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猛る人狼
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―クロウリー襲撃の前日―
「ヴウゥー…ワゥンワォン!」
俺達の目の前で、獣人の姿に変わったパーラが情けない声を上げる。
クロウリー対策に必要な狼の咆哮をパーラがどれだけ再現出来ているか、その確認の場として手配した小屋の中で、狼としてはあまりにも迫力がない姿をさらしていた。
「うーん…狼って言っていいのかな?これ」
「俺としてはもうちょっとこう、声に圧があるものと思うんですがね」
想像していたのよりも大分弱い声に、エランドは首を傾げ、それに俺も追従する。
小屋の中にいる三人の人間の内、二人が下した判断としては妥当なところだろう。
吸血種に効果のある狼の咆哮を作戦に組み込んだエランドは、人狼化したパーラにその役割を期待し、いざどれほどのものかと実際に聞いてみれば、なんと狼らしさからは程遠い咆哮だろうか。
直接浴びた俺達ですら毛ほども影響がないのだから、到底吸血種に効くとは思えない。
「圧か。その表現は実に正しいね。知り合いの話だと、狼の獣人の咆哮ってのはそれはもう、体で受けただけで吹き飛ばされそうになるほどだそうだよ」
「であれば、今のパーラは全く不足ですね。吹き飛ぶどころか、髪の毛一本そよがせることも出来てませんし。おいパーラ、もっと気合入れろよ。腹から声出せ、腹から」
「はあ!?十分気合入れてるし!全力で出してこれなの!」
親切心からした助言に、パーラは歯を全開に剥いて言い返してきやがる。
少々俺もエランドも心無い言葉をかけすぎたのか、随分とイラついているようだ。
とはいえ、嘘や怠慢などではなく純粋にこれがパーラの全力だとはわかっており、本来の要求する水準まで引き上げるにはもうひと手間、何かが必要なのかもしれない。
「…だそうですが、どうします?こんなので吸血種への効果は望めますかね?」
「物事は実際にやってみなければ分からない…と言いたいところだが、君の懸念は僕も抱いてるよ。どうにかもう少し迫力を出せるといいんだけど」
「方法に心当たりなどは?」
「あったらこんなに悩んでいないさ。でも、そうだね…強力な狼の力が宿る物、例えば位階の高い狼の魔物やらの毛皮なんかを使えば、あるいはってところか」
位階の高い狼の魔物か。
以前、ノルドオオカミと遭遇したことはあるが、恐らくあれ程度ではないのだろう。
倒すのにも命がけだったノルドオオカミですら、位階という単位で見ると俺達普人種とそう変わらないはずだからな。
もう一つ、狼の姿をした超常の存在としてこれまた以前遭遇した落ちたる種というのがいるが、あれを倒すなど心情的には無理だし、何より生息場所がここから距離が離れすぎているのでどうにもならん。
「その毛皮はどう使うってんですか?」
「焼いて灰にしたものを水に溶いて、体に塗るんだ。そうすると、一時的にだが強い狼の力が宿り、その咆哮が天をも揺るがす、って言われてる。実際どうなのかは、大昔の人間のみぞ知るってとこだ」
ほう、中々面白い使い方だ。
アフリカだかどこだかの部族には、討ち倒した動物の毛皮を着てその動物になりきることで力を得るという儀式があったとか。
それと比べれば、灰という違いはあれどアプローチは似ているように思える。
なるほど、それをすればパーラの咆哮も力を増す可能性はあるか。
ただ、問題があるとすれば、その毛皮をどこから持ってくるかだ。
「ちなみに、今すぐに用意できたりとかは…」
「無理だね。そんな品、普通に流通するものじゃないって。仮に手に入れたとして、灰にするなんてとんでもない」
「ですよねぇ」
冷静に考えれば、位階の高い魔物というのはそれ自体が遭遇が稀で、倒すことも容易ではない。
メアリ商会を貶めるつもりはないが、ただの一商会、並みの商人がそんなものを手に入れる機会など、日本の一般市民が核ミサイルを持つぐらいに無理な話なのだ。
エランドもあくまでも一案として言ってみただけで、実現可能なものとしては話していないのはよくわかる。
「…アンディ、狼の力が宿ってる物ってあれはどうかな?」
何かを考えていた仕草を見せていたパーラが、俺に縋るような視線を向けて提案を口にした。
「あれ?あれってどれだ?」
「ほら、私が無きゅ…あっちを離れる時に餞別にもらったあれ」
指示語だけで何を指すのかは分からず、首を傾げる俺にパーラが焦れたように口を滑らせかけた言葉により、言いたいことを理解した。
「口狼歌か」
「そう。あれってほら、なんか不思議な力が宿ってるって話じゃない?それ使って何とかなりそうな気がして」
ベラオスとシアザという、獣人の神と呼んでも差し支えのない存在によって作られた革巻きは、軽く鑑定した神もその秘められた効能を担保したほど、神秘の物質だと言える。
神ほどに位階の高い狼の力が込められているという点では、地上ではまず手に入らない超貴重な逸品ではないだろうか。
「試してみる価値はあるが、しかし灰にするってのはなんだか勿体ない気もするな」
「そうだね。ここはひとつ、どうにか形を残して使えないか、エランドさんの知恵を借りようか」
そう言って俺達は揃ってエランドへと視線を向ける。
俺達の会話は聞こえていたはずなので、何を求めてのものかはわかっているはずだ。
「…僕の知恵もそう万能ではないんだがね。とはいえ、言わんとしていることは分かった。しかし、口狼歌を持っているとは驚いたね。あれを作れるほど力のある獣人はもういないと聞くが、一体どこで?」
「まぁちょっと色々ありまして」
「たまたま、たまたま貰ったの!あははー」
説明が面倒なのでどうにか誤魔化そうと思ったが、エランドのこの口ぶりからどうしたってベラオスとシアザのことを避けて話すのが難しそうなので、雑に濁すのが精いっぱいだ。
「貰ったって…そのくれた人は口狼歌の価値を知らないのかい?現存するのは研究用のみで、掌程の大きさしかなくてもお金に換算出来ないぐらいの貴重品だよ?」
掌ということは、大体十センチほどの大きさか。
そのサイズでもそれほどとなると、俺達の持っているちょっとした絨毯ぐらいの大きさのは、一体いくらの価値になるのか見当もつかない。
ちょっとエランドに見せるのが怖くなるが、これが事態を打開することになるとすれば、ここにきて隠すことはできない。
早速俺達の荷物から口狼歌を持ってきて、エランドに見せてみれば、研究者としての彼は生唾を飲んで、目の前に広げられた革巻きに震える手を触れた。
「これはすごい。見たことがない様式の文字や図形だ。それにここまで精緻な模様、布に織り込むでもなく書くでもなく定着させるとは、いったいどうやって…それにこの布、革か?見たこともない素材だ」
流石、神のお手製だけあって口狼歌には未知の情報が多く詰まっており、分析を始めたエランドは静かに興奮しているように見える。
このまま放っておくといつまでも分析に没頭しそうなので、少し落ち着いたタイミングで声をかけて本題を進める。
「いや、すまない。つい夢中になってしまった。この口狼歌をパーラが使うとどうかという話だったけど、結論から言うとよくわからない」
『えー…』
あれだけ熱中していたのだから、何かいい手でも思いつくだろうと期待していたのだが、返ってきたのはなんとも締まらない言葉だった。
「そんな顔をしないでくれ。モノがモノだ、すぐにどうのと断言できる代物じゃない。ただ、一つ思いついたことはある。パーラがこの口狼歌をこう、外套のようにして身に着けて獣人の姿に変化してみるというのはどうだろう」
自分の発言の手本を見せるように、ヒラリと革巻きを背中側に回してたなびかせるエランド。
これはつまり、一度普人種の姿で口狼歌をマントとして身に着け、その状態で獣人化をするということだ。
正直、それがどういう結果になるのかは想像もできないが、何せ元から手詰まりに近いところのある状況だ。
この場で一番知識のある人間が出した案に真っ向からぶつけられる対案もあるわけでもなし、とりあえず試すだけならと、エランドに言われた通り、一度元の姿に戻ったパーラが口狼歌を羽織って獣人化を試す。
すぐさま全身を毛が覆い、顔付きも狼のそれに代わりだす様子は、さっきも見たものと違いはないようだと気を抜いていた。
だが次の瞬間、俺は全身の毛穴が全開になるような感覚に襲われる。
原因は目の前で獣人化したパーラから発せられた気配のせいだ。
まるで初めて精霊を前にした時のような、そのとんでもない存在感に俺の体が警鐘を鳴らしたのだ。
「こ、れは…」
俺の隣に立つエランドもまた、パーラから放たれる気配に慄き、掠れた声を出しながら一歩、二歩と後ずさる。
情けない姿と嘲るなかれ、この気配を前にしてこの程度のリアクションで済んでいるのは、歴戦の傭兵であるエランドだからこそだ。
そのエランドをしてこうさせるパーラは、ついさっきまでの情けない咆哮を垂らしていた犬と同一人物とは思えない。
現に全身を覆う毛はさっきよりもずっと艶を増し、何を思っているのか虚空を見ている瞳は、輝くような銀と金が同居している神々しいものに変わっていた。
おまけにマントとして身に着けていたはずの口狼歌はいつの間にかなくなっており、その独特の模様がパーラの体に薄っすらと浮かび上がっていることから、獣人化の際に口狼歌と肉体が融合したではなかろうか。
神からもらった品だけに、獣人化の際にはパーラの体と強く結びついたと考えるが、本当の所は分からないのでそう思うだけにとどめておく。
「おいパーラ、だよな?」
「……ぁへぇや?あ、なにアンディ?」
あまりの姿の変わりように、つい恐る恐るかけた俺の声に、パーラは一泊遅れて我を取り戻したように反応を示す。
どうもこの肉体の変化はパーラの精神にも多少の影響を与えていたようで、まるで忘我の極致から戻ってきたような、ちょっとした混乱を態度に垣間見せる。
「いやお前その姿、いつもと大分違うが、大丈夫なんだよな?」
「は?いつもとって…別にそんなに変わってなくない?うわっ!なにこれ!?なんかお腹の所に変な模様……あ、口狼歌の?」
自分の体を見回し、そして口狼歌の模様が浮かぶ部分に驚いているが、それ以外は特に変調はないようだ。
「どうやらお前が獣人化した際に、口狼歌は体に融合したみたいだな。エランドさん、これってパーラが元の姿に戻ったら、口狼歌も元の形に戻りますかね?」
「え?あ、あぁ、そうだね、その獣人化とともに同化してはいるけど、口狼歌はどうあってもパーラとは別の物質だ。元の姿に戻れば、分離される可能性は高い。勿論、そうならない可能性もあるがね」
「えー?私の体に口狼歌が今後一生くっついてるかもってこと?困るんだけど…ちょっと試してみよーっと」
「待て、パーラ。その前に、今の姿でちょっと咆哮を出してみろ。どう変わったのか知りたい。元々それが目的だったろ」
今すぐにでも獣人化を解こうとしたパーラを宥め、一先ず目的の達成を優先させる。
自分の体に異物が潜り込んだままになるかどうかの恐怖は察するが、何のためにそうなっているのかの理由を無駄に終わらせるのは勿体ない。
「まぁそうだけど…じゃあそれやったら私、一回元の姿に戻るからね?もしも口狼歌が私の体に残ったままだったら、アンディ達でなんか切り離す方法考えてよ?」
「わかったわかった、なんとかするから早くやれ」
「そうなった時は本当に頼むからね?…じゃあ、いくよ?すぅぅぅぅ…」
こちらを半目で睨みながら、大きく息を吸ったパーラが僅かに溜めを作り、大きく開いた口を俺達へ向けたと判断した次の瞬間、俺は意識を手放した。
後から分かったことだが、俺もエランドもパーラの咆哮を受けたと同時に後方へ吹っ飛ばされ、壁に叩きつけられて気絶したのだそうだ。
言われて思い出すと、自分の体に大型トラックがぶつかって来たかのような感覚がありありと甦ってきて、最初にパーラが出していた弱弱しいものとは明らかにレベルの違う咆哮に、吸血種へと対抗できる何かがあると確信する手応えを感じた。
迫る危機への対抗手段にあたりが出来たことへの安堵感から、歓喜の笑みを浮かべながら意識を手放した。
なお、口狼歌も獣人化を解くと普通に分離したので、一生自分の体に異物が定着する恐怖から解放されたパーラは、見ているこっちが引くぐらいの喜びようだった。
―翻って現在―
パーラの咆哮が直撃して吹き飛んだクロウリーは、地面にうつ伏せに倒れたままの体をピグピグと痙攣させていた。
その光景は吸血種という最悪の敵に立ち向かう者達にとっては心躍るものだが、俺達は油断なく敵を見据える。
「や、やったか!?」
そんな中、誰が言ったかフラグ臭のひどい言葉に、俺は内心で舌を打ってしまう。
気持ちは分からなくはないが、あれで倒せているのなら大昔の人類はもう少し明るい伝承を残してくれているはずだ。
『ぐぅ…なんだ、これは。力が…入らんっ』
あれだけの衝撃を受けても平然と身を起こしたクロウリーだったが、思わずと漏れた声には動揺が十分に籠っていた。
パーラの咆哮が効いているようで、立ち上がるには足が震えて満足に動かせず、どうも体に力が入らないらしい。
「…体を千切るつもりで全力の咆哮をぶつけたんだけどね。吹っ飛びはしても五体満足ってのは、いくらなんでも頑丈過ぎるでしょ」
家の玄関からノッソリとその身をのぞかせたパーラは、殺すつもりで放った咆哮に耐えきったクロウリーの姿を見て、呆れた声を漏らす。
さっきパーラが出した咆哮は、離れた位置にいる俺達ですら死を覚悟させる圧力を伴っており、あれを正面で受けたら普通の人間は確実に無事ではすまなかったと思えるほどだ。
しかし実際はクロウリーはデバフがかかるだけで普通に生きており、それがパーラにとっては意外であり不満でもあるようだ。
試しにと軽く吐かれた咆哮ですら、俺とエランドは揃って気絶してしまったというのに、クロウリーはしっかりと意識を保っているのも頑丈さの賜か。
『貴様っ、私に何をした!』
突然姿を見せた獣人が、自分に何かをして弱体化させたと即座に見抜いたようで、パーラに対して射殺す勢いの視線をぶつける。
「何って、ちょっと大声で怒鳴っただけじゃん。そんなに怒んないでよ?そうなってるのは、あんたの行いのせいよ。分かってんでしょ」
クロウリーの強い怒りが籠った声に対し、パーラは軽薄な口調で返しつつ、最後の方の言葉には冷たさを十分に籠めていた。
人間を冷酷に殺す相手だけに、パーラのその反応は真っ当なものだ。
倒すべき敵として、躊躇いも同情も必要ないと態度で示している。
『怒鳴る、だと……そうか、人狼の咆哮だな?あぁそうか、そうだった。かつて私達吸血種の祖を弱体化させた前例があったか。なるほど、これは確かに私達にはよく効く…効きすぎる』
クロウリーも馬鹿ではないため、自分の身に起きていることを正確に読み取っている。
エランドからもたらされた情報だったが、こうしてパーラが実践し、クロウリーが認めたことで伝承は間違いがなかったと裏付けが出来た。
『だがなぜだ?最早吸血種に対抗できる力のある人狼は途絶えたと聞いていた。何故今になって、それも今この時に現れた?』
「なぜって言われてもね。偶然でしょ、偶然。あんたが襲撃した村に、たまたまこういう芸当が出来る獣人が、商隊に混ざって来ていたってだけの偶然。ま、運が悪かったって話ね」
心底信じられないというクロウリーに対し、パーラはまたも飄々とした口調で返す。
実際、俺達がカーチ村に来たのは偶然なので、この言い分は間違いではない。
『そんな偶然など…』
「ないとは言えないんじゃない?世の中ってそんなもんよ」
あまりにもぞんざいな言い様に、クロウリーは音が聞こえてくるほどに歯を強く噛みしめる。
その偶然によって自分が今置かれている状況のせいか、今日までに見せたどの姿よりもずっと憎しみを露にしており、あれで体が自由に動かせるなら、今すぐにでもパーラにとびかかりそうな迫力がある。
「パーラ、おしゃべりはそのあたりまでとしよう。せっかく弱体化しているのなら、すぐに止めといこうじゃないか。なにより、放っておけば回復しそうだ」
放っておけばいつまでも話していそうなのを、エランドが横から口を挟んで止める。
するとクロウリーの口から小さく舌打ちが鳴った。
その反応を見るに、どうやら力の抜けていた体を回復させるため、時間稼ぎをしていたようだ。
折角ここまで追い込んだのに、暢気に話し込んで回復させてまた振出しに戻るなど、とんだ間抜けを晒すところだった。
危ない危ない。
「皆、油断するな!敵は弱っているが、悪辣な吸血種だ!何を仕掛けてくるかわからない!絶対に僕達よりも前に出るなよ!」
―おう!
弱体化したクロウリーへの脅威度を保つべく発したエランドの言葉に、後ろにいる連中が答えて警戒を保つ。
吸血種は独自の魔術を扱う極めて危険な存在である以上、あの状態でもこちらを攻撃できる手段を有している可能性は決してゼロではない。
下手に彼らを前に出して、人質にでもされてはたまらん。
「よし、では僕達は奴に仕掛けるぞ。クプルは前衛だ。リーオス、クプルの援護を。アンディ、僕達は魔術で攻撃するよ」
「援護ったって、俺の矢は通じねぇんだがな」
「それでも目くらましにはできるだろう。君ほどの腕があれば、十分前衛の助けにはなるさ」
リーオスの矢が通じないのは既に二度の機会で明らかとなっているが、それでも飛来する矢の衝撃は決して無力ではなく、斬り結ぶことになるクプルの攻撃の合間に織り込めれば十分な援護になる。
「私は?」
「パーラは少し待て。君の咆哮は連続して使えないのだろう?必要になる場合に萎えて、今は温存してほしい」
この状態のパーラが放つ咆哮は強力だが、体力や喉の消耗などで連続使用は厳しいと分かっており、奥の手というわけではないが、今は温存するというエランドの判断は俺も支持したい。
パーラの方もそれは分かっており、頷きを返すと俺達の背後へと引っ込んでいく。
何かあれば前に出てきそうだが、それまでは背後に控える他の連中を守るという役目も秘かにこなしてくれるだろう。
それを確認したところで、俺達は合図もなく一斉に動き出す。
クプルがクロウリー目がけて駆けだし、リーオスは有利な射撃位置へと移動していく。
それを見て、エランドもまた己の魔術が有効に活用できる位置取りをしている。
流石は付き合いが長いだけあって当意即妙に動く三人と違い、まだこの連携に不慣れな俺はエランドのケツへと着いていくしかできない。
俺もエランドも魔術での攻撃をするため、一緒に動くというのは間違いではないはずだ。
もっとも、固まって動くと纏めてやられるという可能性もあるのだが、しかし敵が敵だけに火力を揃えて撃つという価値はその心配を上回る。
タイミングと速度の関係で最初にクロウリーへと攻撃が届いたのはやはりクプルだった。
全身を使った大振りの一撃は、ともすれば回避されそうなほどの見え透いた攻撃だったが、狙う相手が倒れて身動きが取れていないのだから、躱される心配をせずに全力の攻撃を叩き込むのが最善だ。
「―づぇあっ!」
『ぐぅっ!』
裂帛と共に振るわれた剣は、そのままクロウリーを両断できそうな鋭さはあったが、敵も爪で迫る剣をしっかりと受け止める。
先程の余裕ある姿とは違い、今のクロウリーはやはり本調子には遠いのか、両手で支えるようにして剣を押し留めていた。
戦いの前にクプルに振動剣を試してもらったが、有用性は認めるが本人の戦闘スタイルが崩れるということで突っ返されてしまった。
あの時に引き下がらず、強引にでも振動剣を持たせていたら、ひょっとしたら今頃超振動でクロウリーを爪ごと両断していたかもという悔いが生まれてしまう。
だがああしてクロウリーがクプルの剣を防いでいるということは、今度の彼女の剣はリーオスの矢ですら防いだ奴の肉体を傷つけるだけの威力はあると警戒されている証拠だ。
一瞬の膠着の隙間を縫うように、リーオスの放った矢がクロウリーへと襲い掛かった。
瞬時に放ったであろう二本の矢は、狙い過たず目標を捉える。
やはり肉体を傷つけるまでには至らないかと思ったが、しかし予想と反してクロウリーの肉体にほんの毛筋ほどだが切り傷が作られた。
それに俺達は驚くと共に、パーラによって弱体化された結果が、あの鋼鉄のようだった皮膚に傷をつけられたのだと確信する。
『ちぃっ、下等な人間がよくもこの私に!』
矢によって負った傷はクロウリーを激昂させる効果もあり、見下している人間によってわずかとはいえダメージをもらったことがプライドを刺激したようだ。
見る者を竦ませるほどの恐ろしい顔でこちらを睨むクロウリーだが、ここにこそ勝機はあると俺達は攻撃の手を緩めない。
クプルがさらに一歩踏み込み、剣を振るおうとするタイミングに合わせて、俺も土の弾丸をクロウリーへと撃ち込む。
極限まで硬化し、回転を加えたライフル弾相当の石礫を複数発射したが、これはあっさりと防がれた。
魔術を無効化したのではなく、単純に振るわれた爪によって弾かれたのだ。
だがそれで一向に構わない。
ほんの一瞬、俺の魔術に気を取られたことで生まれた隙は、クプルの攻撃を生かすために使われる。
胴、首、脳天と目で追うことも困難なスピードで振るわれた剣は、熟練の剣士ですらよくて一発を防げるかというほどの鋭いものだった。
ところが、クロウリーは平然とその全てを防いでしまう。
いや、平然という表現は正しくはないか。
ついさっきまでの余裕のあった表情とはうって変わり、忌々しい感情を隠し切れない様子は、自分の体に起きている異常から来る焦りのせいだろう。
とはいえ、その状態でもクプルと十分に撃ち合い、さらに飛来してくる矢にも対応しているのだから、この状態でもまだこちらとの戦力差は大きいと言う外ない。
素の状態での身体能力、動体視力でも人間と隔絶したものがあると思える。
パーラの咆哮を受けてこれでは、弱体化前の実力はこちらにに絶望的なものだったと改めて思い知ったほどだ。
「―奔れ!猛き清水!」
クプル達が戦っている最中、俺とエランドもただ突っ立っていたわけではない。
とっくに詠唱を始めていたエランドの魔術がクプル達から少し遅れて発動し、鉄砲水が四方八方から飛び出してきた。
エランドの詠唱が終わったタイミングで、それを耳で悟ったクプルはクロウリーへ強い一撃をかますと即座にその場を離れる。
すると入れ替わるようにして大量の水がクロウリーへと纏わりつき、まるで竜巻のような形へと変化すると天を目指して猛スピードで伸びていった。
あれだけの量の水を高速で動かし、おまけに水で包んだ内側を絞り上げるようにして上へと伸ばしたことにより、中に飲み込まれたクロウリーはきっとパスタのカールとよく似た体へと変えられていることだろう。
あの水の出所は、俺が前日まで必死に作っていたため池からだ。
元々水魔術は手元にどれだけ魔力で操作するべき水があるかでその威力と規模は大きく違ってくるため、エランドが十分な実力を発揮するためには莫大な水が必要だった。
土魔術で作った即席の水路を伝い、村の近くに流れていた川から引き入れた水を、さらに土魔術で陥没させた場所へ一晩かけて貯め込んだ水量はトン単位で数えるほどの量になる。
これほどの量の水を使った魔術だけに、エランドの消耗は激しいが、それに見合うだけのダメージは叩き込んでくれたはず。
水魔術を無効化された場合に備えて、水竜巻の維持を俺が引き継ぐべく身構えていたが、竜巻は昇り竜が如き力強さで健在だ。
どうやらクロウリーにはこの規模の魔術を無効化するほどの余裕が今はないようだ。
水竜巻の細さから、クロウリー自体は飛ばされていないとは思うが、多少は上に持ち上がってすぐさま地面に叩きつけられたという動きは期待したい。
時間にして十数秒ほど経った頃か。
竜巻は次第にその威力を弱め、遂にはその姿が掻き消えるタイミングに合わせて、天に上っていた水が雨となって俺達の頭上へ降り注ぐ。
それによって篝火のいくつかが消えてしまい、ついさっきまでクロウリーのいた場所が暗闇に飲まれてしまった。
奴による反撃に備え、俺は魔術発動のための魔力を高めていたが、篝火が消えたことで一瞬意識を逸らされてしまった。
それがまずかった。
「っんだ…ぐぉっ!」
「がっ」
「くぁっ」
クロウリーと対峙している俺達四人が、それぞれくぐもった声を上げる。
突然、俺の喉が何かに締め上げられ、呼吸すら覚束ない状態に陥ってしまったのだ。
誰かが俺にのど輪をかけていると思うのだが、しかし俺の目の前には誰もおらず、また首に触れてみても皮膚以外の手応えはない。
エランド達もそれは同じようで、三人共が自分の首を掻く仕草をしていることから、俺達は見えない何かによって首を絞められている状況にある。
幸いにして、この事態は俺達四人だけで、パーラ達には発生しておらず、突然苦しみだした俺達を見て動揺しているだけだ。
『くっくっくっ…はーはっはっはっはっは!どうやら間に合ったようだ!』
これを誰がやっているのかなど考えるまでもなく、原因であるクロウリーを探して視線を巡らせていると、どこかから耳障りな笑い声が聞こえてきた。
声の主など今更問う必要などなく、発生源であるついさっきまで水竜巻の暴虐に晒されていた場所には、体のあちこちを拉げさせたクロウリーが、狂ったような笑みでこちらを睨んでいた。
『苦しかろう!?今君達の首を絞めているのは夜霧の死腕といってね、私の魔術さ!』
薄々そうじゃないかとは思っていたが、やはりか。
どう見ても普通じゃない現象、独自の魔術を使う種族によるものだと考えないわけがない。
ただ、この得体のしれない魔術というのは対処の手段が思いつかないのは厄介極まりない。
固有魔術もそうだが、よく知られている魔術は対抗手段も存在しているものだが、この手の魔術は完全にワンオフの性能を持っており、どこまでも初見殺しとしては優秀すぎる。
未知の魔術ってのはこれだからタチが悪い。
『ギリギリだ…本当にギリギリだった。あの大量の水が迫る瞬間、ようやく魔術を発動できたのは運がよかった。攻撃に使ったせいで体はこうだが、なに、餌はいくらでもある。一先ずは、君達を殺してから、ゆっくりと回復させるとしよう』
そう言うのと同時に、俺の首がさらに強く締め付けられて来た。
ここは体を雷化させて逃げたいが、意識が朦朧として集中できん。
こりゃ…まずい、か。
『はっはっはっはっは!呼吸を妨げられればすぐに死ぬとは!君達人間はなんと脆弱だろうか!』
「アンディ!このっ…すぅぅうう―ひゅっ」
パーラが俺の名を呼び、大きく息を吸いだしたのは、もう一度咆哮でクロウリーを吹っ飛ばそうという判断をしたからだろうが、しかし奇妙な声だけを発して一向に咆哮が聞こえてこない。
『馬鹿め!同じ手をむざむざと食らってやるものか!やるとわかっていれば、君も喉を締めてやればいいだけの話だ!』
どうやらパーラが咆哮を発するより早く、クロウリーの夜霧の死腕で喉を押さえられたようだ。
この魔術、何人もを捕える効果があるようで、感知能力に優れるパーラがあっさりと捕まったことからも、回避が出来ない不可視の攻撃としては実に凶悪だ。
『まったく、なんとも面倒な連中だったよ。最初からこうして殺しておくべきだった。だがこれでいい、これがいいんじゃあないか!後は後ろにいる連中の血を啜って、体の回復に―』
満身創痍のクロウリーが恐ろしいことを口にしているのを聞きながら、消えかける意識の中で最後のあがきを考えていた俺の視界に、白い何かが横切る。
瀕死に見る幻かとも思ったが、しかしそれは確かに実態を持っていて、クロウリーの方へと向かっていくとその体に纏わりついた。
あたかも雲のような影のそれは、次の瞬間に自然現象ではありえないことを示す。
―見つけたぞ、クロウリー
白い影から、女性の声が聞こえたかと思うと、そこから延びた細長い何かがクロウリーの頭部へスルスルと巻き付いていく。
『あ?―…き、貴様!なぜこんなところに!ま、待て!やめっ―』
一瞬呆けたクロウリーが、その光景に体が一拍遅れて反応するのと同時に、頭部に渦巻いていた靄がクロウリーの後頭部から一気に伸びる。
それはまるで、靄の矢が頭を貫いたかのような光景だ。
まさしくそれは脳を破壊したのか、すぐにクロウリーは言葉を途切れさせると体を激しく痙攣させ、驚愕に目を見開いて全身の力が抜けるようにして体を地面に横たえてしまった。
そしてそれと同時に、俺の喉を掴んでいた不可視の力が消え、死出の苦しみから解放される。
「っはぁ!がっはぁ…ばはぁ…はぁ…ぁあー」
やっと呼吸の自由を与えられ、肺が潰れる勢いで外気をむさぼる。
つい獣のような声にもなるが、それだけギリギリだったのだ。
それはパーラ達他の者も同様で、例外なく五人共が蹲って荒く呼吸を繰り返していた。
しばらくそうしていたかったが、それよりも今は目の前で起きたことの方が重要だ。
俺達を苦しめていた魔術が、突然解除されたのはクロウリーが意識を失った…いや、もう死んだからだと判断していい。
そしてそれをしたのは、女の声を発したあの白い霧状の何かだ。
倒れ伏したクロウリーの傍にまだあるその白い霧は、何度か蠢くと徐々に人の形へと変わっていく。
奇しくも、それは以前クロウリーが自身の体を虫から元に戻した時の状況を彷彿とさせ、そうなればあの白い霧は吸血種が変化したものだと推測した。
だとすれば、なぜこんなところに現れたのか、また同族であるクロウリーをなぜ殺したのか色々と疑問はあるが、今はとりあえず、新たな敵の出現と見定めて警戒するべきだろうか。
そんなことを考えていると、白い霧は完全に人へと変わり、そこに現れたのは白と表現すべき美しい女性だった。
純白のショートカットの髪型から身に着けている服、所々露出している肌から全てが真っ白で、それはまさに浮世離れした美しさと表現するしかない。
死体となったせいか、体の端が砂のように少しずつ崩れていくクロウリーを見下ろすその顔は、一切の感情が感じられないほど冷たさがある。
横顔から分かるその目がクロウリーと同じく血のように赤いのは、吸血種としての証だろうか。
完全に砂となって崩れてしまったクロウリーを見届けると、白の女性は徐にこちらへと顔を向ける。
変わらず感情のない顔を向けられていると、急激に不安に襲われる。
ただ、その目にはこちらに対する敵意はなく、人類に敵対的である吸血種(と思われる)にしては違和感がある。
ジッとこちらを暫く観察していたが、何かを決心したような顔を見せたかと思うと、ゆっくりとその口が開かれた。
「ヴウゥー…ワゥンワォン!」
俺達の目の前で、獣人の姿に変わったパーラが情けない声を上げる。
クロウリー対策に必要な狼の咆哮をパーラがどれだけ再現出来ているか、その確認の場として手配した小屋の中で、狼としてはあまりにも迫力がない姿をさらしていた。
「うーん…狼って言っていいのかな?これ」
「俺としてはもうちょっとこう、声に圧があるものと思うんですがね」
想像していたのよりも大分弱い声に、エランドは首を傾げ、それに俺も追従する。
小屋の中にいる三人の人間の内、二人が下した判断としては妥当なところだろう。
吸血種に効果のある狼の咆哮を作戦に組み込んだエランドは、人狼化したパーラにその役割を期待し、いざどれほどのものかと実際に聞いてみれば、なんと狼らしさからは程遠い咆哮だろうか。
直接浴びた俺達ですら毛ほども影響がないのだから、到底吸血種に効くとは思えない。
「圧か。その表現は実に正しいね。知り合いの話だと、狼の獣人の咆哮ってのはそれはもう、体で受けただけで吹き飛ばされそうになるほどだそうだよ」
「であれば、今のパーラは全く不足ですね。吹き飛ぶどころか、髪の毛一本そよがせることも出来てませんし。おいパーラ、もっと気合入れろよ。腹から声出せ、腹から」
「はあ!?十分気合入れてるし!全力で出してこれなの!」
親切心からした助言に、パーラは歯を全開に剥いて言い返してきやがる。
少々俺もエランドも心無い言葉をかけすぎたのか、随分とイラついているようだ。
とはいえ、嘘や怠慢などではなく純粋にこれがパーラの全力だとはわかっており、本来の要求する水準まで引き上げるにはもうひと手間、何かが必要なのかもしれない。
「…だそうですが、どうします?こんなので吸血種への効果は望めますかね?」
「物事は実際にやってみなければ分からない…と言いたいところだが、君の懸念は僕も抱いてるよ。どうにかもう少し迫力を出せるといいんだけど」
「方法に心当たりなどは?」
「あったらこんなに悩んでいないさ。でも、そうだね…強力な狼の力が宿る物、例えば位階の高い狼の魔物やらの毛皮なんかを使えば、あるいはってところか」
位階の高い狼の魔物か。
以前、ノルドオオカミと遭遇したことはあるが、恐らくあれ程度ではないのだろう。
倒すのにも命がけだったノルドオオカミですら、位階という単位で見ると俺達普人種とそう変わらないはずだからな。
もう一つ、狼の姿をした超常の存在としてこれまた以前遭遇した落ちたる種というのがいるが、あれを倒すなど心情的には無理だし、何より生息場所がここから距離が離れすぎているのでどうにもならん。
「その毛皮はどう使うってんですか?」
「焼いて灰にしたものを水に溶いて、体に塗るんだ。そうすると、一時的にだが強い狼の力が宿り、その咆哮が天をも揺るがす、って言われてる。実際どうなのかは、大昔の人間のみぞ知るってとこだ」
ほう、中々面白い使い方だ。
アフリカだかどこだかの部族には、討ち倒した動物の毛皮を着てその動物になりきることで力を得るという儀式があったとか。
それと比べれば、灰という違いはあれどアプローチは似ているように思える。
なるほど、それをすればパーラの咆哮も力を増す可能性はあるか。
ただ、問題があるとすれば、その毛皮をどこから持ってくるかだ。
「ちなみに、今すぐに用意できたりとかは…」
「無理だね。そんな品、普通に流通するものじゃないって。仮に手に入れたとして、灰にするなんてとんでもない」
「ですよねぇ」
冷静に考えれば、位階の高い魔物というのはそれ自体が遭遇が稀で、倒すことも容易ではない。
メアリ商会を貶めるつもりはないが、ただの一商会、並みの商人がそんなものを手に入れる機会など、日本の一般市民が核ミサイルを持つぐらいに無理な話なのだ。
エランドもあくまでも一案として言ってみただけで、実現可能なものとしては話していないのはよくわかる。
「…アンディ、狼の力が宿ってる物ってあれはどうかな?」
何かを考えていた仕草を見せていたパーラが、俺に縋るような視線を向けて提案を口にした。
「あれ?あれってどれだ?」
「ほら、私が無きゅ…あっちを離れる時に餞別にもらったあれ」
指示語だけで何を指すのかは分からず、首を傾げる俺にパーラが焦れたように口を滑らせかけた言葉により、言いたいことを理解した。
「口狼歌か」
「そう。あれってほら、なんか不思議な力が宿ってるって話じゃない?それ使って何とかなりそうな気がして」
ベラオスとシアザという、獣人の神と呼んでも差し支えのない存在によって作られた革巻きは、軽く鑑定した神もその秘められた効能を担保したほど、神秘の物質だと言える。
神ほどに位階の高い狼の力が込められているという点では、地上ではまず手に入らない超貴重な逸品ではないだろうか。
「試してみる価値はあるが、しかし灰にするってのはなんだか勿体ない気もするな」
「そうだね。ここはひとつ、どうにか形を残して使えないか、エランドさんの知恵を借りようか」
そう言って俺達は揃ってエランドへと視線を向ける。
俺達の会話は聞こえていたはずなので、何を求めてのものかはわかっているはずだ。
「…僕の知恵もそう万能ではないんだがね。とはいえ、言わんとしていることは分かった。しかし、口狼歌を持っているとは驚いたね。あれを作れるほど力のある獣人はもういないと聞くが、一体どこで?」
「まぁちょっと色々ありまして」
「たまたま、たまたま貰ったの!あははー」
説明が面倒なのでどうにか誤魔化そうと思ったが、エランドのこの口ぶりからどうしたってベラオスとシアザのことを避けて話すのが難しそうなので、雑に濁すのが精いっぱいだ。
「貰ったって…そのくれた人は口狼歌の価値を知らないのかい?現存するのは研究用のみで、掌程の大きさしかなくてもお金に換算出来ないぐらいの貴重品だよ?」
掌ということは、大体十センチほどの大きさか。
そのサイズでもそれほどとなると、俺達の持っているちょっとした絨毯ぐらいの大きさのは、一体いくらの価値になるのか見当もつかない。
ちょっとエランドに見せるのが怖くなるが、これが事態を打開することになるとすれば、ここにきて隠すことはできない。
早速俺達の荷物から口狼歌を持ってきて、エランドに見せてみれば、研究者としての彼は生唾を飲んで、目の前に広げられた革巻きに震える手を触れた。
「これはすごい。見たことがない様式の文字や図形だ。それにここまで精緻な模様、布に織り込むでもなく書くでもなく定着させるとは、いったいどうやって…それにこの布、革か?見たこともない素材だ」
流石、神のお手製だけあって口狼歌には未知の情報が多く詰まっており、分析を始めたエランドは静かに興奮しているように見える。
このまま放っておくといつまでも分析に没頭しそうなので、少し落ち着いたタイミングで声をかけて本題を進める。
「いや、すまない。つい夢中になってしまった。この口狼歌をパーラが使うとどうかという話だったけど、結論から言うとよくわからない」
『えー…』
あれだけ熱中していたのだから、何かいい手でも思いつくだろうと期待していたのだが、返ってきたのはなんとも締まらない言葉だった。
「そんな顔をしないでくれ。モノがモノだ、すぐにどうのと断言できる代物じゃない。ただ、一つ思いついたことはある。パーラがこの口狼歌をこう、外套のようにして身に着けて獣人の姿に変化してみるというのはどうだろう」
自分の発言の手本を見せるように、ヒラリと革巻きを背中側に回してたなびかせるエランド。
これはつまり、一度普人種の姿で口狼歌をマントとして身に着け、その状態で獣人化をするということだ。
正直、それがどういう結果になるのかは想像もできないが、何せ元から手詰まりに近いところのある状況だ。
この場で一番知識のある人間が出した案に真っ向からぶつけられる対案もあるわけでもなし、とりあえず試すだけならと、エランドに言われた通り、一度元の姿に戻ったパーラが口狼歌を羽織って獣人化を試す。
すぐさま全身を毛が覆い、顔付きも狼のそれに代わりだす様子は、さっきも見たものと違いはないようだと気を抜いていた。
だが次の瞬間、俺は全身の毛穴が全開になるような感覚に襲われる。
原因は目の前で獣人化したパーラから発せられた気配のせいだ。
まるで初めて精霊を前にした時のような、そのとんでもない存在感に俺の体が警鐘を鳴らしたのだ。
「こ、れは…」
俺の隣に立つエランドもまた、パーラから放たれる気配に慄き、掠れた声を出しながら一歩、二歩と後ずさる。
情けない姿と嘲るなかれ、この気配を前にしてこの程度のリアクションで済んでいるのは、歴戦の傭兵であるエランドだからこそだ。
そのエランドをしてこうさせるパーラは、ついさっきまでの情けない咆哮を垂らしていた犬と同一人物とは思えない。
現に全身を覆う毛はさっきよりもずっと艶を増し、何を思っているのか虚空を見ている瞳は、輝くような銀と金が同居している神々しいものに変わっていた。
おまけにマントとして身に着けていたはずの口狼歌はいつの間にかなくなっており、その独特の模様がパーラの体に薄っすらと浮かび上がっていることから、獣人化の際に口狼歌と肉体が融合したではなかろうか。
神からもらった品だけに、獣人化の際にはパーラの体と強く結びついたと考えるが、本当の所は分からないのでそう思うだけにとどめておく。
「おいパーラ、だよな?」
「……ぁへぇや?あ、なにアンディ?」
あまりの姿の変わりように、つい恐る恐るかけた俺の声に、パーラは一泊遅れて我を取り戻したように反応を示す。
どうもこの肉体の変化はパーラの精神にも多少の影響を与えていたようで、まるで忘我の極致から戻ってきたような、ちょっとした混乱を態度に垣間見せる。
「いやお前その姿、いつもと大分違うが、大丈夫なんだよな?」
「は?いつもとって…別にそんなに変わってなくない?うわっ!なにこれ!?なんかお腹の所に変な模様……あ、口狼歌の?」
自分の体を見回し、そして口狼歌の模様が浮かぶ部分に驚いているが、それ以外は特に変調はないようだ。
「どうやらお前が獣人化した際に、口狼歌は体に融合したみたいだな。エランドさん、これってパーラが元の姿に戻ったら、口狼歌も元の形に戻りますかね?」
「え?あ、あぁ、そうだね、その獣人化とともに同化してはいるけど、口狼歌はどうあってもパーラとは別の物質だ。元の姿に戻れば、分離される可能性は高い。勿論、そうならない可能性もあるがね」
「えー?私の体に口狼歌が今後一生くっついてるかもってこと?困るんだけど…ちょっと試してみよーっと」
「待て、パーラ。その前に、今の姿でちょっと咆哮を出してみろ。どう変わったのか知りたい。元々それが目的だったろ」
今すぐにでも獣人化を解こうとしたパーラを宥め、一先ず目的の達成を優先させる。
自分の体に異物が潜り込んだままになるかどうかの恐怖は察するが、何のためにそうなっているのかの理由を無駄に終わらせるのは勿体ない。
「まぁそうだけど…じゃあそれやったら私、一回元の姿に戻るからね?もしも口狼歌が私の体に残ったままだったら、アンディ達でなんか切り離す方法考えてよ?」
「わかったわかった、なんとかするから早くやれ」
「そうなった時は本当に頼むからね?…じゃあ、いくよ?すぅぅぅぅ…」
こちらを半目で睨みながら、大きく息を吸ったパーラが僅かに溜めを作り、大きく開いた口を俺達へ向けたと判断した次の瞬間、俺は意識を手放した。
後から分かったことだが、俺もエランドもパーラの咆哮を受けたと同時に後方へ吹っ飛ばされ、壁に叩きつけられて気絶したのだそうだ。
言われて思い出すと、自分の体に大型トラックがぶつかって来たかのような感覚がありありと甦ってきて、最初にパーラが出していた弱弱しいものとは明らかにレベルの違う咆哮に、吸血種へと対抗できる何かがあると確信する手応えを感じた。
迫る危機への対抗手段にあたりが出来たことへの安堵感から、歓喜の笑みを浮かべながら意識を手放した。
なお、口狼歌も獣人化を解くと普通に分離したので、一生自分の体に異物が定着する恐怖から解放されたパーラは、見ているこっちが引くぐらいの喜びようだった。
―翻って現在―
パーラの咆哮が直撃して吹き飛んだクロウリーは、地面にうつ伏せに倒れたままの体をピグピグと痙攣させていた。
その光景は吸血種という最悪の敵に立ち向かう者達にとっては心躍るものだが、俺達は油断なく敵を見据える。
「や、やったか!?」
そんな中、誰が言ったかフラグ臭のひどい言葉に、俺は内心で舌を打ってしまう。
気持ちは分からなくはないが、あれで倒せているのなら大昔の人類はもう少し明るい伝承を残してくれているはずだ。
『ぐぅ…なんだ、これは。力が…入らんっ』
あれだけの衝撃を受けても平然と身を起こしたクロウリーだったが、思わずと漏れた声には動揺が十分に籠っていた。
パーラの咆哮が効いているようで、立ち上がるには足が震えて満足に動かせず、どうも体に力が入らないらしい。
「…体を千切るつもりで全力の咆哮をぶつけたんだけどね。吹っ飛びはしても五体満足ってのは、いくらなんでも頑丈過ぎるでしょ」
家の玄関からノッソリとその身をのぞかせたパーラは、殺すつもりで放った咆哮に耐えきったクロウリーの姿を見て、呆れた声を漏らす。
さっきパーラが出した咆哮は、離れた位置にいる俺達ですら死を覚悟させる圧力を伴っており、あれを正面で受けたら普通の人間は確実に無事ではすまなかったと思えるほどだ。
しかし実際はクロウリーはデバフがかかるだけで普通に生きており、それがパーラにとっては意外であり不満でもあるようだ。
試しにと軽く吐かれた咆哮ですら、俺とエランドは揃って気絶してしまったというのに、クロウリーはしっかりと意識を保っているのも頑丈さの賜か。
『貴様っ、私に何をした!』
突然姿を見せた獣人が、自分に何かをして弱体化させたと即座に見抜いたようで、パーラに対して射殺す勢いの視線をぶつける。
「何って、ちょっと大声で怒鳴っただけじゃん。そんなに怒んないでよ?そうなってるのは、あんたの行いのせいよ。分かってんでしょ」
クロウリーの強い怒りが籠った声に対し、パーラは軽薄な口調で返しつつ、最後の方の言葉には冷たさを十分に籠めていた。
人間を冷酷に殺す相手だけに、パーラのその反応は真っ当なものだ。
倒すべき敵として、躊躇いも同情も必要ないと態度で示している。
『怒鳴る、だと……そうか、人狼の咆哮だな?あぁそうか、そうだった。かつて私達吸血種の祖を弱体化させた前例があったか。なるほど、これは確かに私達にはよく効く…効きすぎる』
クロウリーも馬鹿ではないため、自分の身に起きていることを正確に読み取っている。
エランドからもたらされた情報だったが、こうしてパーラが実践し、クロウリーが認めたことで伝承は間違いがなかったと裏付けが出来た。
『だがなぜだ?最早吸血種に対抗できる力のある人狼は途絶えたと聞いていた。何故今になって、それも今この時に現れた?』
「なぜって言われてもね。偶然でしょ、偶然。あんたが襲撃した村に、たまたまこういう芸当が出来る獣人が、商隊に混ざって来ていたってだけの偶然。ま、運が悪かったって話ね」
心底信じられないというクロウリーに対し、パーラはまたも飄々とした口調で返す。
実際、俺達がカーチ村に来たのは偶然なので、この言い分は間違いではない。
『そんな偶然など…』
「ないとは言えないんじゃない?世の中ってそんなもんよ」
あまりにもぞんざいな言い様に、クロウリーは音が聞こえてくるほどに歯を強く噛みしめる。
その偶然によって自分が今置かれている状況のせいか、今日までに見せたどの姿よりもずっと憎しみを露にしており、あれで体が自由に動かせるなら、今すぐにでもパーラにとびかかりそうな迫力がある。
「パーラ、おしゃべりはそのあたりまでとしよう。せっかく弱体化しているのなら、すぐに止めといこうじゃないか。なにより、放っておけば回復しそうだ」
放っておけばいつまでも話していそうなのを、エランドが横から口を挟んで止める。
するとクロウリーの口から小さく舌打ちが鳴った。
その反応を見るに、どうやら力の抜けていた体を回復させるため、時間稼ぎをしていたようだ。
折角ここまで追い込んだのに、暢気に話し込んで回復させてまた振出しに戻るなど、とんだ間抜けを晒すところだった。
危ない危ない。
「皆、油断するな!敵は弱っているが、悪辣な吸血種だ!何を仕掛けてくるかわからない!絶対に僕達よりも前に出るなよ!」
―おう!
弱体化したクロウリーへの脅威度を保つべく発したエランドの言葉に、後ろにいる連中が答えて警戒を保つ。
吸血種は独自の魔術を扱う極めて危険な存在である以上、あの状態でもこちらを攻撃できる手段を有している可能性は決してゼロではない。
下手に彼らを前に出して、人質にでもされてはたまらん。
「よし、では僕達は奴に仕掛けるぞ。クプルは前衛だ。リーオス、クプルの援護を。アンディ、僕達は魔術で攻撃するよ」
「援護ったって、俺の矢は通じねぇんだがな」
「それでも目くらましにはできるだろう。君ほどの腕があれば、十分前衛の助けにはなるさ」
リーオスの矢が通じないのは既に二度の機会で明らかとなっているが、それでも飛来する矢の衝撃は決して無力ではなく、斬り結ぶことになるクプルの攻撃の合間に織り込めれば十分な援護になる。
「私は?」
「パーラは少し待て。君の咆哮は連続して使えないのだろう?必要になる場合に萎えて、今は温存してほしい」
この状態のパーラが放つ咆哮は強力だが、体力や喉の消耗などで連続使用は厳しいと分かっており、奥の手というわけではないが、今は温存するというエランドの判断は俺も支持したい。
パーラの方もそれは分かっており、頷きを返すと俺達の背後へと引っ込んでいく。
何かあれば前に出てきそうだが、それまでは背後に控える他の連中を守るという役目も秘かにこなしてくれるだろう。
それを確認したところで、俺達は合図もなく一斉に動き出す。
クプルがクロウリー目がけて駆けだし、リーオスは有利な射撃位置へと移動していく。
それを見て、エランドもまた己の魔術が有効に活用できる位置取りをしている。
流石は付き合いが長いだけあって当意即妙に動く三人と違い、まだこの連携に不慣れな俺はエランドのケツへと着いていくしかできない。
俺もエランドも魔術での攻撃をするため、一緒に動くというのは間違いではないはずだ。
もっとも、固まって動くと纏めてやられるという可能性もあるのだが、しかし敵が敵だけに火力を揃えて撃つという価値はその心配を上回る。
タイミングと速度の関係で最初にクロウリーへと攻撃が届いたのはやはりクプルだった。
全身を使った大振りの一撃は、ともすれば回避されそうなほどの見え透いた攻撃だったが、狙う相手が倒れて身動きが取れていないのだから、躱される心配をせずに全力の攻撃を叩き込むのが最善だ。
「―づぇあっ!」
『ぐぅっ!』
裂帛と共に振るわれた剣は、そのままクロウリーを両断できそうな鋭さはあったが、敵も爪で迫る剣をしっかりと受け止める。
先程の余裕ある姿とは違い、今のクロウリーはやはり本調子には遠いのか、両手で支えるようにして剣を押し留めていた。
戦いの前にクプルに振動剣を試してもらったが、有用性は認めるが本人の戦闘スタイルが崩れるということで突っ返されてしまった。
あの時に引き下がらず、強引にでも振動剣を持たせていたら、ひょっとしたら今頃超振動でクロウリーを爪ごと両断していたかもという悔いが生まれてしまう。
だがああしてクロウリーがクプルの剣を防いでいるということは、今度の彼女の剣はリーオスの矢ですら防いだ奴の肉体を傷つけるだけの威力はあると警戒されている証拠だ。
一瞬の膠着の隙間を縫うように、リーオスの放った矢がクロウリーへと襲い掛かった。
瞬時に放ったであろう二本の矢は、狙い過たず目標を捉える。
やはり肉体を傷つけるまでには至らないかと思ったが、しかし予想と反してクロウリーの肉体にほんの毛筋ほどだが切り傷が作られた。
それに俺達は驚くと共に、パーラによって弱体化された結果が、あの鋼鉄のようだった皮膚に傷をつけられたのだと確信する。
『ちぃっ、下等な人間がよくもこの私に!』
矢によって負った傷はクロウリーを激昂させる効果もあり、見下している人間によってわずかとはいえダメージをもらったことがプライドを刺激したようだ。
見る者を竦ませるほどの恐ろしい顔でこちらを睨むクロウリーだが、ここにこそ勝機はあると俺達は攻撃の手を緩めない。
クプルがさらに一歩踏み込み、剣を振るおうとするタイミングに合わせて、俺も土の弾丸をクロウリーへと撃ち込む。
極限まで硬化し、回転を加えたライフル弾相当の石礫を複数発射したが、これはあっさりと防がれた。
魔術を無効化したのではなく、単純に振るわれた爪によって弾かれたのだ。
だがそれで一向に構わない。
ほんの一瞬、俺の魔術に気を取られたことで生まれた隙は、クプルの攻撃を生かすために使われる。
胴、首、脳天と目で追うことも困難なスピードで振るわれた剣は、熟練の剣士ですらよくて一発を防げるかというほどの鋭いものだった。
ところが、クロウリーは平然とその全てを防いでしまう。
いや、平然という表現は正しくはないか。
ついさっきまでの余裕のあった表情とはうって変わり、忌々しい感情を隠し切れない様子は、自分の体に起きている異常から来る焦りのせいだろう。
とはいえ、その状態でもクプルと十分に撃ち合い、さらに飛来してくる矢にも対応しているのだから、この状態でもまだこちらとの戦力差は大きいと言う外ない。
素の状態での身体能力、動体視力でも人間と隔絶したものがあると思える。
パーラの咆哮を受けてこれでは、弱体化前の実力はこちらにに絶望的なものだったと改めて思い知ったほどだ。
「―奔れ!猛き清水!」
クプル達が戦っている最中、俺とエランドもただ突っ立っていたわけではない。
とっくに詠唱を始めていたエランドの魔術がクプル達から少し遅れて発動し、鉄砲水が四方八方から飛び出してきた。
エランドの詠唱が終わったタイミングで、それを耳で悟ったクプルはクロウリーへ強い一撃をかますと即座にその場を離れる。
すると入れ替わるようにして大量の水がクロウリーへと纏わりつき、まるで竜巻のような形へと変化すると天を目指して猛スピードで伸びていった。
あれだけの量の水を高速で動かし、おまけに水で包んだ内側を絞り上げるようにして上へと伸ばしたことにより、中に飲み込まれたクロウリーはきっとパスタのカールとよく似た体へと変えられていることだろう。
あの水の出所は、俺が前日まで必死に作っていたため池からだ。
元々水魔術は手元にどれだけ魔力で操作するべき水があるかでその威力と規模は大きく違ってくるため、エランドが十分な実力を発揮するためには莫大な水が必要だった。
土魔術で作った即席の水路を伝い、村の近くに流れていた川から引き入れた水を、さらに土魔術で陥没させた場所へ一晩かけて貯め込んだ水量はトン単位で数えるほどの量になる。
これほどの量の水を使った魔術だけに、エランドの消耗は激しいが、それに見合うだけのダメージは叩き込んでくれたはず。
水魔術を無効化された場合に備えて、水竜巻の維持を俺が引き継ぐべく身構えていたが、竜巻は昇り竜が如き力強さで健在だ。
どうやらクロウリーにはこの規模の魔術を無効化するほどの余裕が今はないようだ。
水竜巻の細さから、クロウリー自体は飛ばされていないとは思うが、多少は上に持ち上がってすぐさま地面に叩きつけられたという動きは期待したい。
時間にして十数秒ほど経った頃か。
竜巻は次第にその威力を弱め、遂にはその姿が掻き消えるタイミングに合わせて、天に上っていた水が雨となって俺達の頭上へ降り注ぐ。
それによって篝火のいくつかが消えてしまい、ついさっきまでクロウリーのいた場所が暗闇に飲まれてしまった。
奴による反撃に備え、俺は魔術発動のための魔力を高めていたが、篝火が消えたことで一瞬意識を逸らされてしまった。
それがまずかった。
「っんだ…ぐぉっ!」
「がっ」
「くぁっ」
クロウリーと対峙している俺達四人が、それぞれくぐもった声を上げる。
突然、俺の喉が何かに締め上げられ、呼吸すら覚束ない状態に陥ってしまったのだ。
誰かが俺にのど輪をかけていると思うのだが、しかし俺の目の前には誰もおらず、また首に触れてみても皮膚以外の手応えはない。
エランド達もそれは同じようで、三人共が自分の首を掻く仕草をしていることから、俺達は見えない何かによって首を絞められている状況にある。
幸いにして、この事態は俺達四人だけで、パーラ達には発生しておらず、突然苦しみだした俺達を見て動揺しているだけだ。
『くっくっくっ…はーはっはっはっはっは!どうやら間に合ったようだ!』
これを誰がやっているのかなど考えるまでもなく、原因であるクロウリーを探して視線を巡らせていると、どこかから耳障りな笑い声が聞こえてきた。
声の主など今更問う必要などなく、発生源であるついさっきまで水竜巻の暴虐に晒されていた場所には、体のあちこちを拉げさせたクロウリーが、狂ったような笑みでこちらを睨んでいた。
『苦しかろう!?今君達の首を絞めているのは夜霧の死腕といってね、私の魔術さ!』
薄々そうじゃないかとは思っていたが、やはりか。
どう見ても普通じゃない現象、独自の魔術を使う種族によるものだと考えないわけがない。
ただ、この得体のしれない魔術というのは対処の手段が思いつかないのは厄介極まりない。
固有魔術もそうだが、よく知られている魔術は対抗手段も存在しているものだが、この手の魔術は完全にワンオフの性能を持っており、どこまでも初見殺しとしては優秀すぎる。
未知の魔術ってのはこれだからタチが悪い。
『ギリギリだ…本当にギリギリだった。あの大量の水が迫る瞬間、ようやく魔術を発動できたのは運がよかった。攻撃に使ったせいで体はこうだが、なに、餌はいくらでもある。一先ずは、君達を殺してから、ゆっくりと回復させるとしよう』
そう言うのと同時に、俺の首がさらに強く締め付けられて来た。
ここは体を雷化させて逃げたいが、意識が朦朧として集中できん。
こりゃ…まずい、か。
『はっはっはっはっは!呼吸を妨げられればすぐに死ぬとは!君達人間はなんと脆弱だろうか!』
「アンディ!このっ…すぅぅうう―ひゅっ」
パーラが俺の名を呼び、大きく息を吸いだしたのは、もう一度咆哮でクロウリーを吹っ飛ばそうという判断をしたからだろうが、しかし奇妙な声だけを発して一向に咆哮が聞こえてこない。
『馬鹿め!同じ手をむざむざと食らってやるものか!やるとわかっていれば、君も喉を締めてやればいいだけの話だ!』
どうやらパーラが咆哮を発するより早く、クロウリーの夜霧の死腕で喉を押さえられたようだ。
この魔術、何人もを捕える効果があるようで、感知能力に優れるパーラがあっさりと捕まったことからも、回避が出来ない不可視の攻撃としては実に凶悪だ。
『まったく、なんとも面倒な連中だったよ。最初からこうして殺しておくべきだった。だがこれでいい、これがいいんじゃあないか!後は後ろにいる連中の血を啜って、体の回復に―』
満身創痍のクロウリーが恐ろしいことを口にしているのを聞きながら、消えかける意識の中で最後のあがきを考えていた俺の視界に、白い何かが横切る。
瀕死に見る幻かとも思ったが、しかしそれは確かに実態を持っていて、クロウリーの方へと向かっていくとその体に纏わりついた。
あたかも雲のような影のそれは、次の瞬間に自然現象ではありえないことを示す。
―見つけたぞ、クロウリー
白い影から、女性の声が聞こえたかと思うと、そこから延びた細長い何かがクロウリーの頭部へスルスルと巻き付いていく。
『あ?―…き、貴様!なぜこんなところに!ま、待て!やめっ―』
一瞬呆けたクロウリーが、その光景に体が一拍遅れて反応するのと同時に、頭部に渦巻いていた靄がクロウリーの後頭部から一気に伸びる。
それはまるで、靄の矢が頭を貫いたかのような光景だ。
まさしくそれは脳を破壊したのか、すぐにクロウリーは言葉を途切れさせると体を激しく痙攣させ、驚愕に目を見開いて全身の力が抜けるようにして体を地面に横たえてしまった。
そしてそれと同時に、俺の喉を掴んでいた不可視の力が消え、死出の苦しみから解放される。
「っはぁ!がっはぁ…ばはぁ…はぁ…ぁあー」
やっと呼吸の自由を与えられ、肺が潰れる勢いで外気をむさぼる。
つい獣のような声にもなるが、それだけギリギリだったのだ。
それはパーラ達他の者も同様で、例外なく五人共が蹲って荒く呼吸を繰り返していた。
しばらくそうしていたかったが、それよりも今は目の前で起きたことの方が重要だ。
俺達を苦しめていた魔術が、突然解除されたのはクロウリーが意識を失った…いや、もう死んだからだと判断していい。
そしてそれをしたのは、女の声を発したあの白い霧状の何かだ。
倒れ伏したクロウリーの傍にまだあるその白い霧は、何度か蠢くと徐々に人の形へと変わっていく。
奇しくも、それは以前クロウリーが自身の体を虫から元に戻した時の状況を彷彿とさせ、そうなればあの白い霧は吸血種が変化したものだと推測した。
だとすれば、なぜこんなところに現れたのか、また同族であるクロウリーをなぜ殺したのか色々と疑問はあるが、今はとりあえず、新たな敵の出現と見定めて警戒するべきだろうか。
そんなことを考えていると、白い霧は完全に人へと変わり、そこに現れたのは白と表現すべき美しい女性だった。
純白のショートカットの髪型から身に着けている服、所々露出している肌から全てが真っ白で、それはまさに浮世離れした美しさと表現するしかない。
死体となったせいか、体の端が砂のように少しずつ崩れていくクロウリーを見下ろすその顔は、一切の感情が感じられないほど冷たさがある。
横顔から分かるその目がクロウリーと同じく血のように赤いのは、吸血種としての証だろうか。
完全に砂となって崩れてしまったクロウリーを見届けると、白の女性は徐にこちらへと顔を向ける。
変わらず感情のない顔を向けられていると、急激に不安に襲われる。
ただ、その目にはこちらに対する敵意はなく、人類に敵対的である吸血種(と思われる)にしては違和感がある。
ジッとこちらを暫く観察していたが、何かを決心したような顔を見せたかと思うと、ゆっくりとその口が開かれた。
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それから四年。リンカとの間に子ができたという理由で、マユラは離縁を言い渡される。
マユラは喜び勇んで家を出た。今日からはもう誰かのために働かなくていい。
自由だ。
魔法は苦手だが、物作りは好きだ。商才も少しはある。
マユラは王都の片隅で、錬金術店を営むことにした。
これは、マユラが偉大な錬金術師になるまでの、初めの一歩の話──。
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*この作品は「カクヨム」様にも投稿しています。
**週1(土曜日午後9時)の投稿を予定しています。**
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