ふしあわせに、殿下

古酒らずり

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一 皇子ヴァルフリードについて

ご本人登場

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 アウローラは一晩を地下牢の固い寝台の上で過ごすことになった。むろん熟睡はできず、夜中に寝ては醒めてを繰り返していた。眠れるわけなどなかった。家族の安否を何も聞かされていない。父は、母は、ステラは。一体どうなったのか。

 暗闇の中で時間感覚すらも分からなくなりかけていたが、ぐう、と、また腹の虫が一声鳴いて、朝餉の時間だと教えてくれたのには助かった。そういうわけだから、ヴァルフリードが朝餉の盆を運んできたのにもさして驚くことはなかった。

「家族は、どうなったのですか」

 と、尋ねれば、彼はこう答えた。

「きみの返事次第だ」

「返事?」

「皇太子妃。おれの妻」

「人質の間違いでしょう」

「ああ、忘れていた。そうとも言う」

 それ、わざとでしょう、とアウローラが嘆息すればヴァルフリードは居直って反駁する。

「そもそも、きみが逃げなければ、こうして拘束して脅す必要もなかった」

 アウローラは、一晩の間にぼんやりと考えて結論に達していたことを告げる。

「あなた、わざと私を自由にさせていたでしょう」

 そう言った途端に、ヴァルフリードは、薄い唇を滑稽そうな弧の形へと変えた。

「よくお気づきで、姫君。流石にお察しがよろしくて、重畳でございます」

 それは、アウローラがどう受けとっても、賛辞ではなく嫌味だった。尾行に気づかなかったアウローラを嘲弄しているのは、明白すぎた。

「その呼び方、やめてちょうだい。虫唾が走ります。まあ、それはいいわ。……ひっきょうするに、こういうことでしょう。私の行動にある程度の自由を許し、泳がし、油断させておいて、決定的な反乱の芽を確実に摘み取るつもりだった。初対面のとき、最初から、そうしていた……」

 ヴァルフリードは、松明に照らされて、にやりと笑みを深めた。蒼眸には愉悦の光が宿っている。その表情が、何よりもアウローラの指摘が正しいことを雄弁に語っていた。

「ほんと、嫌な男」

「あまり褒めてくれるな」

「図に乗らないでくださいます?」

きょうには乗っているな」

 アウローラは、呆れてしばらく物も言えなくなってしまった。今一つ呆れているのは、彼にではなく、迂闊な行動をした自分の方かもしれなかった。

「さて、家族をどうしたい?」

 ひとしきりの静寂を破ったのは、ヴァルフリードの問いだった。絶望的で、決定的な問いだった。

「分かっています。……湯浴みをさせてちょうだいな」

「今度は、逃げるなよ」

「それも、分かっています」

 ところで、とアウローラは少し話題を変えた。

「あなた、毒見もせずに私の料理を召し上がっていましたけれど。それも、私を油断させるため?」

 はっと、ヴァルフリードは目を見張った、気がした。気がしたというのは、ちょうど薄闇の影が差して、細かな表情までは窺えなかったからだ。

「さあな」

 彼はそう言いおいて、アウローラの拘束を解くよう牢番に指示すると、くるりとアウローラに背を向けた。

 ♢

 王宮の湯殿は、白大理石の豪奢な造りで、素焼きの筒で近くの山から温泉を引き込んでいる贅沢な空間だった。

 アウローラには、時間が欲しかった。考える時間が。「これから起こること」から、少し逃避できる時間が。

 屋内の大浴場を抜け、さらに奥へ向かうと、生垣と木柵で囲われた露天風呂の一画がある。ここだけは、王族に連なるごく限られた者しか利用を許されず、側近すらも利用できないはずだったが、帝国占領下の現在ではどうだか。

 夕暮れが空を茜色に染め始めた頃、薄い麻織りの湯衣をまとったアウローラは、湯煙の立ち込める露天へと足を踏み入れた。湯に身を沈めれば、熱い湯が、何かと疲労困憊の身体に染み入るようだった。はあっと快い溜め息をついて、アウローラはうんと伸びをした。

「ああ……生き返るわね」

 なめらかな岩に背を預け、目をおもむろに閉じれば、今日一日の悩みが全て湯の中に溶けだしていくような錯覚すらあった。大公だの、人質だの、夜伽だの、皇太子妃だの……そんな面倒ごとは、いったん放り投げてしまおう。

 しばらく、湯音と風にそよぐ木々のざわめきだけが、耳に心地よかった。

 ざぶん、と遠くで湯が揺れた気がした。自分は動いていないのに、だ。ならば、なぜ。怖々目を開けてそちらの方角を見てみれば、隅の岩の死角となっていた場所から立ち上がった男の姿があった。

「……へ」

 アウローラは全身がすくんで動けなくなってしまった。

「く……」

 くせもの、と言いたいのに、恐怖で舌が動かない。他の王族ではないはずだ。王族は捕えられているし、誰かが先に使用しているのなら、脱衣所に控えている侍女が教えてくれるはず。……しまった。侍女は、解雇されて数を減らしている。脱衣所に侍女は、いなかった。

 逆光の中、その輪郭が徐々にはっきりとしてくる。広い肩。厚い胸板。くびれた腰。その腰には白いタオルを巻いただけである、筋骨隆々の男。浮き彫りとなっている筋肉の陰影は、流石に目に毒だ。加えて、濡れた緋色の髪が額に張りつき、切れ長の蒼い瞳がこちらを見ている。

 アウローラは反射的に両腕で身体を覆い、岩陰に身を隠した。心臓が、うるさいほどに鼓を打っている。岩に額をつけるようにして息を整え、アウローラは状況を把握しつつ、ようやく深く息を吸い込むことができた。そして、一息に吐き出す。

「どうして、あなたも、ここにいるの──!」

 慌てたように、彼は湯に身を沈めなおした。再びの湯音。そして、焦る声だけが湯気に乗って反響してくる。

「失礼した、アウローラ。これは、わざとでは、ないのだ」

「ヴァルフリード……」

 夜伽相手ご本人様が登場とは思いも寄らなかった。

「まあ、いいだろう? どうせ寝所では裸になる。今と変わらん。だ」

「はあ!?」
 
 アウローラは岩陰から顔だけ出して、湯煙の向こうの彼を睨みつけた。ヴァルフリードは、その視線を真正面から受け止めながら、静かに答える。

「いや、冗談だ。本当にすまない」

「些事なわけありますか! これ以上ないほど重要です!」

 ヴァルフリードは、ふと気まずそうに視線を逸らした。その横顔を、アウローラはまともに見た。

 腹が立つほどに端麗な面立ち。すっと通った鼻梁。鋭い顎の線。湯に濡れた赤髪は、夕陽を受けて燃えるように輝く。美丈夫というもので間違いないだろう。

 が、今はそんな観察をじっくり行っている暇などない。すでに行ってしまってはいるが。

「ほら、あなた、一刻も早く上がりなさい!」

「しかし、王女殿下より先に退出するのは──」

「この期に及んでも冗談を言うなっ!」

「……御意、王女殿下」

 にやつきを隠しもしないヴァルフリードは、謝罪するように深々と一礼するや、ざばりと潔く湯から上がる。やがて、男の気配が完全に消えてから、アウローラはようやく息をついた。顔が、熱い。きっとこれは、のぼせたせいだ。

「あれに……これから……抱かれる?」
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