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一 皇子ヴァルフリードについて
逃げる王女
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デュランツェ帝都から早馬を幾度も乗り換え駆け飛ばしてきた急使がレンゼル城に到着したのは、その日の午後のことだった。城内の人々は、慌ただしく入城してくる急使を怪訝な顔で出迎えた。急使は、蒼白の顔をしていた。
『皇帝フィリベルト陛下、ご高齢により退位なさる。』
その危急の知らせは帝国大公ヴァルフリードの耳へと直ちに届いた。
「フィリベルト皇帝陛下……伯父上が退位なさり、次代皇帝に即位なさるのが、ジルヴァン父上……?」
応接間にて急使の報告を聞いたヴァルフリードの顔色が、さっと青ざめていく。緋色の前髪を軽くかきあげて、ヴァルフリードは、はあ、と溜め息を一つ漏らした。
「これは、総督どころの話ではなくなってしまったな」
そばにいたアウローラはその様子を目の当たりにして、何事かの詳細を尋ねた。
「ああ、つまり、おれが皇太子になるということだ」
ヴァルフリードが端的に事情を説明してみせる。ヴァルフリードは現皇帝フィリベルトの甥。ヴァルフリードの父ジルヴァンは皇帝の弟。皇帝フィリベルトは弟ジルヴァンに譲位するため、繰り上がりでヴァルフリードは皇太子となる……。
「皇太子……!?」
アウローラが口をあんぐり開けて唖然としていると、ヴァルフリードは困惑気味の顔でこうも付け加えた。
「そして、今ひとたび、皇太子妃を迎える必要性にも迫られているということだ」
アウローラは内心で皇太子妃の定義を思い出してみる。すなわち、皇太子の妻。すなわち、未来の皇妃。アウローラは数瞬を考え込んだ後に、核心的なことをヴァルフリードに尋ねてしまう。
「はあ、まあ、ヴァルフリード殿下が立太子されることは、さておき。……皇太子妃ですか。どなたを?」
「はあ、きみは察しが悪いな。何もかもを言わせないでほしい」
「ん?」
一体、何を察しろというのか、との疑問の視線をヴァルフリードに向ければ、彼は至極当然のように言う。
「きみのほかにあるまい」
「え?」
きみ、と聞かされたアウローラの頭がたちまち真っ白に塗りつぶされた。今、息を吸い込んだかどうかすら危うい。
「何がです」
と、念のために訊けば、ヴァルフリードはますます眉間に大儀そうな皺を深め、物々しい溜め息をついた。
「皇太子妃だ。最初に求婚してきたのは、きみなのだから」
「…………」
それを真っ向から否定するのは難しそうだった。つまり、「健康な子を産める」という宣言について掘り下げられているのだが、アウローラはそのような求婚の意味として言ったつもりでは決してなかった。
「おれは、きみの求婚を受け入れる責任を通したい」
それだから、ヴァルフリードの次の発言は、真っ白なアウローラの頭の中を、今度は真っ赤に染め上げてしまった。
「子作り、せねばならんな」
「────!?」
青天の霹靂がそのままアウローラの身体を打ち据えたか、と思うほどには、それはあまりにも衝撃的な告白だった。
アウローラは、思い悩んだ。だから、思い悩んだ末に、元国王夫妻、両親に、自分が皇太子妃となるかもしれない旨を話してしまった。それが、いけないことだったかもしれない。黙っていればよかった、と話した直後にすぐ後悔した。
両親は静かに涙を流していた。大丈夫だ、ただの人質よりは待遇がいい、とアウローラは宥めたものの、「そういう問題ではない」と両親は首を横に振るのだった。
「アウローラ姉様」
「ステラ」
ステラはアウローラの十歳違いの妹だ。だから、今年で十歳になる。ずっと離れ離れに幽閉されていたのだ。偶然にもアウローラは大公ヴァルフリードに気に入られて行動の自由が許されていたが、ステラはそうではなかった。
今は、監視の目をなしに面会を許された数少ない時間だった。この部屋は、ステラの私室だ。
「姉様、行かないで」
その榛色の瞳を潤ませてステラに懇願されれば、アウローラには罪悪感が降りかかった。
「ごめんなさい、それは、できないの」
それでも、ふるふるとステラはかぶりを振る。
「いいえ、姉様を人質になんて行かせません」
「どうして?」
「お父様とお母様が、今すぐ逃げなさいって。監視の目をくぐって、私にこれを託しました」
ステラが重そうに隠し戸棚の中から取り出してみせたそれは、明らかに旅用の装備だった。
大きな革鞄に、没収されてしまったはずの剣。これは、両親が帝国に黙って密かに隠していたものかもしれない。弓矢は「狩りをするから」と、かろうじて奪われずにいたから、これで武器は揃っている。
どうして、とアウローラは同じ言葉を繰り返した。
「お父様とお母様が言っていたのです。……アウローラ姉様には、自由に生きてほしいって」
「でも、ステラ、あなたは……」
「私は、帝都の学校で学びを修めます」
「それこそ、人質じゃない」
すると、ステラは寂しげに微笑んだ。夜明け直前の星の光のような、弱々しい笑みだった。
「結局は、王家の誰かが人質にならなくてはなりません。ならば、私がなります」
「そんな、だめよ……!」
「もう一度、申し上げます。これは、お父様とお母様の、最後の願いなのです」
「最後の願いって……」
「帝国の人質になんて、ならなくていい。姉様は、姉様の人生を生きなさい、と」
「お父様とお母様が……」
アウローラは唇を噛んだ。血の味がするようだった。自分が逃げれば、家族はどうなる。幼いステラは見逃してもらえるだろうか。それはすなわち、両親は助からないことと同義だ。ステラを親なし子にするつもりか。
それでも、両親の最後の頼みと言われてしまえば、身を引き裂かれるような痛みだろうと、断ることはできそうになかった。
そんなアウローラに追い討ちをかけるように、ステラが弱々しい声で言う。
「大丈夫です。お父様がおっしゃいました。『アウローラは暴れ馬のように気性が荒い』と。『だから我々すらも知らなかった。気づいたら娘は忽然と姿を消していた……』それで通す、と」
「もう、お父様……」
このようなときでも冗談が得意な人だ、とアウローラの胸が熱くなった。言い逃れとして通用するだろうか。いいや、そのようなこと、あるはずがなかった。帝国が、許すはずなかった。酷な人だ、とも思った。
「ありがとう、ステラ」
もう、アウローラはこれ以上、何も口にすることはやめた。するだけ、つらくなるからだ。
「……姉様」
「地下水路を、使うわ」
『皇帝フィリベルト陛下、ご高齢により退位なさる。』
その危急の知らせは帝国大公ヴァルフリードの耳へと直ちに届いた。
「フィリベルト皇帝陛下……伯父上が退位なさり、次代皇帝に即位なさるのが、ジルヴァン父上……?」
応接間にて急使の報告を聞いたヴァルフリードの顔色が、さっと青ざめていく。緋色の前髪を軽くかきあげて、ヴァルフリードは、はあ、と溜め息を一つ漏らした。
「これは、総督どころの話ではなくなってしまったな」
そばにいたアウローラはその様子を目の当たりにして、何事かの詳細を尋ねた。
「ああ、つまり、おれが皇太子になるということだ」
ヴァルフリードが端的に事情を説明してみせる。ヴァルフリードは現皇帝フィリベルトの甥。ヴァルフリードの父ジルヴァンは皇帝の弟。皇帝フィリベルトは弟ジルヴァンに譲位するため、繰り上がりでヴァルフリードは皇太子となる……。
「皇太子……!?」
アウローラが口をあんぐり開けて唖然としていると、ヴァルフリードは困惑気味の顔でこうも付け加えた。
「そして、今ひとたび、皇太子妃を迎える必要性にも迫られているということだ」
アウローラは内心で皇太子妃の定義を思い出してみる。すなわち、皇太子の妻。すなわち、未来の皇妃。アウローラは数瞬を考え込んだ後に、核心的なことをヴァルフリードに尋ねてしまう。
「はあ、まあ、ヴァルフリード殿下が立太子されることは、さておき。……皇太子妃ですか。どなたを?」
「はあ、きみは察しが悪いな。何もかもを言わせないでほしい」
「ん?」
一体、何を察しろというのか、との疑問の視線をヴァルフリードに向ければ、彼は至極当然のように言う。
「きみのほかにあるまい」
「え?」
きみ、と聞かされたアウローラの頭がたちまち真っ白に塗りつぶされた。今、息を吸い込んだかどうかすら危うい。
「何がです」
と、念のために訊けば、ヴァルフリードはますます眉間に大儀そうな皺を深め、物々しい溜め息をついた。
「皇太子妃だ。最初に求婚してきたのは、きみなのだから」
「…………」
それを真っ向から否定するのは難しそうだった。つまり、「健康な子を産める」という宣言について掘り下げられているのだが、アウローラはそのような求婚の意味として言ったつもりでは決してなかった。
「おれは、きみの求婚を受け入れる責任を通したい」
それだから、ヴァルフリードの次の発言は、真っ白なアウローラの頭の中を、今度は真っ赤に染め上げてしまった。
「子作り、せねばならんな」
「────!?」
青天の霹靂がそのままアウローラの身体を打ち据えたか、と思うほどには、それはあまりにも衝撃的な告白だった。
アウローラは、思い悩んだ。だから、思い悩んだ末に、元国王夫妻、両親に、自分が皇太子妃となるかもしれない旨を話してしまった。それが、いけないことだったかもしれない。黙っていればよかった、と話した直後にすぐ後悔した。
両親は静かに涙を流していた。大丈夫だ、ただの人質よりは待遇がいい、とアウローラは宥めたものの、「そういう問題ではない」と両親は首を横に振るのだった。
「アウローラ姉様」
「ステラ」
ステラはアウローラの十歳違いの妹だ。だから、今年で十歳になる。ずっと離れ離れに幽閉されていたのだ。偶然にもアウローラは大公ヴァルフリードに気に入られて行動の自由が許されていたが、ステラはそうではなかった。
今は、監視の目をなしに面会を許された数少ない時間だった。この部屋は、ステラの私室だ。
「姉様、行かないで」
その榛色の瞳を潤ませてステラに懇願されれば、アウローラには罪悪感が降りかかった。
「ごめんなさい、それは、できないの」
それでも、ふるふるとステラはかぶりを振る。
「いいえ、姉様を人質になんて行かせません」
「どうして?」
「お父様とお母様が、今すぐ逃げなさいって。監視の目をくぐって、私にこれを託しました」
ステラが重そうに隠し戸棚の中から取り出してみせたそれは、明らかに旅用の装備だった。
大きな革鞄に、没収されてしまったはずの剣。これは、両親が帝国に黙って密かに隠していたものかもしれない。弓矢は「狩りをするから」と、かろうじて奪われずにいたから、これで武器は揃っている。
どうして、とアウローラは同じ言葉を繰り返した。
「お父様とお母様が言っていたのです。……アウローラ姉様には、自由に生きてほしいって」
「でも、ステラ、あなたは……」
「私は、帝都の学校で学びを修めます」
「それこそ、人質じゃない」
すると、ステラは寂しげに微笑んだ。夜明け直前の星の光のような、弱々しい笑みだった。
「結局は、王家の誰かが人質にならなくてはなりません。ならば、私がなります」
「そんな、だめよ……!」
「もう一度、申し上げます。これは、お父様とお母様の、最後の願いなのです」
「最後の願いって……」
「帝国の人質になんて、ならなくていい。姉様は、姉様の人生を生きなさい、と」
「お父様とお母様が……」
アウローラは唇を噛んだ。血の味がするようだった。自分が逃げれば、家族はどうなる。幼いステラは見逃してもらえるだろうか。それはすなわち、両親は助からないことと同義だ。ステラを親なし子にするつもりか。
それでも、両親の最後の頼みと言われてしまえば、身を引き裂かれるような痛みだろうと、断ることはできそうになかった。
そんなアウローラに追い討ちをかけるように、ステラが弱々しい声で言う。
「大丈夫です。お父様がおっしゃいました。『アウローラは暴れ馬のように気性が荒い』と。『だから我々すらも知らなかった。気づいたら娘は忽然と姿を消していた……』それで通す、と」
「もう、お父様……」
このようなときでも冗談が得意な人だ、とアウローラの胸が熱くなった。言い逃れとして通用するだろうか。いいや、そのようなこと、あるはずがなかった。帝国が、許すはずなかった。酷な人だ、とも思った。
「ありがとう、ステラ」
もう、アウローラはこれ以上、何も口にすることはやめた。するだけ、つらくなるからだ。
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