スメルスケープ 〜幻想珈琲香〜

市瀬まち

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3 豆と女神展 (6)

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 〈喫珈琲カドー〉に帰り着くと、店内で誰かがうなっていた。たっぷり五秒はかかってから、それが置き去りにしていたスマホのバイブだと気づく。反応が遅れたせいで、着信は切れてしまった。
(普段は静かなくせに珍しい……って、うわ!)
 コーヒー豆の紙袋をカウンターに置いてから画面を確認し、俺はおもわずスマホを取り落としかけた。おびただしい数の着信履歴が残っている。――一時間以上前から。
(何だこれ?)
 そうこうしているうちに画面と振動が再着信を告げる。
「母さん? どうし……」
《――充嗣!? 本当に充嗣!? あんた無事なのっ?》 
 聞いたこともない悲鳴のような母の声が飛び込んできた。何事だ?
「何、どうした? ちょっと落ち着けって……うん、大丈夫だから、無事だから。わかるように言えよ、母さん」
 母は、連絡がつかなかったことをひとしきりなじった後、ようやく落ち着いてきたのか、事情を話しだした。
(マジかよ)
 今度はこっちが驚く番だ。
 スマホ越しに深く息を吐きながらの声が聞こえる。もうすっかり通常の母だ。
《とにかく無事なのね。ならいい。今度から絶対に連絡取れるようにしてよ。一時間も息子の安否確認なんて、金輪際こんりんざいごめんだわ》
「……悪かったよ」
《いいわよ、無事なら。――がんばりな。じゃあね》
 そう言って母は通話を終えた。俺はスマホをカウンターに置いて、持って帰ってきた紙袋に目をやる。それから、壁にかけられた時計に。短針は二時を少し過ぎたあたりを指していた。
「……なぁ、ハナオ。結局、何の本が読みたかったんだ?」
「えー、何、いきなり。ネットで注文してくれるの? 悪いよ、また今度でいいよー」
 ハナオはにこにこと笑っている。
「いいから言えよ。本のタイトルは何ていうんだって、訊いてんだよ!」
 カウンターを殴りつけて、俺は怒鳴った。その笑顔に腹が立った。
「ミツ、怖いよ」
 ちっとも怖がっていない口調が返ってくる。それが俺の確信をさらに強めた。
「――今、母さんから電話があった」
「そうみたいだね」
「正午ごろ、この近所で事故があったらしい」
 場所は〈喫珈琲カドー〉から歩いて十分ほどの距離。怪我人も何人か出ていて、一時は騒然としたらしい。けれど特別大きなものではなく、周辺にまで被害が及ぶほどではなかったという。現に店は無事だった。
 母を慌てさせたのは、この事故がガス漏れによるということだった。それを責めるつもりはない。匂いを感じ取れない息子の近所で起きたとなれば、安否を確認するだろう。連絡がつかないとなれば、パニックにだってなるだろう。つい先日、祖父が倒れたばかりだ。
「お前、知ってただろ」
 母の話を聞きながら生まれた疑念は、すぐ確信に変わった。事故のあった場所――たしかに〈喫珈琲カドー〉からは遠い。ただし、そこは〈コーヒービーンズ イコール〉からの帰り道だった。もし寄り道せずにまっすぐ帰ってきていたら、巻き込まれていたかもしれないタイミングだった。もし俺一人なら確実に。あの時、ショッピングモールへ寄ろうと言いだしたのは誰だったか。理由は何だったか。
「最初から、読みたい本なんてなかったんじゃねぇの? 本屋に行きたいって言った時、本当はあの後すぐに事故が起こるって、気づいてたんだろ?」
「うん、知っていたよ」
 表情を動かさずに、ハナオはあっさりと頷いた。
「なんで言わなかったんだ」
「言ってどうなるの?」
「どう、って……他の人に知らせるとか通報するとか、できただろ。なんで何もしないで」
「へぇ、何て言うつもり、ミツ? 俺の隣にいる透明人間が、これから事故が起こるって言ってますって? 誰が信じるの? それこそ怪我人が一人増えるだけだよ」
 ハナオの言うとおりだ。俺にだってわかっていた。ハナオに感謝こそしても、責めるなんてお門違いだ。わかっていたけれど。
「でも」
 頭ではわかっていても納得しきれない気持ちが、反発の言葉を吐き出させた。
 突然、ハナオの笑みが消えた。真顔で俺を見すえる。
「救えるから助けた」
 そんな表情は一瞬で、すぐに元の楽しげな笑みが戻ってくる。
「それだけだよ。――そんなことよりさ、コーヒー豆を瓶に移しちゃおうよ」
 ハナオはソワソワと紙袋の周りを歩く。早く開けろと言わんばかりだ。
(もしかして)
 俺の中に、もう一つ考えが浮かぶ。ハナオは、祖父が倒れるのを見ていたんじゃないだろうか。
「……お前、いつからカドーにいるんだ?」
「えー? もぉ今度は何? そうだねぇ、ここのマスターが、孫が手伝いに来るって嬉しそうに電話していたのを知っているくらいには前からかな。それよりさ、ねぇ早くー」
 俺はそれ以上何も言わずに、コーヒー豆の紙袋を開けた。ハナオは幸せそうに深呼吸して香りを満喫している。
 あの真顔に戻った一瞬、ハナオの目はいくつかの感情を垣間見せていた。俺が見てとったのは、怒りのように感じたけれど。この少年は笑みの下にどれほどの感情を抱えているのだろう。
 俺は、この日初めてそんな疑問を感じた。
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