています。
♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡
神城夕鶴(かみしろ ゆづる)
軽音楽部の絶対的エース
飛鷹隼理(ひだか しゅんり)
アイドル的存在の超イケメン先生
♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡
彼の名前は飛鷹隼理くん。
隼理くんは。
「夕鶴にこうしていいのは俺だけ」
そう言って……。
「そんなにも可愛い声を出されたら……俺、止められないよ」
そして隼理くんは……。
……‼
しゅっ……隼理くん……っ。
そんなことをされたら……。
隼理くんと過ごす日々はドキドキとわくわくの連続。
……だけど……。
え……。
誰……?
誰なの……?
その人はいったい誰なの、隼理くん。
ドキドキとわくわくの連続だった私に突如現れた隼理くんへの疑惑。
その疑惑は次第に大きくなり、私の心の中を不安でいっぱいにさせる。
でも。
でも訊けない。
隼理くんに直接訊くことなんて。
私にはできない。
私は。
私は、これから先、一体どうすればいいの……?
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる