スメルスケープ 〜幻想珈琲香〜

市瀬まち

文字の大きさ
11 / 42

3 豆と女神展 (5)

しおりを挟む
 ショッピングモールの三階は、一階からの吹き抜けをはさむように両側に通路を伸ばし、専門店を連ねる。書店は映画館の横にあり、映画館とギャラリーは真反対だった。つまり、ギャラリー側に昇ってきてしまった俺は、フロア内を端から端まで歩かなければいけないというわけだ。
 結局、女神展を観ずに――地元っ子の俺はもう何度も観ている――書店へと向かう。休日と違ってゆったりしているが、それでも客は多い。主婦とおぼしき子連れの女性や年配の夫婦、学生らしい若者など、平日ながら客層はさまざまだ。彼らが織りなすざわめきに店員の呼び声やアナウンス、BGMが混ざり合い、意味のないノイズとなる。宝石や家具などだった売り場が、服飾や雑貨へと変化するにしたがって、人数もざわめきも増えていく。すれ違う人、立ち止まる人、追い越していく人、人、人……。
 気づくと俺は、口に手を添えていた。
 たいした人出ではない。わかっている。それでもこんな人混みの中にいるのは、本当に久しぶりだ。無意識にフードコートのある通路を避けたのは正解だった。けれど映画館の入り口が見えてきたあたりで限界がきた。休憩するフリをして、通路の端のベンチに座り込む。目の前に、大きくて安定感の悪いスクリーンでもすえられているようだった。人々の往来はどこかよそよそしく、無理やり見せられる映像のような視界に悪酔いしてしまう。
(……なんで、たかが匂いがないくらいで)
 あの映画館。あの空間からは、かつてどんな匂いがしていただろう。たとえば、塩とバターの効いたポップコーン? それはどんな匂いだった? その横の書店では、紙や印刷のインクの匂いが、……していただろうか? 今、横に置いた紙袋。その中のコーヒー豆は、どんな匂いを漂わせているのだろう、あるいは何の匂いもしていないのか?
 指を当てた額には、じっとりと脂汗が浮いていた。
「――あれ、もう来たの?」
 頭上からのん気な声が降ってきた。視界の端に学ランの裾が見える。足元のくたびれたカーペットは踏まれている様子が全くない。俺はゆるゆると顔を上げた。
「……ハナオ」
「何、迷子にでもなったわけ? いい大人が」
「ちげーよ」
 すがるような目をしていた自覚はあるし、うっかり安堵あんどしてしまったけれど、俺はあえて強がった。小声だったけど。
 ハナオは小首を傾げて言ってのけた。
「本なかったよ。帰ろうか、ミツ坊」
「……だから、違うって」
 俺は苦笑しながら、ゆっくりと立ち上がった。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

罪悪と愛情

暦海
恋愛
 地元の家電メーカー・天の香具山に勤務する20代後半の男性・古城真織は幼い頃に両親を亡くし、それ以降は父方の祖父母に預けられ日々を過ごしてきた。  だけど、祖父母は両親の残した遺産を目当てに真織を引き取ったに過ぎず、真織のことは最低限の衣食を与えるだけでそれ以外は基本的に放置。祖父母が自身を疎ましく思っていることを知っていた真織は、高校卒業と共に就職し祖父母の元を離れる。業務上などの必要なやり取り以外では基本的に人と関わらないので友人のような存在もいない真織だったが、どうしてかそんな彼に積極的に接する後輩が一人。その後輩とは、頗る優秀かつ息を呑むほどの美少女である降宮蒔乃で――

七竈 ~ふたたび、春~

菱沼あゆ
ホラー
 変遷していく呪いに終わりのときは来るのだろうか――?  突然、英嗣の母親に、蔵を整理するから来いと呼び出されたり、相変わらず騒がしい毎日を送っていた七月だが。  ある日、若き市長の要請で、呪いの七竃が切り倒されることになる。  七竃が消えれば、呪いは消えるのか?  何故、急に七竃が切られることになったのか。  市長の意図を探ろうとする七月たちだが――。  学園ホラー&ミステリー

百合ランジェリーカフェにようこそ!

楠富 つかさ
青春
 主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?  ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!! ※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。 表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。

神様がくれた時間―余命半年のボクと記憶喪失のキミの話―

コハラ
ライト文芸
余命半年の夫と記憶喪失の妻のラブストーリー! 愛妻の推しと同じ病にかかった夫は余命半年を告げられる。妻を悲しませたくなく病気を打ち明けられなかったが、病気のことが妻にバレ、妻は家を飛び出す。そして妻は駅の階段から転落し、病院で目覚めると、夫のことを全て忘れていた。妻に悲しい思いをさせたくない夫は妻との離婚を決意し、妻が入院している間に、自分の痕跡を消し出て行くのだった。一ヶ月後、千葉県の海辺の町で生活を始めた夫は妻と遭遇する。なぜか妻はカフェ店員になっていた。はたして二人の運命は? ―――――――― ※第8回ほっこりじんわり大賞奨励賞ありがとうございました!

夫婦交換

山田森湖
恋愛
好奇心から始まった一週間の“夫婦交換”。そこで出会った新鮮なときめき

後宮の胡蝶 ~皇帝陛下の秘密の妃~

菱沼あゆ
キャラ文芸
 突然の譲位により、若き皇帝となった苑楊は封印されているはずの宮殿で女官らしき娘、洋蘭と出会う。  洋蘭はこの宮殿の牢に住む老人の世話をしているのだと言う。  天女のごとき外見と豊富な知識を持つ洋蘭に心惹かれはじめる苑楊だったが。  洋蘭はまったく思い通りにならないうえに、なにかが怪しい女だった――。  中華後宮ラブコメディ。

ちょっと大人な体験談はこちらです

神崎未緒里
恋愛
本当にあった!?かもしれない ちょっと大人な体験談です。 日常に突然訪れる刺激的な体験。 少し非日常を覗いてみませんか? あなたにもこんな瞬間が訪れるかもしれませんよ? ※本作品ではGemini PRO、Pixai.artで作成した生成AI画像ならびに  Pixabay並びにUnsplshのロイヤリティフリーの画像を使用しています。 ※不定期更新です。 ※文章中の人物名・地名・年代・建物名・商品名・設定などはすべて架空のものです。

R指定

ヤミイ
BL
ハードです。

処理中です...