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9 リツコ(5)
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帰路に着く二人を見送るため扉を開けた俺に、外へ出ようとした玉寄さんが振り返った。ハナオは、先に表に出たリツコさんのそばにいる。
「角尾さん、どうしてコーヒー豆を変えたんですか? 今日、豆を二度挽きましたよね。初めのものと後の――祖母を驚かせたコーヒーでは、ブレンドが違ったんじゃないですか? 何故、あんなことを?」
さすがにバレていた。挽く前ならばともかく、グラインダーを二回も作動させてしまえばごまかしようがない。
俺は目を泳がせて口ごもる。どう答えたらいいだろう。ハナオがやり直しを指示したなんて言えない。答えを待っていた玉寄さんは、諦めたように笑った。
「いいです、ごめんなさい。祖母を喜ばせてもらったのだから、その舞台裏まで教えてもらうのはワガママですね」
ほっとしたような心苦しいような、なんとも苦い気持ちが俺の中に広がる。
「……わたし、いつも思っていたんです。角尾さんがコーヒーを淹れている動きは、まるでお伺いを立てているようだと」
「お伺い?」
「まるで、コーヒーの神様と会話しながら淹れているみたいだな、って」
真剣な面持ちで言いきってしまってから、玉寄さんは顔を赤らめた。
「すみません、忘れてください! 少女趣味ですよね。ほんっと、血筋は争えないっていうか……」
俺とハナオが見送る中、二人は軽く会釈をして、ゆっくりと歩き出す。徐々に遠ざかる背にハナオが呟いた声が、遠く響く生活音に混じって届いた。
「さようなら、リツコ」
踵を返したハナオは、俺の横をすり抜けて、開けっぱなしの扉から店内へ駆け込む。後から覗くと、小上がりの縁を平均台のように歩くハナオの背中が見えた。あきらかに上機嫌なのが伝わってくる。
(今日はもう、閉めるか)
なんとなく邪魔されたくなくて、気ままな喫茶店のマスター代理は閉店を決める。扉の表側にかけていた小さな看板を外して片付け、扉を閉めて鍵をかけた。
(……じいちゃん、喫茶店っていいな)
ほんのりと温かな気持ちのまま、俺は祖父が作り上げたこの場所を誇らしく思って、そっと微笑んだ。けれど。
幸せの残り香をかすめて、突如、衝撃はやって来る。
「ハナオ、今日はもう閉めたから……ハナオ?」
閉店を伝えるために声をかけた俺の目に入ったのは、小上がりの縁で固まっているハナオの、僅かに丸められた黒い背中だった。
「何やって……?」
その体が、ぐら、と傾ぐ。
「――ハナオ!!」
ぶつかる! 反射的に俺は、カウンターの椅子を体当たりするように叩き退け、ハナオの体を支えるために腕をのばした。
椅子が大きな音を立てて床に倒れる。
次の瞬間、俺の全身が鳥肌を立てた。悪寒が背筋をはい上がり、脂汗がにじみ出る。嫌悪感と恐怖が体中に震えを伴って走った。久しぶりに感じる、感覚のズレ。
何故、忘れていたのか。
自問した瞬間に答えがはじける。ハナオがそうと感じさせなかったからだ。カウンターを迂回したり、扉が開くのを待っていたり。彼は決して俺の前で物を透り抜けなかった。いつしか俺は、ハナオが自分にだけ見えて周囲の人に見えないことを、ハナオの個性か何かのようにとらえていた。でも違う。
ハナオは透明人間だ。
のばした腕は、一瞬彼に埋まってから空しく脱出し、ハナオの体は音もなく床に叩きつけられた。
「……ハ、ハナオ?」
ハナオは横向けに倒れたまま微動だにしない。腕はだらりと力なく床に投げ出され、乱れた黒髪の隙間から固く閉じられた瞼が見える。肌は紙のように青白く血の気がなかった。
何が起こったのか、わからない。
「角尾さん、どうしてコーヒー豆を変えたんですか? 今日、豆を二度挽きましたよね。初めのものと後の――祖母を驚かせたコーヒーでは、ブレンドが違ったんじゃないですか? 何故、あんなことを?」
さすがにバレていた。挽く前ならばともかく、グラインダーを二回も作動させてしまえばごまかしようがない。
俺は目を泳がせて口ごもる。どう答えたらいいだろう。ハナオがやり直しを指示したなんて言えない。答えを待っていた玉寄さんは、諦めたように笑った。
「いいです、ごめんなさい。祖母を喜ばせてもらったのだから、その舞台裏まで教えてもらうのはワガママですね」
ほっとしたような心苦しいような、なんとも苦い気持ちが俺の中に広がる。
「……わたし、いつも思っていたんです。角尾さんがコーヒーを淹れている動きは、まるでお伺いを立てているようだと」
「お伺い?」
「まるで、コーヒーの神様と会話しながら淹れているみたいだな、って」
真剣な面持ちで言いきってしまってから、玉寄さんは顔を赤らめた。
「すみません、忘れてください! 少女趣味ですよね。ほんっと、血筋は争えないっていうか……」
俺とハナオが見送る中、二人は軽く会釈をして、ゆっくりと歩き出す。徐々に遠ざかる背にハナオが呟いた声が、遠く響く生活音に混じって届いた。
「さようなら、リツコ」
踵を返したハナオは、俺の横をすり抜けて、開けっぱなしの扉から店内へ駆け込む。後から覗くと、小上がりの縁を平均台のように歩くハナオの背中が見えた。あきらかに上機嫌なのが伝わってくる。
(今日はもう、閉めるか)
なんとなく邪魔されたくなくて、気ままな喫茶店のマスター代理は閉店を決める。扉の表側にかけていた小さな看板を外して片付け、扉を閉めて鍵をかけた。
(……じいちゃん、喫茶店っていいな)
ほんのりと温かな気持ちのまま、俺は祖父が作り上げたこの場所を誇らしく思って、そっと微笑んだ。けれど。
幸せの残り香をかすめて、突如、衝撃はやって来る。
「ハナオ、今日はもう閉めたから……ハナオ?」
閉店を伝えるために声をかけた俺の目に入ったのは、小上がりの縁で固まっているハナオの、僅かに丸められた黒い背中だった。
「何やって……?」
その体が、ぐら、と傾ぐ。
「――ハナオ!!」
ぶつかる! 反射的に俺は、カウンターの椅子を体当たりするように叩き退け、ハナオの体を支えるために腕をのばした。
椅子が大きな音を立てて床に倒れる。
次の瞬間、俺の全身が鳥肌を立てた。悪寒が背筋をはい上がり、脂汗がにじみ出る。嫌悪感と恐怖が体中に震えを伴って走った。久しぶりに感じる、感覚のズレ。
何故、忘れていたのか。
自問した瞬間に答えがはじける。ハナオがそうと感じさせなかったからだ。カウンターを迂回したり、扉が開くのを待っていたり。彼は決して俺の前で物を透り抜けなかった。いつしか俺は、ハナオが自分にだけ見えて周囲の人に見えないことを、ハナオの個性か何かのようにとらえていた。でも違う。
ハナオは透明人間だ。
のばした腕は、一瞬彼に埋まってから空しく脱出し、ハナオの体は音もなく床に叩きつけられた。
「……ハ、ハナオ?」
ハナオは横向けに倒れたまま微動だにしない。腕はだらりと力なく床に投げ出され、乱れた黒髪の隙間から固く閉じられた瞼が見える。肌は紙のように青白く血の気がなかった。
何が起こったのか、わからない。
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