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1 透明人間、現る (2)
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カップとソーサーを回収しようとした俺は、おもわず「……減ってない」と呟いた。小声だったが、店内にはずいぶんと大きく響く。
カップの中には、まだたっぷりとコーヒーが残っている。コーヒーしか出さない店でもったいない気もする。でも代金は支払われたのだから、あとは客の勝手だ。たとえそれが、俺が初めてこの店に立って淹れた一杯目のコーヒーだったとしても。
そんなことを思いながら、コーヒーをシンクに流した。――その時だった。
「ひどいね」
突然の声に、危うくカップを落としそうになる。客がいたなんて気がつかなかった。俺は慌てて顔を上げる。扉の前に、学ラン姿の少年が腕を組んで立っていた。中学生だろうか。どうにも野暮ったい印象を与える詰襟の黒い学ランは彼にはやや大きすぎるようで、少年の小柄さを強調している。
(いつ入って来たんだ?)
出入り口は、さすがに音もなく開閉できるほど高級な扉ではなかったはずだが。
「ひどいよ。――ホント、ひどい」
俺がぽかんと眺めている前で、少年はさらに言い募る。皮肉めいた調子の、どこか幼さを残す声音。声変わり前だろうか、少年らしいソプラノは耳に心地よく響く。……内容はともかく。
「いらっしゃいませ」
ひとまず声をかけてみる。何がひどいのだろうとか、何故いつまでも扉の前にいるのだろうとか思ったが、それはこちらも同じだ。仕事中なのだから、いつまでも呆けてはいられない。
はじかれたように少年が顔を上げ、腕をほどいた。目元と耳を半ば隠すように覆っていた長めの黒髪が揺れ、大きな目と整った顔立ちが露わになる。学ランを着ていなければ少女と見紛うほどの美人だ。――だが、そんなに驚かせるようなことを言っただろうか。
「……きみ、僕が見えるの?」
「は?」
「あぁそう、見えているんだ。いや、そんなことはどうでもいいよ、むしろ好都合。それより」
少年は急にずかずかとカウンターまで近づいてきた。
「そのコーヒーだよ! ひっどい。ひどすぎる」
よほど堪えかねたのか、憤怒の表情だ。何をそんなに怒っているのだろう。コーヒーを廃棄処分にしたことか。
「怒ってくれるのはありがたいけど、飲むか残すかは客の自由だから……」
「違う。あの客は正しいことをしたね。むしろ優しいくらいだよ。そんなひどいコーヒーを出されたのに文句の一つも言わないで、代金を払ってなぐさめの言葉まで残して帰るんだから」
俺はようやく勘違いに気づいた。この少年が言わんとしていることは。
「……つまり、このコーヒーがひどい、と?」
「だから、さっきからそう言っているじゃない。よくもまぁ、そんなあり得ないコーヒーを出せたものだよね」
少年は腰に手をあて、ため息とともに言い放った。
予想すらしていなかった批判。いきなりだったとはいえ、振り返れば大人げない対応だったと思う。どんなに横柄な態度をとられたとしても相手は子どもで、十は年下のはず。しかも一応は客だ。慣れない喫茶店での仕事で緊張していたとしても、決してやってはいけないことだった。以前の俺なら絶対にしない。しかし、この時期はとにかくイライラしがちだった。もはや腐っていたと言っても過言ではない。少年の言い草に、おもわずカチンときた。
「飲んでもねぇくせに、なんでそんなことがわかるんだよ」
俺の態度の急変に、少年は面白そうに口元を緩めた。
「わかるよ。そんなの香りで」
「――出ていけ。そんなもの俺にはわからない」
香り。その言葉が聞こえた瞬間、遮るように言い返して、俺は少年から目を逸らし――拒絶した。
「どうして?」
少年の言葉から神経を逆なでするような揶揄めいた響きが消えた。静かな口調が純粋な問いを投げかけてくる。
「……匂いなんか、しない」
年初に風邪を引いた。たったそれだけのことだったのに。突然、鼻がきかなくなった。俺の周りからあらゆる香りや匂いが消え、無臭の世界へはじき出された。たったそれだけのことが、俺からすべてを奪うには充分な威力を持っていた。
「ふぅん。――で?」
少々の沈黙の後に続いたのは、あまりにも薄い反応。
「きみ、ペーパードリップでコーヒー淹れたことないんでしょ?」
「ペーパー、ドリップ……?」
少年が俺の手元を指さした。出がらしのコーヒー粉がのった、逆円錐に近い台形のドリッパーと耐熱ガラスのサーバーが目に入る。いわゆる「手作業でコーヒーを淹れる」と言われた時に、最初に思い浮かぶだろう紙製のフィルターを使用する器具だ。もちろん俺も見たことはあった。実家には自動コーヒーメーカーがあるので、使った経験は皆無だったが。
「匂わないなら、味もわからなかったよね? 風味がわかりません、淹れたことはありません。そんな状態で、よくも客に出そうなんて、お金をもらおうだなんて考えたね。コーヒーを淹れるくらい、誰でもできると思ったの?」
ようやく無表情だった少年の顔に深い憐れみが浮かぶ。ただしそれは俺の甘い考えを嘲り蔑むものだった。
「手伝うだけならできると思ったのに、店主が倒れるなんて想定外? でもブレンドコーヒーしか出さない不定営業の店なら簡単に運営できる? 孫たる自分がこの店を守ろうと思った?」
言い重ねられる言葉は辛辣で、いちいちそのとおりだった。全部お見通しだと言わんばかりの内容が、今さっき来たばかりでは知りようのないものだと気づいたのは、もっと後になってからだ。
(何が、悪い?)
すべては少年の言うとおりだ。他人に指摘されれば恥ずかしく浅はかな考え。けれど恥ずかしながらと認められるほどの心の余裕はない。
「――なら、お前にはできるのか?」
正論ぶってみせても、でも事実そうじゃないか。コーヒーなんか、しょせんは嗜好品だ。
「口先だけなら何とでも言えるよな。でも実際にできるのかよ? お前はどんなコーヒーを淹れられるって言うんだ」
飲んでもない、淹れてもいないくせにえらそうに。そんな含みを言外に持たせ、俺は反論した。
「……あぁ、なるほど」
少年はニヤリと口の端をつり上げて、落ち着けというように両手を広げる。
「じゃあこうしよう。次の客に出すコーヒーは、僕の指示どおりに淹れてみてよ。ちょっとの誤差もなく、僕の言うとおりにさ。――全部飲み干させて、さすがだと言わせる。そんなコーヒーを僕なら淹れることができるよ」
平然と提案してきた。ずいぶんと大きく出たものだ。ハッタリなら、どこで収拾をつけるつもりなのか。
「言うとおりに? 自分でしろよ。カウンター内に入っていいから」
やれるもんなら、やってみろ。
「それはどうも。でもそっちは無理」
「なんで」
「だって、さわれないもん」
「は?」
少年はL字になったカウンターの角へ移動すると、装飾も兼ねている卓上ランプに手を添える。
「さわれない。透明人間だから」
「何言って――」
俺の言葉は途中で消えた。「ホントだよ」と呟いた少年の指が、ステンドグラス風のランプシェードの側面を出たり入ったりしている。
「……何のいたずらだ?」
少年は小さく笑うように息を吐くと、カウンターの縁を迂回して俺の正面に立った。
「いたずらじゃないよ、ほら」
唐突に右手が突き出された。俺の腹部めがけて。――当たる。そう思った次の瞬間、俺の目はあり得ない光景を映した。
黒い学ランを着た腕が、みぞおちから生えていた。腹に異常はない。皮膚にも何も感じない。他人の手首から先が自分の体に埋まっているのを、目だけが見ている。感覚のズレ。その強烈な違和感に鳥肌が立ち、冷や汗がにじみ出た。体の奥底から嫌悪感が湧き出し、全身を駆けめぐる。
「――う、わ」
反射的に払いのけようと振り上げた手は空を切った――皮膚の感覚では。視覚がとらえたのは、少年を殴りつけてしまったような俺の腕が彼に埋まり、次いで出てくるという一連の出来事。もはや叫べばいいのか謝ればいいのかわからない。目の前に何か異質なものがいる。それだけはわかった。
少年はゆっくりと腕を下ろす。
「そういうわけだから、悪いけど代わりに淹れてくれるかな。あと、たぶんきみ以外に僕の姿は見えないと思うから、誰かいる時に話しかけない方がいいよ」
少年が言い終わると同時に扉が開いた。本日二人目の客が店内に足を踏み入れ、戸惑ったように声をかけてくる。
「……えぇと、今、営業中だよね? マスターは?」
「あ、は、はい、やってます。いらっしゃいませ。じいちゃ……じゃない、マスターは、その、今ちょっと体調を崩してて、俺、留守番です、あ、孫なんですけど」
祖父よりもいくらか若い初老の男性は、どうやら常連客だったらしい。しどろもどろと答える俺の様子を不慣れゆえと見たのか軽く微笑むと、慣れた様子でカウンター席に座った。
「そうなのか。マスターにお大事にと伝えてくれ。コーヒーをいただけるかい?」
「えぇ、もちろん」
視界の端で、「さてと」と呟いた自称・透明人間の腕が動いた。平常心を心がけていたはずの俺の体が震える。どうやら、さっきのショックは思ったよりも大きいらしい。
「どうかしたかい?」
「いえ、ちょっと手元が滑って」
にっこりと人受けのよい笑みを浮かべてごまかす。その間にも、少年は宣言どおり指示を出しはじめた。
「やかんを火にかけたら、そこの棚のコーヒー豆を取って。右から二つ目」
こちらの焦りなどどこ吹く風で、テキパキとカウンターと対面になった棚を指し示す。片手で持つにはやや不安定なので、両手で棚からガラス瓶を取り出すと、中には褐色のコーヒー豆が七分目ほどまで入っていた。
「そこの計量スプーンに半分くらい……ちょっと多い、あ、そのくらい。グラインダーに――豆粉砕機に入れて」
少年はご丁寧に言い直した。このコーヒー豆を粉砕する機械はグラインダーというらしい。
「次、その隣の豆」
少年が別の瓶を指さす。
「……ブレンド?」
今、この場で?
俺はうっかり聞き返してしまった。雑誌に目を通していた客が顔を上げる。俺はとっさに笑みを浮かべた。
「失礼。うるさくしてしまいましたか?」
客は曖昧に首を振って再び雑誌に目を落とす。客が反応したのは、俺が声を出したからだ。もし少年の声が聞こえていたら、あんな反応の仕方はしなかっただろう。客には俺の声だけが突然聞こえたのだ。
(まさか本当に、透明人間……?)
数種のコーヒー豆を投入したグラインダーが自動で豆を粉砕している間に、カップとソーサーを用意する。俺は横目で隣にいる少年を見た。どこにも透けているところはない。一見普通に存在する人間に見える。
コーヒー粉をドリッパーに入れ、沸騰した湯をポットに注ぐ。よどみなく出される指示はついていくのがやっとで、俺は無言で従った。急にスピードが落ちたのは、湯を注ぐ段になってからだ。少年は何か言っていたが、その時の俺に残った印象は、とにかくゆっくりと、臆病なほどゆっくりと湯を注いだということだけだった。
「出来上がり。さぁ、出してみてよ」
俺は黒に近い琥珀色をしたコーヒーをカップに注ぎ、ソーサーにのせて客の前に置いた。
「……あぁ、いい香りだ」
客はカップを持ち上げて呟く。おもわずこぼれ出たような言い方だった。
(あの液体からは、いい香りがするのか)
まるで見たくもない映画を眺めるような気分だった。横に立つ少年は自信ありげな笑みを浮かべている。
客は雑誌を読みながらゆっくりと、コーヒーを飲み干した。
「さすがはマスターの孫だなぁ、美味しかったよ。ごちそうさま」
「……ありがとう、ございます」
満足そうに会計をすませて扉へ向かう客の前で、いつの間にか扉のそばへと移動していた少年が流れるような仕草で恭しくお辞儀をしてみせる。客は、そこには何も存在していないかのような無反応で扉を開けた。夕方を感じさせる光が店内に差し込んだが、少年の足元に影はなかった。俺はただぼんやりとその様子を見守り、扉が閉まって足音が遠ざかっても動けなかった。
「……ほんとうに」
ようやく言葉をしぼり出す。さほど大きくもないはずなのに店内に反響した声は、驚くほど頼りない。
「どれが?」
「透明人間?」
「そうだよ」
「……じいちゃんのコーヒー?」
「うん」
さまざまな感情と疑問がうごめいていた。何故、透明人間が自分にだけ見える? 何故、祖父のコーヒーを淹れることができた? 香りだけで? それは、誰にでもできることなのか、匂いさえ感じられたら。何故、何故、なんで。
(ダメなのか)
俺には留守番すらできないのか。
「――ねぇっ!」
またカウンターへと戻ってきた少年が、覗き込むように俺を見ていた。長いまつげが縁どる漆黒の目が、心なしか輝いている気がする。そして、さも名案と言いたげな口調で提案してきた。
「手伝ってあげようか」
「え?」
「きみは僕が見えるし、僕はコーヒーを淹れられる。お互いの利害は一致していると思うよ」
たぶん、俺は相当混乱していた。あるいは精神的にかなり参っていたか。少なくとも、まともには考えられなかった。自分にしか見えない透明人間、つまり幻覚だ。それなのに。
「……そうだな」
気づけば頷いてしまっていた。しかし後には引けない。透明人間が、まさに満面の笑みを浮かべて大喜びしているからだ。
「やった、じゃあよろしく! えっと……ミツ坊?」
こいつ、いつからこの店にいたんだろう。ようやくそんな疑問にぶち当たる。
「充嗣だ。角尾充嗣」
「そう。よろしくね、ミツ」
あまりにもナチュラルにはしゃぐので、俺はおもわず苦笑する。そしてうっかりスルーしかけた。
「……って、お前の名前は?」
少年はきょとんと、まるで珍しいものでも見たような顔をした。その視線が宙をさまよう。
「忘れた。もーそんなのいいよ、どうせミツにしか見えないんだから。お前とかあんたとか好きに呼んでよ」
「いや、そういうわけにも……」
お前とかあんたとかって、どこの熟年夫婦だ。
「そう? じゃあさ、ミツがつけてよ。僕の名前」
にこにこと無理難題を吹っかけてくる少年に名乗る気はないらしい。仕方がない。
(匂いで――鼻で、コーヒーを淹れる、透明人間……少年)
俺は結構真剣に考えた。そして口にする直前、一応少しだけためらった。これは本当だ。
「ハナオ、でどうだ?」
少年――ハナオは、みるみる表情を変える。全身から憐れみと同情がにじみ出る。
「ミツって、センスないよね」
「……うるさい」
こうして、俺と透明人間・ハナオとの〈喫珈琲カドー〉共同運営が始まった。
カップの中には、まだたっぷりとコーヒーが残っている。コーヒーしか出さない店でもったいない気もする。でも代金は支払われたのだから、あとは客の勝手だ。たとえそれが、俺が初めてこの店に立って淹れた一杯目のコーヒーだったとしても。
そんなことを思いながら、コーヒーをシンクに流した。――その時だった。
「ひどいね」
突然の声に、危うくカップを落としそうになる。客がいたなんて気がつかなかった。俺は慌てて顔を上げる。扉の前に、学ラン姿の少年が腕を組んで立っていた。中学生だろうか。どうにも野暮ったい印象を与える詰襟の黒い学ランは彼にはやや大きすぎるようで、少年の小柄さを強調している。
(いつ入って来たんだ?)
出入り口は、さすがに音もなく開閉できるほど高級な扉ではなかったはずだが。
「ひどいよ。――ホント、ひどい」
俺がぽかんと眺めている前で、少年はさらに言い募る。皮肉めいた調子の、どこか幼さを残す声音。声変わり前だろうか、少年らしいソプラノは耳に心地よく響く。……内容はともかく。
「いらっしゃいませ」
ひとまず声をかけてみる。何がひどいのだろうとか、何故いつまでも扉の前にいるのだろうとか思ったが、それはこちらも同じだ。仕事中なのだから、いつまでも呆けてはいられない。
はじかれたように少年が顔を上げ、腕をほどいた。目元と耳を半ば隠すように覆っていた長めの黒髪が揺れ、大きな目と整った顔立ちが露わになる。学ランを着ていなければ少女と見紛うほどの美人だ。――だが、そんなに驚かせるようなことを言っただろうか。
「……きみ、僕が見えるの?」
「は?」
「あぁそう、見えているんだ。いや、そんなことはどうでもいいよ、むしろ好都合。それより」
少年は急にずかずかとカウンターまで近づいてきた。
「そのコーヒーだよ! ひっどい。ひどすぎる」
よほど堪えかねたのか、憤怒の表情だ。何をそんなに怒っているのだろう。コーヒーを廃棄処分にしたことか。
「怒ってくれるのはありがたいけど、飲むか残すかは客の自由だから……」
「違う。あの客は正しいことをしたね。むしろ優しいくらいだよ。そんなひどいコーヒーを出されたのに文句の一つも言わないで、代金を払ってなぐさめの言葉まで残して帰るんだから」
俺はようやく勘違いに気づいた。この少年が言わんとしていることは。
「……つまり、このコーヒーがひどい、と?」
「だから、さっきからそう言っているじゃない。よくもまぁ、そんなあり得ないコーヒーを出せたものだよね」
少年は腰に手をあて、ため息とともに言い放った。
予想すらしていなかった批判。いきなりだったとはいえ、振り返れば大人げない対応だったと思う。どんなに横柄な態度をとられたとしても相手は子どもで、十は年下のはず。しかも一応は客だ。慣れない喫茶店での仕事で緊張していたとしても、決してやってはいけないことだった。以前の俺なら絶対にしない。しかし、この時期はとにかくイライラしがちだった。もはや腐っていたと言っても過言ではない。少年の言い草に、おもわずカチンときた。
「飲んでもねぇくせに、なんでそんなことがわかるんだよ」
俺の態度の急変に、少年は面白そうに口元を緩めた。
「わかるよ。そんなの香りで」
「――出ていけ。そんなもの俺にはわからない」
香り。その言葉が聞こえた瞬間、遮るように言い返して、俺は少年から目を逸らし――拒絶した。
「どうして?」
少年の言葉から神経を逆なでするような揶揄めいた響きが消えた。静かな口調が純粋な問いを投げかけてくる。
「……匂いなんか、しない」
年初に風邪を引いた。たったそれだけのことだったのに。突然、鼻がきかなくなった。俺の周りからあらゆる香りや匂いが消え、無臭の世界へはじき出された。たったそれだけのことが、俺からすべてを奪うには充分な威力を持っていた。
「ふぅん。――で?」
少々の沈黙の後に続いたのは、あまりにも薄い反応。
「きみ、ペーパードリップでコーヒー淹れたことないんでしょ?」
「ペーパー、ドリップ……?」
少年が俺の手元を指さした。出がらしのコーヒー粉がのった、逆円錐に近い台形のドリッパーと耐熱ガラスのサーバーが目に入る。いわゆる「手作業でコーヒーを淹れる」と言われた時に、最初に思い浮かぶだろう紙製のフィルターを使用する器具だ。もちろん俺も見たことはあった。実家には自動コーヒーメーカーがあるので、使った経験は皆無だったが。
「匂わないなら、味もわからなかったよね? 風味がわかりません、淹れたことはありません。そんな状態で、よくも客に出そうなんて、お金をもらおうだなんて考えたね。コーヒーを淹れるくらい、誰でもできると思ったの?」
ようやく無表情だった少年の顔に深い憐れみが浮かぶ。ただしそれは俺の甘い考えを嘲り蔑むものだった。
「手伝うだけならできると思ったのに、店主が倒れるなんて想定外? でもブレンドコーヒーしか出さない不定営業の店なら簡単に運営できる? 孫たる自分がこの店を守ろうと思った?」
言い重ねられる言葉は辛辣で、いちいちそのとおりだった。全部お見通しだと言わんばかりの内容が、今さっき来たばかりでは知りようのないものだと気づいたのは、もっと後になってからだ。
(何が、悪い?)
すべては少年の言うとおりだ。他人に指摘されれば恥ずかしく浅はかな考え。けれど恥ずかしながらと認められるほどの心の余裕はない。
「――なら、お前にはできるのか?」
正論ぶってみせても、でも事実そうじゃないか。コーヒーなんか、しょせんは嗜好品だ。
「口先だけなら何とでも言えるよな。でも実際にできるのかよ? お前はどんなコーヒーを淹れられるって言うんだ」
飲んでもない、淹れてもいないくせにえらそうに。そんな含みを言外に持たせ、俺は反論した。
「……あぁ、なるほど」
少年はニヤリと口の端をつり上げて、落ち着けというように両手を広げる。
「じゃあこうしよう。次の客に出すコーヒーは、僕の指示どおりに淹れてみてよ。ちょっとの誤差もなく、僕の言うとおりにさ。――全部飲み干させて、さすがだと言わせる。そんなコーヒーを僕なら淹れることができるよ」
平然と提案してきた。ずいぶんと大きく出たものだ。ハッタリなら、どこで収拾をつけるつもりなのか。
「言うとおりに? 自分でしろよ。カウンター内に入っていいから」
やれるもんなら、やってみろ。
「それはどうも。でもそっちは無理」
「なんで」
「だって、さわれないもん」
「は?」
少年はL字になったカウンターの角へ移動すると、装飾も兼ねている卓上ランプに手を添える。
「さわれない。透明人間だから」
「何言って――」
俺の言葉は途中で消えた。「ホントだよ」と呟いた少年の指が、ステンドグラス風のランプシェードの側面を出たり入ったりしている。
「……何のいたずらだ?」
少年は小さく笑うように息を吐くと、カウンターの縁を迂回して俺の正面に立った。
「いたずらじゃないよ、ほら」
唐突に右手が突き出された。俺の腹部めがけて。――当たる。そう思った次の瞬間、俺の目はあり得ない光景を映した。
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「――う、わ」
反射的に払いのけようと振り上げた手は空を切った――皮膚の感覚では。視覚がとらえたのは、少年を殴りつけてしまったような俺の腕が彼に埋まり、次いで出てくるという一連の出来事。もはや叫べばいいのか謝ればいいのかわからない。目の前に何か異質なものがいる。それだけはわかった。
少年はゆっくりと腕を下ろす。
「そういうわけだから、悪いけど代わりに淹れてくれるかな。あと、たぶんきみ以外に僕の姿は見えないと思うから、誰かいる時に話しかけない方がいいよ」
少年が言い終わると同時に扉が開いた。本日二人目の客が店内に足を踏み入れ、戸惑ったように声をかけてくる。
「……えぇと、今、営業中だよね? マスターは?」
「あ、は、はい、やってます。いらっしゃいませ。じいちゃ……じゃない、マスターは、その、今ちょっと体調を崩してて、俺、留守番です、あ、孫なんですけど」
祖父よりもいくらか若い初老の男性は、どうやら常連客だったらしい。しどろもどろと答える俺の様子を不慣れゆえと見たのか軽く微笑むと、慣れた様子でカウンター席に座った。
「そうなのか。マスターにお大事にと伝えてくれ。コーヒーをいただけるかい?」
「えぇ、もちろん」
視界の端で、「さてと」と呟いた自称・透明人間の腕が動いた。平常心を心がけていたはずの俺の体が震える。どうやら、さっきのショックは思ったよりも大きいらしい。
「どうかしたかい?」
「いえ、ちょっと手元が滑って」
にっこりと人受けのよい笑みを浮かべてごまかす。その間にも、少年は宣言どおり指示を出しはじめた。
「やかんを火にかけたら、そこの棚のコーヒー豆を取って。右から二つ目」
こちらの焦りなどどこ吹く風で、テキパキとカウンターと対面になった棚を指し示す。片手で持つにはやや不安定なので、両手で棚からガラス瓶を取り出すと、中には褐色のコーヒー豆が七分目ほどまで入っていた。
「そこの計量スプーンに半分くらい……ちょっと多い、あ、そのくらい。グラインダーに――豆粉砕機に入れて」
少年はご丁寧に言い直した。このコーヒー豆を粉砕する機械はグラインダーというらしい。
「次、その隣の豆」
少年が別の瓶を指さす。
「……ブレンド?」
今、この場で?
俺はうっかり聞き返してしまった。雑誌に目を通していた客が顔を上げる。俺はとっさに笑みを浮かべた。
「失礼。うるさくしてしまいましたか?」
客は曖昧に首を振って再び雑誌に目を落とす。客が反応したのは、俺が声を出したからだ。もし少年の声が聞こえていたら、あんな反応の仕方はしなかっただろう。客には俺の声だけが突然聞こえたのだ。
(まさか本当に、透明人間……?)
数種のコーヒー豆を投入したグラインダーが自動で豆を粉砕している間に、カップとソーサーを用意する。俺は横目で隣にいる少年を見た。どこにも透けているところはない。一見普通に存在する人間に見える。
コーヒー粉をドリッパーに入れ、沸騰した湯をポットに注ぐ。よどみなく出される指示はついていくのがやっとで、俺は無言で従った。急にスピードが落ちたのは、湯を注ぐ段になってからだ。少年は何か言っていたが、その時の俺に残った印象は、とにかくゆっくりと、臆病なほどゆっくりと湯を注いだということだけだった。
「出来上がり。さぁ、出してみてよ」
俺は黒に近い琥珀色をしたコーヒーをカップに注ぎ、ソーサーにのせて客の前に置いた。
「……あぁ、いい香りだ」
客はカップを持ち上げて呟く。おもわずこぼれ出たような言い方だった。
(あの液体からは、いい香りがするのか)
まるで見たくもない映画を眺めるような気分だった。横に立つ少年は自信ありげな笑みを浮かべている。
客は雑誌を読みながらゆっくりと、コーヒーを飲み干した。
「さすがはマスターの孫だなぁ、美味しかったよ。ごちそうさま」
「……ありがとう、ございます」
満足そうに会計をすませて扉へ向かう客の前で、いつの間にか扉のそばへと移動していた少年が流れるような仕草で恭しくお辞儀をしてみせる。客は、そこには何も存在していないかのような無反応で扉を開けた。夕方を感じさせる光が店内に差し込んだが、少年の足元に影はなかった。俺はただぼんやりとその様子を見守り、扉が閉まって足音が遠ざかっても動けなかった。
「……ほんとうに」
ようやく言葉をしぼり出す。さほど大きくもないはずなのに店内に反響した声は、驚くほど頼りない。
「どれが?」
「透明人間?」
「そうだよ」
「……じいちゃんのコーヒー?」
「うん」
さまざまな感情と疑問がうごめいていた。何故、透明人間が自分にだけ見える? 何故、祖父のコーヒーを淹れることができた? 香りだけで? それは、誰にでもできることなのか、匂いさえ感じられたら。何故、何故、なんで。
(ダメなのか)
俺には留守番すらできないのか。
「――ねぇっ!」
またカウンターへと戻ってきた少年が、覗き込むように俺を見ていた。長いまつげが縁どる漆黒の目が、心なしか輝いている気がする。そして、さも名案と言いたげな口調で提案してきた。
「手伝ってあげようか」
「え?」
「きみは僕が見えるし、僕はコーヒーを淹れられる。お互いの利害は一致していると思うよ」
たぶん、俺は相当混乱していた。あるいは精神的にかなり参っていたか。少なくとも、まともには考えられなかった。自分にしか見えない透明人間、つまり幻覚だ。それなのに。
「……そうだな」
気づけば頷いてしまっていた。しかし後には引けない。透明人間が、まさに満面の笑みを浮かべて大喜びしているからだ。
「やった、じゃあよろしく! えっと……ミツ坊?」
こいつ、いつからこの店にいたんだろう。ようやくそんな疑問にぶち当たる。
「充嗣だ。角尾充嗣」
「そう。よろしくね、ミツ」
あまりにもナチュラルにはしゃぐので、俺はおもわず苦笑する。そしてうっかりスルーしかけた。
「……って、お前の名前は?」
少年はきょとんと、まるで珍しいものでも見たような顔をした。その視線が宙をさまよう。
「忘れた。もーそんなのいいよ、どうせミツにしか見えないんだから。お前とかあんたとか好きに呼んでよ」
「いや、そういうわけにも……」
お前とかあんたとかって、どこの熟年夫婦だ。
「そう? じゃあさ、ミツがつけてよ。僕の名前」
にこにこと無理難題を吹っかけてくる少年に名乗る気はないらしい。仕方がない。
(匂いで――鼻で、コーヒーを淹れる、透明人間……少年)
俺は結構真剣に考えた。そして口にする直前、一応少しだけためらった。これは本当だ。
「ハナオ、でどうだ?」
少年――ハナオは、みるみる表情を変える。全身から憐れみと同情がにじみ出る。
「ミツって、センスないよね」
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だが、篠原の視線の奥に宿るのは、ただの欲望ではなかった。
そこには、ずっと榊だけを見つめ続けてきた、静かな執着がある。
「俺、前から思ってたんです。
あなたが誰かに“支配される”ところ、きっと綺麗だろうなって」
支配する側だったはずの男が、
支配されることで初めて“生きている”と感じてしまう――。
上司と部下、立場も理性も、すべてが絡み合うオフィスの夜。
秘密の扉を開けた榊は、もう戻れない。
快楽に溺れるその瞬間まで、彼を待つのは破滅か、それとも救いか。
――これは、ひとりの上司が“愛”という名の支配に沈んでいく物語。
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