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エピローグ
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よっしゃあ、とテーブル席から歓喜の雄叫びが上がった。俺はぎょっとして顔を向ける。
「充嗣! コーヒー!」
きたさんがガッツポーズのまま嬉しそうに追加注文を投げかけてくる。
「えっ? 今日はまだ三戦目ですよね?」
〈喫珈琲カドー〉名物のやじきた勝負が今日も繰り広げられていた。ただし、三戦目であって五戦目ではなく、追加注文の入る日ではない。
「おま……っ、失敬なやつだな」
「えぇと、つまり……」
「充嗣君、きたが勝ったんだ」
やじさんが苦笑しながら補足してくれた。
「そーゆうことだ! たまにゃこういう奇跡も起こんだぜ」
きたさんが満面の笑みでピースサインを突き出す。
「……きた、お前、自分で言うか。だいたい、何年勝負してきたと思っている」
「俺がカドーに来てそろそろ一年ですから、少なくともそれ以上ですね」
俺はコーヒーを淹れる準備をしながら、やじさんを援護してみた。
「手厳しいぞ。やじのおやっさんが、ハンパなく強いんスよ」
誰かおめでとうって言えよ、と愚痴るきたさんは、それでもニヤニヤと嬉しそうにしながら、やじさんと〝おさらい〟を始めている。
勝利祝いだ、最高のブレンドにしよう。そう思って顔を上げた俺は、コーヒー豆をグラインダーに入れる前に尋ねた。今なら豆を二人分にできる。
「やじさんも、飲みますか?」
「……そうだな、今日はいただこうか」
やじさんは、少しくすぐったそうな笑みを浮かべて答えた。
俺は二人分のコーヒー豆を挽いてドリッパーに移す。ふわ、と甘くて香ばしく華やかな香りが広がった。湯を注ぐと、この香りが湿り気を帯びて変化することを、今の俺は知っている。
〈喫珈琲カドー〉へ来て二度目の、十一月下旬の平日昼下がり。
俺は二代目店主として、毎日このカウンター内に立っている。今のところ不定営業とブレンドコーヒーのみのメニューは変わらない。……時折する早朝喫珈琲とご愛嬌程度の裏メニュー増加が変化といえば変化か。ありがたいことにあいかわらず個性的な常連客と稀に訪れる勇気ある新規客に支えられて、細々とながら営業を続けられている。ここだけの話だが、最近は〝芳しいコーヒーの香りに包まれる喫茶店〟として少しばかり巷の噂になっている、らしい。
初代店主でもある祖父は今、母と暮らしている。さすがにマスター業は引退したが、週に二、三度は様子を見に来て、コーヒーや喫茶店運営のことを教えてくれる。
結局、俺に戻った匂いはコーヒーの香りだけだった。他の匂いはあいかわらず感じられない。ただ、そのせいなのかコーヒーの香りは、嗅覚を失くす前に感じていたであろうものとは比べものにならないほど濃厚で、細かに嗅ぎ分けることができる。そんな俺の嗅覚が今の〈喫珈琲カドー〉を支えていた。
「どうぞ」
俺は二人分の湯呑みをテーブルに置く。やじきたは揃って、にかっと笑い返してきた。
(……ハナオなら、何て言うんだろうな)
俺はカウンターに戻りながら思った。
ハナオが消えたあの日以来、もちろん彼には会っていない。結局遺体すら残さなかったハナオは、本当に消滅したのだと、俺は思っている。
カウンター越しに店内を見回す。隣で同じ景色を見る者がいないのは、やはり今でも少し淋しい。時にあの日々を恋しく思うこともある。
けれどもし。もう一度会わせてやると言われたら。
俺は拒絶するだろう。ハナオは消えたのだと。もう二度と会うことはないのだと。
(だって、仕方ねぇからな)
会いたいと思った瞬間、耳の奥でハナオの声が聞こえる。俺は苦笑して、思いに蓋をする。だって。
えー、勘弁してよぉ。ミツー。
やたら楽しそうで嬉しそうに言うもんだから、敵わない。
「充嗣! コーヒー!」
きたさんがガッツポーズのまま嬉しそうに追加注文を投げかけてくる。
「えっ? 今日はまだ三戦目ですよね?」
〈喫珈琲カドー〉名物のやじきた勝負が今日も繰り広げられていた。ただし、三戦目であって五戦目ではなく、追加注文の入る日ではない。
「おま……っ、失敬なやつだな」
「えぇと、つまり……」
「充嗣君、きたが勝ったんだ」
やじさんが苦笑しながら補足してくれた。
「そーゆうことだ! たまにゃこういう奇跡も起こんだぜ」
きたさんが満面の笑みでピースサインを突き出す。
「……きた、お前、自分で言うか。だいたい、何年勝負してきたと思っている」
「俺がカドーに来てそろそろ一年ですから、少なくともそれ以上ですね」
俺はコーヒーを淹れる準備をしながら、やじさんを援護してみた。
「手厳しいぞ。やじのおやっさんが、ハンパなく強いんスよ」
誰かおめでとうって言えよ、と愚痴るきたさんは、それでもニヤニヤと嬉しそうにしながら、やじさんと〝おさらい〟を始めている。
勝利祝いだ、最高のブレンドにしよう。そう思って顔を上げた俺は、コーヒー豆をグラインダーに入れる前に尋ねた。今なら豆を二人分にできる。
「やじさんも、飲みますか?」
「……そうだな、今日はいただこうか」
やじさんは、少しくすぐったそうな笑みを浮かべて答えた。
俺は二人分のコーヒー豆を挽いてドリッパーに移す。ふわ、と甘くて香ばしく華やかな香りが広がった。湯を注ぐと、この香りが湿り気を帯びて変化することを、今の俺は知っている。
〈喫珈琲カドー〉へ来て二度目の、十一月下旬の平日昼下がり。
俺は二代目店主として、毎日このカウンター内に立っている。今のところ不定営業とブレンドコーヒーのみのメニューは変わらない。……時折する早朝喫珈琲とご愛嬌程度の裏メニュー増加が変化といえば変化か。ありがたいことにあいかわらず個性的な常連客と稀に訪れる勇気ある新規客に支えられて、細々とながら営業を続けられている。ここだけの話だが、最近は〝芳しいコーヒーの香りに包まれる喫茶店〟として少しばかり巷の噂になっている、らしい。
初代店主でもある祖父は今、母と暮らしている。さすがにマスター業は引退したが、週に二、三度は様子を見に来て、コーヒーや喫茶店運営のことを教えてくれる。
結局、俺に戻った匂いはコーヒーの香りだけだった。他の匂いはあいかわらず感じられない。ただ、そのせいなのかコーヒーの香りは、嗅覚を失くす前に感じていたであろうものとは比べものにならないほど濃厚で、細かに嗅ぎ分けることができる。そんな俺の嗅覚が今の〈喫珈琲カドー〉を支えていた。
「どうぞ」
俺は二人分の湯呑みをテーブルに置く。やじきたは揃って、にかっと笑い返してきた。
(……ハナオなら、何て言うんだろうな)
俺はカウンターに戻りながら思った。
ハナオが消えたあの日以来、もちろん彼には会っていない。結局遺体すら残さなかったハナオは、本当に消滅したのだと、俺は思っている。
カウンター越しに店内を見回す。隣で同じ景色を見る者がいないのは、やはり今でも少し淋しい。時にあの日々を恋しく思うこともある。
けれどもし。もう一度会わせてやると言われたら。
俺は拒絶するだろう。ハナオは消えたのだと。もう二度と会うことはないのだと。
(だって、仕方ねぇからな)
会いたいと思った瞬間、耳の奥でハナオの声が聞こえる。俺は苦笑して、思いに蓋をする。だって。
えー、勘弁してよぉ。ミツー。
やたら楽しそうで嬉しそうに言うもんだから、敵わない。
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