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2 嗅覚を失くす (2)
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鼻から空気を吸うことでさまざまな香りや匂いを感じる感覚を、嗅覚という。視覚や聴覚、触覚などの人間の五感の一つだ。古くから多くの研究がおこなわれ、そのメカニズムを解き明かそうとされてきた反面、他の感覚よりも一段下に見られていたせいもあり、未だに謎の多い感覚器官ともいわれる。
体内に入った香りや匂いを最初にキャッチするのは、鼻の奥にある受容体だ。そこから情報の信号として脳へと送られる。信号は脳の知覚を司る部分のほかに、情動、認知、記憶に関わる部分へも届く。
嗅覚の働きは何か? まずは鼻から入ってきた匂いを認識すること。これは誰もが答えるだろう。花の香りや雨の匂い、あるいは食卓を彩る料理の芳しさ。それらは主人を楽しませ、愉快な気分にさせる。
喜びを与えてくれるのは、鼻から入ってくる匂いだけではない。口の中から鼻の奥へと流れ込むものもある。それは味わいや風味と呼ばれる。
味は、舌が感じていると思うだろうか?
実際に舌が感じるのは、塩味、甘味、苦味、酸味、そしてうま味だけだ。口に含んだものを、これはステーキだ、これは寿司、これはコーヒー、と判断できるのは嗅覚のおかげである。
一方で、危険をキャッチすることも重要な役割だ。たとえば火災やガス漏れ、食べ物が腐っているかなども匂いでいち早く気づき、回避する。この場所が安全か否かも判断できる。大げさなものでなくても、不愉快な匂いは不快感や不安をかき立てるだろう。
これは人間関係でも同じ。家族や恋人など親しい人々のそばにいれば安心するし、知らない人間を目の前にすれば信用できるかどうかを窺う。逆に敵とみなした人物を前にすればおのずと警戒心が生まれる。普段明確に感じなくても、嗅覚は敏感に個々の匂いを感じとっている。
そして匂いは、そういった認知や感情のほかに、記憶にも大きな影響力を持つ。ある匂いを嗅いだ瞬間、忘れていたことを思い出したという経験はないだろうか。たとえば、海の潮の香りを嗅いだ瞬間に、幼い頃に家族で出かけた海水浴の思い出がよみがえったり、雪の日のバスの排気ガスの匂いで、学生時代の受験当日の緊張と暗記した英単語をいくつか思い出したり。
これらすべてが嗅覚の仕業だ。気づかれないうちに何万もの匂いを処理する嗅覚は、毎日を色なき色で染めあげ、カラフルな日常を主人に提供している。
では、その嗅覚が、ある日突然その仕事のすべてを放棄したら?
空気はただ酸素を含んだ無臭の存在。食事は何の味も楽しみもない。常に隣り合う気づくことのできない危険。今まで感じていた人や場所、物事への愛着は、まるで霞の向こうにあるように輪郭をぼやけさせる。それは、ありとあらゆる魅力と安全をとり除いたモノクロームの世界に、身ぐるみ剥がされて放り込まれたも同然。
嗅覚を失くすとは、そういうことだった。
俺がまるで転がり落ちるようにすべてを失うのに、そう時間はかからなかった。
食べ物はほとんど味のしない代物へと変化していた。口に入れて咀嚼すれば、ハンバーグとダンボールの違いもわからないような状態。料理の風味がわからないことは食に関する仕事に少なからず影響したし、仕事の不調はそのまま私生活も巻き込んだ。結果として会社を辞め、あらゆる人間関係を絶って自宅にこもるようになる。何もしたくなかったし、やる気もおこらない。何とかしなければ。そう思う頃には、何をどうすればいいのかすらわからなかった。
母は二、三の助言をした後、ただ見守ってくれた。急かすでもなく甘やかすでもなく。母は気丈な人で、若くして結婚と離婚を経験して以来、ずっと仕事と子育てを両立してきた。生来の楽天的な性格とあっけらかんとした態度は自信にあふれているように見えたし、周囲の不安を吹き飛ばすほどのパワーを持っていた。長らく母は、生活する上で一切実家を頼ろうとしなかった。だが夏が終わり秋も中盤に差しかかる頃、とうとう息子のことを実家に相談する。祖父に頼る母の姿を俺は初めて見た。
祖父は、俺が彼の営む〈喫珈琲カドー〉を手伝うことを提案した。そもそも繁盛とは縁遠い、気ままな喫茶店だ。そこでの給仕なら匂いも風味も関係ない。それに常に自分がそばにいるから、孫が危険に気づかないような事態も避けられる、と。
『少しずつ外の世界に慣れていけばいい。新しい道だってやがて見つかるだろう』
祖父はそう言ったそうだ。俺は、母と祖父の提案にのった。
ところが、いざ手伝いに入る直前になって、今度は祖父が倒れた。店内で営業中に倒れたこともあって発見が早かったのは不幸中の幸いだろう。一命は取りとめたものの、意識不明のまま。
『充嗣。じいちゃんの喫茶店だけど』
病院へ駆けつけ、あらゆる説明と準備をこなして自宅へ戻ってきた母は言った。
『……開けなさい』
耳を疑った。
『母さん? 何言ってるんだ、そんな状況じゃないだろ』
『いいから。一度決めたことでしょ』
母は理由を言わず、ただ有無を言わせない口調で俺を説き伏せた。俺が頷いた後に、母は少しだけ微笑んだ。その奥にどんな思いが隠されていたのかはわからない。けれど、その選択は理解できる気がした。母にだって俺と祖父の二人を抱え込む余裕はない。俺を後戻りさせるわけにはいかなかった。
体内に入った香りや匂いを最初にキャッチするのは、鼻の奥にある受容体だ。そこから情報の信号として脳へと送られる。信号は脳の知覚を司る部分のほかに、情動、認知、記憶に関わる部分へも届く。
嗅覚の働きは何か? まずは鼻から入ってきた匂いを認識すること。これは誰もが答えるだろう。花の香りや雨の匂い、あるいは食卓を彩る料理の芳しさ。それらは主人を楽しませ、愉快な気分にさせる。
喜びを与えてくれるのは、鼻から入ってくる匂いだけではない。口の中から鼻の奥へと流れ込むものもある。それは味わいや風味と呼ばれる。
味は、舌が感じていると思うだろうか?
実際に舌が感じるのは、塩味、甘味、苦味、酸味、そしてうま味だけだ。口に含んだものを、これはステーキだ、これは寿司、これはコーヒー、と判断できるのは嗅覚のおかげである。
一方で、危険をキャッチすることも重要な役割だ。たとえば火災やガス漏れ、食べ物が腐っているかなども匂いでいち早く気づき、回避する。この場所が安全か否かも判断できる。大げさなものでなくても、不愉快な匂いは不快感や不安をかき立てるだろう。
これは人間関係でも同じ。家族や恋人など親しい人々のそばにいれば安心するし、知らない人間を目の前にすれば信用できるかどうかを窺う。逆に敵とみなした人物を前にすればおのずと警戒心が生まれる。普段明確に感じなくても、嗅覚は敏感に個々の匂いを感じとっている。
そして匂いは、そういった認知や感情のほかに、記憶にも大きな影響力を持つ。ある匂いを嗅いだ瞬間、忘れていたことを思い出したという経験はないだろうか。たとえば、海の潮の香りを嗅いだ瞬間に、幼い頃に家族で出かけた海水浴の思い出がよみがえったり、雪の日のバスの排気ガスの匂いで、学生時代の受験当日の緊張と暗記した英単語をいくつか思い出したり。
これらすべてが嗅覚の仕業だ。気づかれないうちに何万もの匂いを処理する嗅覚は、毎日を色なき色で染めあげ、カラフルな日常を主人に提供している。
では、その嗅覚が、ある日突然その仕事のすべてを放棄したら?
空気はただ酸素を含んだ無臭の存在。食事は何の味も楽しみもない。常に隣り合う気づくことのできない危険。今まで感じていた人や場所、物事への愛着は、まるで霞の向こうにあるように輪郭をぼやけさせる。それは、ありとあらゆる魅力と安全をとり除いたモノクロームの世界に、身ぐるみ剥がされて放り込まれたも同然。
嗅覚を失くすとは、そういうことだった。
俺がまるで転がり落ちるようにすべてを失うのに、そう時間はかからなかった。
食べ物はほとんど味のしない代物へと変化していた。口に入れて咀嚼すれば、ハンバーグとダンボールの違いもわからないような状態。料理の風味がわからないことは食に関する仕事に少なからず影響したし、仕事の不調はそのまま私生活も巻き込んだ。結果として会社を辞め、あらゆる人間関係を絶って自宅にこもるようになる。何もしたくなかったし、やる気もおこらない。何とかしなければ。そう思う頃には、何をどうすればいいのかすらわからなかった。
母は二、三の助言をした後、ただ見守ってくれた。急かすでもなく甘やかすでもなく。母は気丈な人で、若くして結婚と離婚を経験して以来、ずっと仕事と子育てを両立してきた。生来の楽天的な性格とあっけらかんとした態度は自信にあふれているように見えたし、周囲の不安を吹き飛ばすほどのパワーを持っていた。長らく母は、生活する上で一切実家を頼ろうとしなかった。だが夏が終わり秋も中盤に差しかかる頃、とうとう息子のことを実家に相談する。祖父に頼る母の姿を俺は初めて見た。
祖父は、俺が彼の営む〈喫珈琲カドー〉を手伝うことを提案した。そもそも繁盛とは縁遠い、気ままな喫茶店だ。そこでの給仕なら匂いも風味も関係ない。それに常に自分がそばにいるから、孫が危険に気づかないような事態も避けられる、と。
『少しずつ外の世界に慣れていけばいい。新しい道だってやがて見つかるだろう』
祖父はそう言ったそうだ。俺は、母と祖父の提案にのった。
ところが、いざ手伝いに入る直前になって、今度は祖父が倒れた。店内で営業中に倒れたこともあって発見が早かったのは不幸中の幸いだろう。一命は取りとめたものの、意識不明のまま。
『充嗣。じいちゃんの喫茶店だけど』
病院へ駆けつけ、あらゆる説明と準備をこなして自宅へ戻ってきた母は言った。
『……開けなさい』
耳を疑った。
『母さん? 何言ってるんだ、そんな状況じゃないだろ』
『いいから。一度決めたことでしょ』
母は理由を言わず、ただ有無を言わせない口調で俺を説き伏せた。俺が頷いた後に、母は少しだけ微笑んだ。その奥にどんな思いが隠されていたのかはわからない。けれど、その選択は理解できる気がした。母にだって俺と祖父の二人を抱え込む余裕はない。俺を後戻りさせるわけにはいかなかった。
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