ふしあわせに、殿下

古酒らずり

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一 皇子ヴァルフリードについて

健康自慢ですから

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──帝国。

 正式名称をデュランツェ帝国といった。このレンゼル王国に国境を接した隣国で、近年はますますの領土拡大傾向にあった。

 小国レンゼルが戦ったところで勝ち目がないことは、実際の火を見るより明らかなほどで、国力には圧倒的な差があったのだ。

 国土面積、人口、資源、経済力。まったくもって象にとうろうの斧を振りかざすにも等しい。

 レンゼル王国の周辺諸国は、帝国の版図となっていった。ちっぽけなレンゼル王国が「帝国領レンゼル」という属領としての名称に変わる日は、ただ、時間の問題にすぎなかった。

 帝国の領土拡大に最も貢献した人物のうちの一人とは誰か。その答えとなる人物を挙げるなら、真っ先に帝国大公ヴァルフリードがある。

 彼は現皇帝の弟の息子、つまり、皇帝の甥だ。若き将軍として、他国領土侵攻の尖兵となり、皇帝に国を献上し続けた男である。

 それはさておき。

「帝国大公ヴァルフリードの首なんて、私が射抜いてみせるわ!」

 一にも二にも狩りが好き。行儀作法の授業をほっぽりだしては猟場に繰り出すほど。弓の腕で彼女の右に出る者は、王国内でも数えられるくらいしかいない。

 そんなアウローラ王女のお転婆な所業は、枚挙にいとまがなかった。王女の冗談は、いつも豪快で遠慮がなかったが、この大公に関することだけは、まったくの冗談にならなくなった。

──今このときの獲物はアウローラだったからである。

「王女。おれは無駄が嫌いだ。きみは、おれに有益な存在となるか?」

 レンゼル城の謁見の間は、今や帝国の双頭竜紋章旗が掲げられていた。謁見の間だけではない。城壁、王の間、尖塔。城の至るところに帝国旗がはためき、遠巻きに様子を眺めることしかできない城下の人々を恐怖に落として止まなかった。

 さて、本来であれば歴代レンゼル王が腰かけていたはずの玉座は、とある一人の男によって占拠されていた。不遜な玉座の新しき主人は、だが、ふんぞり返ることもなく、姿勢を正して座している。

 その姿は、なよやかで端麗な貴公子というよりも、精悍で老獪な獣を思わせた。彼は、燃えるような緋色の髪をなびかせている。

 アウローラは、ごくりと息を呑み込んだ。理由として、剣呑な雰囲気に耐えられなかったというのもあるが、顔を上げていた彼女の視線が、ある一点に吸い寄せられていたからでもある。

 それは、男の瞳だった。蒼い目だ。恐ろしいほど精巧に作られたガラス細工のような、見る者を寄せつけてやまない、謎めいた魅力があるのだ。

「どうだ、答えてみろ」

 アウローラは、今一度、問い直される。そこでようやく、はっと正気に戻った。何に見惚れていた。

 いや、決して、男が端正な顔立ちをしていたからといった、ありきたりな理由からではなく、男の目に宿る虚ろな生気のようなものに吸い込まれていたのかもしれない、と思った。

 その、男の鋭い蒼の視線に射すくめられて、アウローラは氷の彫像のように動けずにいた。もちろん、縄で後ろ手に縛られ跪かされていたから、という物理的要因もある。

「あ、あの……」

 水から打ち上げられた魚のように、アウローラは口をぱくぱくと開閉した。というより、重苦しい空気を吸うのに、今一つ苦労していた。

「ええと……」

 答えを間違えれば、男の言う「無駄」とやらに断定されて、城門に首を晒されるかもしれない。家族もろとも処分されることを言外に示されているのではないか。だとしたら、答えを間違うな。

「…………」

「なんだ、申してみよ」

 アウローラが言い淀んでいると、やや苛立ったように男は眉をひそめた。

「私は……」

 アウローラは、深く息を吸い、ついに吐き出す。この答えが合っているかは未知数だが、問われた以上、答えるよりほかにない。何より、鉛のように落ち込んでいた胸のつかえを取り払いたかった。

「私は、健康自慢ですから、きっと健康な子を産めますっ!」

 文武両道の才女と褒めたたえられてきたアウローラだったが、この男の前で少しでも自慢と受け取られる主張をしようものなら、男はたちまちはいけんを抜き放ち、アウローラの細い首を一撃で切り取ってしまう、そんな自信しかなかった。

 だから、アウローラが自身の有益がどこにあるかを主張したのは、武勇においてでも、才智においてでも、はたまた、美貌においてすらでもなかった。

「……は」

 男は、ややあってから、切れ長の蒼い瞳をきょとんと丸くさせた。やがて、くつくつと喉からくぐもった笑声を漏らし始める。それが次第に呵々としたものへと変わっていき、そして、ひとしきりの笑いの波濤が治まった頃には……男はこう言った。

「では、さっそく試してみるとするか」

 と、何かの納得がいったように、男はにわかに姿勢を崩して玉座の肘置きに頬杖をつく。

「王女」

「はい」

「確か、名はアウローラと言ったな」

「は、はい」

 ふふ、と男は小さく笑う。

「おれの妻を望むとは、いやはや、豪胆な娘だ。流石、一国の王女は、なんというか、図太い」

 気づけば、殺気立っていた男の双眸に、今はどこか面白がるような光が満ちている。それを見て、アウローラは、何か言い方を間違えたか、否、言い方以前を間違えたか、と狼狽し始めた。

「え、いえ、そういう意味では……」

 確かに言われてみれば、そういう意味にしか聞こえないか、とアウローラは先ほどの己の発言にほぞを噛んだものの、もう、時すでに遅し、だった。

「アウローラ」

「はい、なんでしょうか」

「よろしくな」

 男から向けられるのは、無邪気な笑顔。

「はいっ!」

 アウローラは、人生でこれ以上なかったというほど、心の底から真剣な返事をする羽目になった。
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