スメルスケープ 〜幻想珈琲香〜

市瀬まち

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3 豆と女神展 (3)

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「さっきのはどういうことだ?」
 コーヒー豆の袋を携えての帰路、人がいないことを確かめてから俺はハナオに声をかけた。今度は俺の声のトーンが低い。頭の中は疑問と不満であふれていた。数歩先を歩くハナオは、俺とは対照的にスキップでもしかねないほどご機嫌だ。
欠点豆けってんまめって知ってる? 虫にわれていたり欠けていたり、発酵はっこうや変色してしまったりしたコーヒー豆のことで、こういう豆は豆のうちにねるんだ。焙煎前の生豆なままめと焙煎後、人によってはく前にもするのかな。その作業をハンドピッキングっていって、店主はさっき、まさにその真っ最中だったんだけど」
 俺は店を訪れた時のことを思い出す。種田氏は作業台の前に座り、トレイにのせた褐色のコーヒー豆を見ていた。
「どうしてこんな作業をするかわかる?」
 ハナオは肩越しに振り返った。
「――欠点豆はいちじるしく風味を落とすからだよ」
 くるりと前を向くと、さらに続ける。
「種田氏はね、きみが注文した豆の中に、わざとピッキングしたばかりの欠点豆を混ぜたんだ」
 とっさに、どういうことなのかわからなかった。その意味を理解した瞬間、驚きは責めるような口調で飛び出た。
「それは……ッ」
「そうだね。そんな豆を挽いたコーヒーは絶対に美味しくない」
 そしてそんなコーヒーは下手をすれば一杯や二杯ではすまない。やがては〈喫珈琲カドー〉の信用にもかかわるだろう。
「なんでそんなことを……!?」
 今ここに種田氏がいればつめ寄っていたかもしれない。それは商取引をする上でやってはいけない裏切り行為だ。
(だからなのか)
 あの時ハナオが店主を睨み、「なるべく怒った口調で」と言ったのは。
「そう、問題はそこ。何故、店主はそんなことをしたのか」
 俺の足が止まったのを察してかハナオも立ち止まり、今度は体ごと俺の方へ向き直る。その表情から機嫌のよさは消えていた。
「そんなコーヒー豆を買って店で提供することでこうむるカドーの損害は、わかるよね?」
「カドーへの信頼の失墜しっつい
 ブレンドコーヒーのみで営む喫茶店にとってコーヒー豆は生命線だ。
「もしかしたら閉店へ追い込まれるかもね。――じゃあ、そうすることで種田氏が受ける恩恵は? イコールにはどんな得があるの?」
 怒りで曇っていた視界が晴れた気がした。
(……ない)
 〈喫珈琲カドー〉と〈コーヒービーンズ イコール〉との付き合いは、昨日今日のものではない。最長で二十五年。その中で築き上げた信頼関係が、ひと袋に混入された数粒の豆で崩れ去る。さらにこのことがうわさにでもなれば、今度は自身の店がどうなるかわからない。そんなリスクを冒してまで得られる恩恵など見当たらない。
(カドーのライバル店と組んでの画策? ……まさか)
 極小喫茶店にライバル店なんかあるのだろうか。たとえあったとしても、そこまで敵意をむき出しにするなんて商売人として器が小さすぎる。
「損することの方が圧倒的に多いよね。たとえミツが気づいたとしても、混ぜてしまった時点で、彼にはもう一度ピッキングするという手間が残される。ひと袋に――たとえ何百グラムだったとしても――いくつ豆が入っていると思う? 数粒の欠点豆をすべて取り去るのにかかる時間は?」
 一センチ程度の褐色の豆を何百何千と目の前に広げ、ほんのひとつかみ入れただけの欠点豆を見つける。その途方もない作業。それは普段のハンドピッキングとは違い、あきらかに本来ならやらなくてよかったはずの無駄な動き。
(それに、俺が気づいたって、やっぱり信用には傷がつく)
 なおさら彼の行動が理解できない。何故そんなことをしたのか。
「種田氏は試したんだよ。大きな大きな手間とリスクを冒し、ともすれば店の存亡すらも懸けて。カドーの孫とやらは認めるに値するのかを、ね。……まだ、わからない?」
 静かに答えを提示したハナオは、無言で睨み合った時の種田氏と同じ目をしていた。相手の奥底を見透かし、見極めようとする目。
「ミツ、きみが僕に対して苛立っているのを僕は知っているし、それを責めるつもりはないよ。でも、ミツが本当に戦わなくちゃいけないのは、僕じゃなくて彼らだ」
「彼、ら?」
「種田氏や初日の客、それに他の常連客。カドーに関わるすべての人々だね。彼らもまた、カドーを愛し守ろうとしている。きみと同じように。そして愛しているがゆえに、孫というだけで〈喫珈琲カドー〉を下手に壊されるくらいなら、いっそ自分たちの手でつぶしてしまおうとする彼らと、ミツは戦わなくちゃいけないんだ」
 そんなバカな。そんな極端な話があるか。言いたいはずの言葉は出てこなかった。
『ミツ坊は、この店を継ぐのか?』
 初日の客――祖父の旧友は、俺にこう尋ねた。
 〈喫珈琲カドー〉を守る〝戦い〟は今日が初めてではなく、もうすでに始まっていたのだ。一口飲んだきりのコーヒーが残されてしまった瞬間から。あれは〝客の自由〟なんかじゃなく、宣戦布告。
『まぁ、あまり気を落とすなよ』
 祖父が倒れたショックで本領発揮できなかったのだと信じていいな、という猶予ゆうよつきの。
(……でも、それは)
 俺の中の冷静な部分が訴える。
 それは、誰かを客にするということのすべてに共通する〝戦い〟ではないか? 今回その相手があまりにも強大で、しかも人情にあふれているというだけで。
『いいよ、立場ってものがあるからね』
 ハナオは種田氏にこう言った。立場があるから――目指す先は同じでも立っているのは対岸だから。その間を広大な河が隔てているから。その河は、〈喫珈琲カドー〉が積み上げてきた歳月、もしかしたら〈喫珈琲カドー〉そのものか。
 あるいは戦うべき相手こそが〈喫珈琲カドー〉という存在そのものなのかもしれない。
「まぁでも、大丈夫」
 ハナオがにこりと笑った。上機嫌が戻ってきていた。
「ミツはイコールの店主に認められたんだよ。だからこそ僕はマンデリンを追加したんだ。あの店はいい店だよ、丁寧だし。カドーのマスターの信頼が篤いだけのことはあるね。中でも今日の品揃えで一番いいき上がりなのがマンデリンだったんだ。種田氏も自信があったんじゃないかな。彼、嬉しそうだったでしょ?」
 たしかに、と俺は思う。会計時や品物を渡してくれた時、種田氏の機嫌がやたらよかったのには、そういう理由もあったのか。
 そしてそのマンデリンは、〈喫珈琲カドー〉からのメッセージでもある。〈コーヒービーンズ イコール〉がおこなった〝試し〟に対する容赦と感謝。それを示すために、店の中で一番出来のよい豆は追加された。
「……なぁ、ハナオ。それも匂いでわかったのか?」
 こんな時にまで、そんなことを訊いてしまう自分の卑小さに、俺はあきれた。けれど住み着いてしまった劣等感や疎外感はお構いなしにうずく。わかっていた。今〈喫珈琲カドー〉を守っているのは、俺ではなくハナオだ。
 ハナオは質問に答えず、中天に近づきつつある太陽を見上げて目を細めた。長めの前髪が色白の肌に影を落とす。足元に影はできないのに、彼自身には日差しによる陰影ができるらしい。
「――まだ、時間あるよね。ねぇ、ミツ、隣町のショッピングモールに寄っていかない? 読みたい本があるんだ」
 ハナオは、えへへ、と笑って小首を傾げる。その言葉と仕草の意味は。
「本、読めるのか?」
「読めるよー、誰かがページをめくってくれたら」
「それはつまり、俺が買って、お前の読むペースに合わせてページをめくれってことだよな?」
「せっかくそうしてくれる人がいるんだから。ね、お願い。どうしても読みたかったのに、なかなか読んでいる人に会えなかったんだ」
 お願いお願いっ、とハナオは手を合わせ、ウインクまでかましてきた。
「ったく、仕方ねぇな。今何時……あぁ、スマホ忘れた」
 観念して時刻を確認しようとし、ポケットに財布しか入っていないことに気づく。最近は連絡を受けることもめっきり減ってしまったので、持ち歩く習慣がなくなった。きっとカウンターかレジ横に置きっぱなしだ。そもそも出かけること自体が少なくなってしまい、腕時計もどこへ片付けてしまったか。
「やったー! 昼前だよ。いいじゃない、今日はカドーをお休みにしたら」
 ざっくりと答えてハナオが歩き出した。スキップに加えて鼻歌まで登場しそうなほどご機嫌な背中を追う。なんて気ままな言い分だ。
(……まぁ、不定営業だし、いいか)
 挑むには強大であっても、やっぱり祖父の作り上げた〈喫珈琲カドー〉は、勝手気ままな趣味丸出しの喫茶店だ。
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