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11 女神の気まぐれ(1-2)
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少しだけ間をおいて、ハナオは、あの日、と言った。
「あの日、初めての女神展が告知された。そのことを知ったのは……たぶん新聞だったかな。おそらく日中だったんだろうね。学校で、だったかもしれないな、リツコと会った時に制服を着ていたから。――このあたりは、ちょっと記憶が曖昧なんだ。その後が強すぎてね。この時はまだ、忘れられない記憶力なんて持っていなかったし。……ねぇ、ミツ」
ハナオの漆黒の目が俺を見た。
「以前、僕に説明してくれたよね。最初に女神展が催されたのがいつだったか覚えている?」
俺は記憶を探る。青柳緑樹の出身地はこのあたりで、地元っ子の俺は小学校で習わされた。戦前で、駆け落ちから数年後で――。
「その時、モデルの女性は、……亡くなっていた」
図録によれば、女神展は稀子が亡くなっておよそ一年後に開催された。告知にはそのことも書かれていた。噂の女性の死と、それを乗り越えて発表される、彼女をモデルにした絵画。しかも発表者は駆け落ち相手であり、恋人でもあった画家。
「僕はその告知で、稀子が一年も前に死んだことを知った」
「そう、なのか? 亡くなったことの、連絡は……?」
世間の好奇をあおる文句は、下火になっていたスキャンダルを再び燃え上がらせる。その中に、親族への気遣いなど皆無。そんなもので、死を知らされた?
「実際、稀子とは絶縁状態でね。実家である祖父母も父も、稀子がどこで何をしているかを把握していなかったんだよ。青柳が軽々しく連絡をとれる家柄でもないしね」
ハナオは、小さくため息をひとつ吐いて、伏し目がちに視線を落とした。口元に浮かんだのは、微苦笑、と言うべきだろうか。
「僕の中に出来上がっていたアイデンティティの話は、したね。その告知を見た瞬間、僕の目的の一つは、もう永遠に叶わなくなった。いつか迎えにいくはずの母親は、一年も前にどこかで死んでいた。僕は稀子の死を知ると同時に、自分の中の支えを一つ失くしたってわけ。〝父の後継ぎ〟というプライドすらも、ショックを隠し殺すことはできなかった。気がつけばマスターに会いに行っていたよ。もしかしたら、泣きわめきたかったのかもしれないね。誰でもない自分としてなら、存分にマスターに甘えて泣けたかもしれない。でも店は休業でマスターはいなかった。僕は閉じられた扉の前に座り込んだ。とても家へ帰れそうになかった――〝後継ぎ〟にふさわしくなんて、していられそうになかった。たしかにひどく寒い日だったはずなんだけど、寒さは感じていなかったな」
ここから先は、リツコが話したとおりだよ。
やって来たリツコさんに発見されて、店の中でマスターの帰りを待った。けれど彼は戻らず、ハナオは家へ帰る。
「リツコが僕に絶望を見たと言っていたように、とても取り繕うことなんてできる余裕はなかった。けどリツコの前では、取り乱すことはできないよ。何も知らない大人の前ではできるとしても、同世代の女の子の前では、たとえ相手が本当に何も知らなくても、無理だ」
この日、それほどまでに大事な役割を果たすはずだったマスターは、店を休業してどこへ行ったのか。それは図録が教えてくれる。
やはりその日の新聞で告知を見たマスターは、画家・青柳緑樹の元に赴いていた。
稀子がマスターと出会ったのは、彼女の晩年。ほぼ死の直前といってもいい頃だった。マスターは、遺言ともとれるような言葉とその経緯を彼女の恋人に伝え、女神展の大々的な告知を控えてほしいと頼んだ。
青柳緑樹は理由を尋ねた。初めての個展だ。稀子と二人で制作してきた絵画の数々だ。これが自分の未来を左右するかもしれない。それほどまでに大事なものの告知なんだ。
それでも、せめて今回だけは。マスターは重ねて言う。稀子には息子がいる。彼女にそっくりの顔立ちをした少年だ。多感で、まだ自分の身を守れるだけの力を持たない十四歳。個展を取りやめろとは言わない。けれどせめてこの子の目に告知が触れないようにしてほしい。
画家はマスターの申し出を受け入れ、翌日から告知は数を減らし、地味なものになった。だからこそ、女神シリーズは戦後になってから本格的に人気が出た。
(けど、遅すぎた)
稀子の息子は告知を見てしまっていた。そして、息子の家族も。
「帰宅途中の夜道で雪が降り出した。――ちょうどこの雨と同じように、強くはないけど、しんしんと音もなく。僕は足を速めたと思う。家の者が心配する、そう考えたのかな。だって一応大切な後継ぎ息子だからね」
店の前を、車が走り去る水音が聞こえる。ハナオの口調は淡々としていた。
「珍しく、父が帰ってきていた。僕の帰宅はそんなに遅くなったのだろうか。そう思うと同時に、ひどく安堵した。……そうだ、僕はこの人の息子だ。僕には父がいて、僕は父の後を継ぐ人間なんだ。そう考えると、俄かに悲しみはどこかへ消えていった。希望が湧いて、笑みすらも浮かんだ。
開いたままの書斎の扉越しに、僕は父に声をかけた。おかえりなさい、とか、そんなことだった。今考えれば、父が書斎の灯りをつけていなかったことを、疑問に思うべきだったんだよ。父は僕の姿を認めると、歩み寄って来た。廊下から差し込む光が、徐々に父から影を取り払った。その無表情な顔から。
父は目だけで僕を見下ろして言った。
『お前は、誰の子だ』
父もまた、告知で稀子の死を知ったんだよ」
息子を産むことを条件に他の男への愛を語った美しい妻。他の男に妻を奪われることで手に入れた美しく賢い息子。その息子の顔立ちには、妻の面影ばかりが見えて、自分の要素はカケラも見つけられない。元夫は疑念を抱いたのだろうか。この息子は、本当に妻と自分の子なのか、と。
(タイミングが悪かったのか)
きっと普段の――敏腕実業家としての彼ならば、理性的に考えただろうか。顔立ちこそ妻に瓜二つでも、息子の内面には自分から受け継いだ要素もあると。少なくとも、そんな質問を息子に投げかけるべきではないと。
(あるいは)
妻のことに関しては、やり手とされた彼でも冷静にはなれなかったのか。
何の配慮もない告知で稀子の死を知った父と子は、とんでもない対峙を果たした。
「父は目を逸らすと、僕の横を通り過ぎていった。僕はゆっくりと自室へ向かった。表情は変えなかった。微笑んですらいたんじゃないかな。誰が見ても、僕の様子がおかしいなんて思わなかったはずだ。だって僕は、後継ぎだよ。ふさわしい行動をしなきゃ。……でも、何のために? 父の息子であることが僕の誇りだったけれど、今やそれは崩れ去った。母に逝かれ、父には我が子であることを疑われた。僕のアイデンティティは完全に崩壊した。もう何もない。存在する理由がないなら、僕なんかもういらない。強く、強く願った。消えてしまえ、と。
ふと空気が変わった気がした。ノックの音がして扉が開いた。まだ幼い弟が顔を覗かせて僕を呼び、言った。『どこ?』
これが透明人間の生まれた瞬間だよ」
俺は、ごく、と喉を鳴らして、カラカラに渇いていることに気づいた。
(これが……)
ハナオの見た絶望。
(なんで)
もしも何か一つ――たった一つでよかったんだ――違えば。結末はこうではなかっただろう。少年は自分の消滅なんか願わなかっただろう。
俺は声が出せないままに、歯を食いしばって行き場のない怒りを抑え込んでいた。
(なんでだよ……!)
誰が叶えたかなんて知らないけれど、何故この願いを叶えた? 本当に叶わなければいけなかったのは、透明人間なんて大それたものではなかったはずだ。もっと些細で小さくて、当たり前に叶っていいものだったんじゃないのか。
ハナオが本当に願ったのは、こんな中途半端なものじゃない。
「――ミツ。昔話だよ」
膝の上にのせた手を軽くにぎり、ハナオは微笑んだ。穏やかで何の感情も覗いていない。何かが隠されているわけではなく、何もない。そんな笑みだ。
「透明になった僕に、あの家にいる理由はなかった。――って言ったら、格好つけすぎかな。僕は逃げて、何年も戻らなかった。自分がどんなものになったのかは、少しずつ理解していったよ。どこまで行っても、目の前には今まで全く知らなかった世界が広がっていく。知識も感情も、知らないものばかりだ。単調でつまらなかった毎日は、一転した。起伏に富んだその日々を、僕は必死で経験した。辛いこともあったけど、それでも楽しくて仕方なかった。
そうしてようやく戻って来たのは、ちょうどあの図録が出た頃だったかな。初めて女神展を観た。父はすでに亡くなり、事業は弟が継いでいて、陰りを見せていた。そのことを知り、稀子をモデルにした絵画を前にして――何の感慨も湧いてこなかった。
あの頃、どれだけ自分の世界が小さかったのか、ようやく思い知ったよ。与えられたアイデンティティなんて、自分がいかにくだらないものにこだわっていたか、やっとわかった」
この時点で、かつての絶望はただの昔話に変わったのだろう。もうハナオにとっては何の価値もない。だから俺が何を聞いても、「えー、忘れたよぉ」と言って特に明かそうともしなかった。
(……あれ、そうしたら)
今、何か引っかかった。
にんまりと笑って、ハナオは弾んだ口調で先を続けた。このウキウキとした調子は、過去が何の脅威でもないと悟った時のハナオの心境そのものなのだろう。
「そうなってしまうと、今度は図録にも興味が湧いてね。人が読んでいるものを覗き見た。僕の知らなかった事情がそこにはあった。他人事にしか思えなかったよ。自分には何の関わりもない物語みたいで、なんだか愛しさすら感じちゃってね、何度も読んだ。――何度も何度も読んで、そうしたら今度は僕が失ってしまったものが見えてきた」
ハナオは、ふい、と窓の外に目を向けた。降り続いていた雨は止んだのだろうか。濡れたアスファルトに薄く日が差している。
「僕はやっと、マスターの真意を知った。彼は稀子と約束を交わしていた。だけど、本当に約束だけでマスターはあんなに幸せな時間を、惜しみない思いやりを、僕に与えることができたのかな。それに、リツコ。彼女こそ、本当に何も知らない存在だった。……二人は何の見返りも求めずに、違う世界もあるんだってことを教えようとしてくれていたのにね。ちっぽけなものに囚われてもがいて、僕は透明人間なんて代物になってしまった」
もう二度と取り戻せない。
そう呟いたハナオの横顔で、伏せがちな長いまつげに陰った目は光を失くし、沈んだ色に見えた。
「二人のことは気になったけど、会いに行く勇気はどうしても出なかった。変わってしまっているだろうことが怖かったんだよ。
――カドーに来たのは偶然。たまたま見つけた喫茶店がなんだか面白そうで、様子を見ていたんだけど……。さて!」
ぱっと振り返ったハナオの表情にはもう何の感傷もなかった。
「昔話はおしまい。ミツ、お客さんだよ」
俺は慌てて立ち上がると、椅子をしまってカウンター内へ移動する。同時に扉が開いて、常連客が入って来た。
「いらっしゃいませ」
「やあ。雨、上がったね」
「えぇ、助かります」
客足が元に戻って、とまでは言わないけど。俺はにっこりと微笑んだ。カウンター席についた客の後ろで、小上がりに座ったままのハナオがくすくすと笑う。
(何とでも言え)
客が少ないのといないのとでは、雲泥の差があるんだ。
ハナオはそのままコーヒー抽出の指示を出しはじめた。最近は俺のそばへ来ないこともある。匂いでわかるからなのか、あるいは信頼されてのことなのかはわからないけれど。
(今日のは、雨上がりコーヒー、かな)
俺は、手早く豆のブレンドをメモしながら考える。あとで質問してみよう。
淹れ終わったコーヒーを提供する。客は本をめくりながら味わっている。俺は洗い物を片付けだす。ハナオは指示の後、ずっと窓の外を眺めていた。あ、虹、と呟く。
「――ミツ」
しばらくしてハナオが呼んだ。客がいるので返事はできない。俺は、目の前の常連客に違和感を与えないよう、ゆっくりと顔を上げた。
〝翻訳依頼〟? ではないよな。ハナオは外へ顔を向けたままだ。窓の向こうはずいぶんと明るくなってきている。
「ありがとう」
ハナオはこちらを向くことなく言った。
(……何がだ? 昔話を聞いたことか?)
問い返すことのできないまま、続く言葉を待った。俺の戸惑いは伝わっているはずなのに、ハナオは満足したのかいつまでも無言のままだった。
「あの日、初めての女神展が告知された。そのことを知ったのは……たぶん新聞だったかな。おそらく日中だったんだろうね。学校で、だったかもしれないな、リツコと会った時に制服を着ていたから。――このあたりは、ちょっと記憶が曖昧なんだ。その後が強すぎてね。この時はまだ、忘れられない記憶力なんて持っていなかったし。……ねぇ、ミツ」
ハナオの漆黒の目が俺を見た。
「以前、僕に説明してくれたよね。最初に女神展が催されたのがいつだったか覚えている?」
俺は記憶を探る。青柳緑樹の出身地はこのあたりで、地元っ子の俺は小学校で習わされた。戦前で、駆け落ちから数年後で――。
「その時、モデルの女性は、……亡くなっていた」
図録によれば、女神展は稀子が亡くなっておよそ一年後に開催された。告知にはそのことも書かれていた。噂の女性の死と、それを乗り越えて発表される、彼女をモデルにした絵画。しかも発表者は駆け落ち相手であり、恋人でもあった画家。
「僕はその告知で、稀子が一年も前に死んだことを知った」
「そう、なのか? 亡くなったことの、連絡は……?」
世間の好奇をあおる文句は、下火になっていたスキャンダルを再び燃え上がらせる。その中に、親族への気遣いなど皆無。そんなもので、死を知らされた?
「実際、稀子とは絶縁状態でね。実家である祖父母も父も、稀子がどこで何をしているかを把握していなかったんだよ。青柳が軽々しく連絡をとれる家柄でもないしね」
ハナオは、小さくため息をひとつ吐いて、伏し目がちに視線を落とした。口元に浮かんだのは、微苦笑、と言うべきだろうか。
「僕の中に出来上がっていたアイデンティティの話は、したね。その告知を見た瞬間、僕の目的の一つは、もう永遠に叶わなくなった。いつか迎えにいくはずの母親は、一年も前にどこかで死んでいた。僕は稀子の死を知ると同時に、自分の中の支えを一つ失くしたってわけ。〝父の後継ぎ〟というプライドすらも、ショックを隠し殺すことはできなかった。気がつけばマスターに会いに行っていたよ。もしかしたら、泣きわめきたかったのかもしれないね。誰でもない自分としてなら、存分にマスターに甘えて泣けたかもしれない。でも店は休業でマスターはいなかった。僕は閉じられた扉の前に座り込んだ。とても家へ帰れそうになかった――〝後継ぎ〟にふさわしくなんて、していられそうになかった。たしかにひどく寒い日だったはずなんだけど、寒さは感じていなかったな」
ここから先は、リツコが話したとおりだよ。
やって来たリツコさんに発見されて、店の中でマスターの帰りを待った。けれど彼は戻らず、ハナオは家へ帰る。
「リツコが僕に絶望を見たと言っていたように、とても取り繕うことなんてできる余裕はなかった。けどリツコの前では、取り乱すことはできないよ。何も知らない大人の前ではできるとしても、同世代の女の子の前では、たとえ相手が本当に何も知らなくても、無理だ」
この日、それほどまでに大事な役割を果たすはずだったマスターは、店を休業してどこへ行ったのか。それは図録が教えてくれる。
やはりその日の新聞で告知を見たマスターは、画家・青柳緑樹の元に赴いていた。
稀子がマスターと出会ったのは、彼女の晩年。ほぼ死の直前といってもいい頃だった。マスターは、遺言ともとれるような言葉とその経緯を彼女の恋人に伝え、女神展の大々的な告知を控えてほしいと頼んだ。
青柳緑樹は理由を尋ねた。初めての個展だ。稀子と二人で制作してきた絵画の数々だ。これが自分の未来を左右するかもしれない。それほどまでに大事なものの告知なんだ。
それでも、せめて今回だけは。マスターは重ねて言う。稀子には息子がいる。彼女にそっくりの顔立ちをした少年だ。多感で、まだ自分の身を守れるだけの力を持たない十四歳。個展を取りやめろとは言わない。けれどせめてこの子の目に告知が触れないようにしてほしい。
画家はマスターの申し出を受け入れ、翌日から告知は数を減らし、地味なものになった。だからこそ、女神シリーズは戦後になってから本格的に人気が出た。
(けど、遅すぎた)
稀子の息子は告知を見てしまっていた。そして、息子の家族も。
「帰宅途中の夜道で雪が降り出した。――ちょうどこの雨と同じように、強くはないけど、しんしんと音もなく。僕は足を速めたと思う。家の者が心配する、そう考えたのかな。だって一応大切な後継ぎ息子だからね」
店の前を、車が走り去る水音が聞こえる。ハナオの口調は淡々としていた。
「珍しく、父が帰ってきていた。僕の帰宅はそんなに遅くなったのだろうか。そう思うと同時に、ひどく安堵した。……そうだ、僕はこの人の息子だ。僕には父がいて、僕は父の後を継ぐ人間なんだ。そう考えると、俄かに悲しみはどこかへ消えていった。希望が湧いて、笑みすらも浮かんだ。
開いたままの書斎の扉越しに、僕は父に声をかけた。おかえりなさい、とか、そんなことだった。今考えれば、父が書斎の灯りをつけていなかったことを、疑問に思うべきだったんだよ。父は僕の姿を認めると、歩み寄って来た。廊下から差し込む光が、徐々に父から影を取り払った。その無表情な顔から。
父は目だけで僕を見下ろして言った。
『お前は、誰の子だ』
父もまた、告知で稀子の死を知ったんだよ」
息子を産むことを条件に他の男への愛を語った美しい妻。他の男に妻を奪われることで手に入れた美しく賢い息子。その息子の顔立ちには、妻の面影ばかりが見えて、自分の要素はカケラも見つけられない。元夫は疑念を抱いたのだろうか。この息子は、本当に妻と自分の子なのか、と。
(タイミングが悪かったのか)
きっと普段の――敏腕実業家としての彼ならば、理性的に考えただろうか。顔立ちこそ妻に瓜二つでも、息子の内面には自分から受け継いだ要素もあると。少なくとも、そんな質問を息子に投げかけるべきではないと。
(あるいは)
妻のことに関しては、やり手とされた彼でも冷静にはなれなかったのか。
何の配慮もない告知で稀子の死を知った父と子は、とんでもない対峙を果たした。
「父は目を逸らすと、僕の横を通り過ぎていった。僕はゆっくりと自室へ向かった。表情は変えなかった。微笑んですらいたんじゃないかな。誰が見ても、僕の様子がおかしいなんて思わなかったはずだ。だって僕は、後継ぎだよ。ふさわしい行動をしなきゃ。……でも、何のために? 父の息子であることが僕の誇りだったけれど、今やそれは崩れ去った。母に逝かれ、父には我が子であることを疑われた。僕のアイデンティティは完全に崩壊した。もう何もない。存在する理由がないなら、僕なんかもういらない。強く、強く願った。消えてしまえ、と。
ふと空気が変わった気がした。ノックの音がして扉が開いた。まだ幼い弟が顔を覗かせて僕を呼び、言った。『どこ?』
これが透明人間の生まれた瞬間だよ」
俺は、ごく、と喉を鳴らして、カラカラに渇いていることに気づいた。
(これが……)
ハナオの見た絶望。
(なんで)
もしも何か一つ――たった一つでよかったんだ――違えば。結末はこうではなかっただろう。少年は自分の消滅なんか願わなかっただろう。
俺は声が出せないままに、歯を食いしばって行き場のない怒りを抑え込んでいた。
(なんでだよ……!)
誰が叶えたかなんて知らないけれど、何故この願いを叶えた? 本当に叶わなければいけなかったのは、透明人間なんて大それたものではなかったはずだ。もっと些細で小さくて、当たり前に叶っていいものだったんじゃないのか。
ハナオが本当に願ったのは、こんな中途半端なものじゃない。
「――ミツ。昔話だよ」
膝の上にのせた手を軽くにぎり、ハナオは微笑んだ。穏やかで何の感情も覗いていない。何かが隠されているわけではなく、何もない。そんな笑みだ。
「透明になった僕に、あの家にいる理由はなかった。――って言ったら、格好つけすぎかな。僕は逃げて、何年も戻らなかった。自分がどんなものになったのかは、少しずつ理解していったよ。どこまで行っても、目の前には今まで全く知らなかった世界が広がっていく。知識も感情も、知らないものばかりだ。単調でつまらなかった毎日は、一転した。起伏に富んだその日々を、僕は必死で経験した。辛いこともあったけど、それでも楽しくて仕方なかった。
そうしてようやく戻って来たのは、ちょうどあの図録が出た頃だったかな。初めて女神展を観た。父はすでに亡くなり、事業は弟が継いでいて、陰りを見せていた。そのことを知り、稀子をモデルにした絵画を前にして――何の感慨も湧いてこなかった。
あの頃、どれだけ自分の世界が小さかったのか、ようやく思い知ったよ。与えられたアイデンティティなんて、自分がいかにくだらないものにこだわっていたか、やっとわかった」
この時点で、かつての絶望はただの昔話に変わったのだろう。もうハナオにとっては何の価値もない。だから俺が何を聞いても、「えー、忘れたよぉ」と言って特に明かそうともしなかった。
(……あれ、そうしたら)
今、何か引っかかった。
にんまりと笑って、ハナオは弾んだ口調で先を続けた。このウキウキとした調子は、過去が何の脅威でもないと悟った時のハナオの心境そのものなのだろう。
「そうなってしまうと、今度は図録にも興味が湧いてね。人が読んでいるものを覗き見た。僕の知らなかった事情がそこにはあった。他人事にしか思えなかったよ。自分には何の関わりもない物語みたいで、なんだか愛しさすら感じちゃってね、何度も読んだ。――何度も何度も読んで、そうしたら今度は僕が失ってしまったものが見えてきた」
ハナオは、ふい、と窓の外に目を向けた。降り続いていた雨は止んだのだろうか。濡れたアスファルトに薄く日が差している。
「僕はやっと、マスターの真意を知った。彼は稀子と約束を交わしていた。だけど、本当に約束だけでマスターはあんなに幸せな時間を、惜しみない思いやりを、僕に与えることができたのかな。それに、リツコ。彼女こそ、本当に何も知らない存在だった。……二人は何の見返りも求めずに、違う世界もあるんだってことを教えようとしてくれていたのにね。ちっぽけなものに囚われてもがいて、僕は透明人間なんて代物になってしまった」
もう二度と取り戻せない。
そう呟いたハナオの横顔で、伏せがちな長いまつげに陰った目は光を失くし、沈んだ色に見えた。
「二人のことは気になったけど、会いに行く勇気はどうしても出なかった。変わってしまっているだろうことが怖かったんだよ。
――カドーに来たのは偶然。たまたま見つけた喫茶店がなんだか面白そうで、様子を見ていたんだけど……。さて!」
ぱっと振り返ったハナオの表情にはもう何の感傷もなかった。
「昔話はおしまい。ミツ、お客さんだよ」
俺は慌てて立ち上がると、椅子をしまってカウンター内へ移動する。同時に扉が開いて、常連客が入って来た。
「いらっしゃいませ」
「やあ。雨、上がったね」
「えぇ、助かります」
客足が元に戻って、とまでは言わないけど。俺はにっこりと微笑んだ。カウンター席についた客の後ろで、小上がりに座ったままのハナオがくすくすと笑う。
(何とでも言え)
客が少ないのといないのとでは、雲泥の差があるんだ。
ハナオはそのままコーヒー抽出の指示を出しはじめた。最近は俺のそばへ来ないこともある。匂いでわかるからなのか、あるいは信頼されてのことなのかはわからないけれど。
(今日のは、雨上がりコーヒー、かな)
俺は、手早く豆のブレンドをメモしながら考える。あとで質問してみよう。
淹れ終わったコーヒーを提供する。客は本をめくりながら味わっている。俺は洗い物を片付けだす。ハナオは指示の後、ずっと窓の外を眺めていた。あ、虹、と呟く。
「――ミツ」
しばらくしてハナオが呼んだ。客がいるので返事はできない。俺は、目の前の常連客に違和感を与えないよう、ゆっくりと顔を上げた。
〝翻訳依頼〟? ではないよな。ハナオは外へ顔を向けたままだ。窓の向こうはずいぶんと明るくなってきている。
「ありがとう」
ハナオはこちらを向くことなく言った。
(……何がだ? 昔話を聞いたことか?)
問い返すことのできないまま、続く言葉を待った。俺の戸惑いは伝わっているはずなのに、ハナオは満足したのかいつまでも無言のままだった。
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