ふしあわせに、殿下

古酒らずり

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一 皇子ヴァルフリードについて

追う騎士

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 両親に直接会って別れすら言えなかった。会っていたら、何事かと監視兵から疑われていただろう。最悪、両親が命を懸けて作ってくれた逃亡の機会をみすみす壊すことになりかねない。そんなことは、できなかった。

 一本の松明の明かりのみを頼りに進む地下水路は、苔と水のむせ返るような匂いがしていた。壁に手をつけば、じっとりと湿った冷たい岩肌が張りつく。

 ここは上水道を引き入れている場所で、王家の人間しかしらない、秘密の通路だった。有事の際の脱出経路である。まさか本当に使う日が来るとは思ってもみなかった。

「お父様、お母様、ステラ、ありがとう、ごめんなさい」

 口をついて出るのは謝辞ばかりだった。出口は城下郊外の森の中に繋がっているのだ。そこから先、どこに逃げるかは、自分で考えなければならない。

「どこへ、逃げようかしら」

 が、突然、水面に揺れていた松明の火が一つ、二つ、と増えていった。後ろから追手に尾行されていたのだ、と分かったときには、アウローラは松明をその場に投げ捨て、反射的に抜剣していた。

 追手の足音は、アウローラ自身が水を切って歩くバシャバシャという反響音にかき消されて、気づく暇すらなかった。もう逃亡に勘づかれていたとは、迂闊だった。

 振り返りざま、手にした細身の剣を、鋭く背後の人影の方に滑らせれば、固い金属の手ごたえとともに、バチッと火花が飛散して、消えた。相手も剣を抜いて、打ち合わせたのだ。

「やはり、物騒な姫君だ」

 その揶揄う声には、聞き覚えがあった。やや掠れ気味の、低音の美声。

「……ヴァルフリード」

 わずかな松明の中に照らされたその姿は、薄闇の中で、幽鬼のようにも見えた。

「これはこれはアウローラ王女。外出なら声をかけていただかないと」

 そして、彼の声の調子は、今まで聞いていたどんなものより凍った毒を帯びていた。初対面の問答のときとは、比べものにならない。

 問答無用と言わんばかりの第二撃は、ヴァルフリードの方からだった。雷霆のような打ち下ろしだ。力の差のままにアウローラの剣を弾き飛ばそうとしているのは、明白だった。その斬撃を、アウローラは後ろに飛びすさって避けた。まともに受けていたら、最悪は剣が折れて頭蓋を叩き割られていたかもしれない。

 その後も連撃が続く。その一撃一撃が神速で、アウローラの手を痺れさせるほどに重い。

 アウローラは内心で烈しく戦慄していた。女だてらに近衛騎士出身の剣術師範を困らせていたほどの力量であるアウローラが、今は、相手の手のひらの上で弄ばれているような感覚を味わわされている。

 剣戟の応酬が続く。一合、二合、三合と斬り結んでいく。

 アウローラは、ついにふいを突かれてよろめく──ふりをした。ヴァルフリードが、それを致命的な隙とみて上段に大きく振りかぶったのが、暗所で霞みかけた目に捉えられた。

──かかった。

 アウローラはうっすらほくそ笑み、その首めがけて、突きを一閃した。

 次の刹那のことだった。

 ヴァルフリードはまるでアウローラの行動を最初から期待していたように、アウローラの予想を遥かに上回る速度で、アウローラのがら空きになっていた喉元まで長剣を走らせていた。

──アウローラは、目を閉じていた。

 ヴァルフリードの勝ち、いや、アウローラの惨敗だ。しかし、首はいつまでたっても断たれなかった。しばらく、アウローラは動かなかったし、相手も微動だにしなかった。アウローラは彫像のように固まったまま、しんと静まり返った地下水路の、水の匂いを嗅いでいた。

「捕縛しろ」

 やがて、ヴァルフリードの、静かな命令があって、彼の部下たちが縄を取り出す湿った擦過音が耳に届いてきた。アウローラは、もはや抵抗は、しなかった。

 ♢

 地下牢は、同じ苔の青い匂いがしていた。それに、鉄錆の鼻をつく匂いも加わっていて、いっそう惨めさが増していた。

 地下水路で敗北の屈辱とともにずぶ濡れたアウローラは、喪神したように、唯一の明かりである壁の松明を見ていた。いや、正確には、どこから入ってきたのか、松明の周りをふらふらと頼りなく舞う、一匹の羽虫を見ていた。

──己も、家族も、いずれああなる。

 ぐう、と腹の虫のほうも、情けなく鳴いた。生きていれば、どうしようもなく腹が空く。なぜか、当たり前のことに腹が立っている自分がいた。耐えがたい空腹だ。朝から、何も食べていないことは、分かっていた。

 情けなく、飯を乞うのか。情けなく、命を乞うのか。

 口には布を噛まされていて、舌を噛むことすらできない。最悪の扱いがふと頭をよぎって、背筋が凍りついた。

 そうやって、鼻だけで苦しい息をしながら、えた匂いを嗅いでいた。一方で、手首に食い込む冷たい鎖の重さは、なぜかあまり感じなかった。

 逃亡未遂。敗国の王女。人質。さまざまな言葉が、頭に浮かんでは、消えていった。

「散々ね」

「それは、こっちの台詞だ」

 気づけば、ヴァルフリードがいた。いや、分かっていた。地下牢の石階段を下りる軍靴の音が聞こえていたからだ。

にしに来たのです?」

「そうかもな?」

 あまりにも周りが暗くて、彼の表情までは読み取れなかった。彼は、だが、木の盆を抱えているようだ。饐えた匂いとは不釣り合いなほど、かぐわしい匂いを振りまいている。

「食え」

 アウローラの牢の中に鉄格子の扉を開けて入るや、アウローラのさるぐつわ代わりになっている布を外し、そして、すぐに盆を置いて扉を閉めなおし、踵を返していった。

 あっという間のことで、家族の安否を尋ねることすら、できなかった。アウローラは、その無言の背中がやがて消えるまでを見送ってから、震える手で木匙を手にした。あたたかい羊肉のシチューと、パンだった。

「自業自得、なのでしょうね」

 大きな陶皿を手に取り、しばらくは食べることに専念した。ふいに、鼻がつんと痛くなって視界がぼやけたが、構わず食べ続けた。彼がわざと口の布を結び直さなかったことには、しっかりと気づいていた。

「自害するなら、勝手にしろ……かしらね」
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