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一 皇子ヴァルフリードについて
ふしあわせに
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ちょうど、蒼天に寝転んでいる羊雲のような白パンは、二種類用意されていた。バターと蜂蜜をたっぷりと塗ったもの。それに、生ハム、煎り卵、しゃきしゃきの新鮮なレタスを挟んだもの。ボウルにはカボチャのポタージュスープが満たされ、新鮮な果物を盛り合わせた小さな籠までもが付いている。
黒地に銀糸刺繍の帝国軍装に身を包んだヴァルフリードが戻ってきたときには、侍女たちが手際よく運び込んでいる。もちろん、二人前あった。
「一人で食べられるか? 食べさせてやろうか」
アウローラは、ぐったりと倦怠感に包まれているというのに、この男とくれば、一仕事終えたような、清々しいほどの笑みを浮かべている。
「結構です。これ以上、寝台に縁があっては、身が持ちません」
と、アウローラは突っぱねておいて、彼が「そうか、残念だ」と行儀よくパンを口に運び始めたのを見てから、もぞもぞと寝具から這い出す。
「何が残念ですか」
と、ぼやきつつ、シーツを身体に巻き付けたまま木の椅子に腰を下ろした。いくらクッションがあるとはいえ、「ひっ」と痛みに声が出てしまう。すると、くっくっ、とヴァルフリードが喉の奥で笑いだした。
「何が、おかしいのです」
直ちにアウローラが睨みつければ、すまない、と言って、すぐに失礼な笑い声は止んだ。アウローラはやや苛立ちながらも、恐る恐る食べ始める。
そうして二人でしばらく無言で食事をしていたが、アウローラはふとヴァルフリードの視線に気づく。
「じろじろと見ないでいただけますか」
あっという間に食べ終えていたヴァルフリードは、いやに真面目くさった顔で、頭を下げた。
「家族を人質に、閨を強制する真似をしてしまった。……そうすべきでは、なかった。すまなかった」
ヴァルフリードは、短く息を吸う。
「家族に再会させる。心配していただろう?」
「えっ?」
言われて、アウローラは、はたと正気に戻りかけた。そうだ、この男は、「家族を殺す」と脅して、行為に至らせたのだと。そうだ、自分は家族に会うために行為に至ったのであって、決して、彼と愛を交わしたのではない、と。最初から、騙されるべくして騙されていたのだ……と。
アウローラの指先がじんと冷えて痺れていくような、何か自分の身体が抜け殻になったような、ふいにそんな感覚に襲われた。もはや、パンの味が分からなくなっていた。砂か鉛か霞でも噛んでいるような、判然としない味なのだった。
アウローラの胸中に、一つの疑念がよぎっていく。つまりはこうだ。彼の美貌も。この美味な料理も。「彼の愛」すらも……帝国の卑怯な人質懐柔策なのだとしたら?
「──どうした?」
ヴァルフリードに問いかけられて、アウローラは巡らせていた思案をやめ、意識を彼の方に戻した。
「ありがとうございます。……お慕いしております、ヴァルフリード殿下」
アウローラは、努めて平坦な声で答えた。すると、ヴァルフリードは今までにないほどの安堵の表情を見せた。
「いや、こちらこそありがとう」
♢
後日、アウローラに一通のこんな手紙が届いたのは、あまりにも意外だった。
アウローラはその間に、無事だった家族と面会が叶っていたのだが、再会を許可したヴァルフリードの方は、初夜明けの日から、もう決してアウローラに会おうとはしなかった。
『アウローラ
きみは、皇太子妃にはならなくていい。
帝国には、こう報告する。
王女は逃げたので殺した、と。
おれが庇う。
家族と共に、いつまでも達者で暮らせ。
ヴァルフリード』
ただの文字列だというのに、つきっと胸が痛くなった。だからこそ、これは策に違いない、と思わせられるのに充分すぎた。この手紙は、ますますアウローラの罪悪感を煽り立てる賢しらな小道具にしか思えなかったのである。
「ま、これも結婚詐欺の手口でしょう。ますます私を人質から逃げられなくさせるつもりなのだわ」
アウローラは、そう結論づけた。だから、元国王夫妻にレンゼル領の自治を任せ、帝都へ出立しようとするヴァルフリードは、長旅のための荷物一式を背負って追いかけてきたアウローラの姿を認めるなり、ひどく驚いた顔をしていたのだった。
「なぜ……戻ってきた?」
「だって、あなたの人質、ですから」
ヴァルフリードは、それこそ演技めいた笑みを張りつかせた。アウローラが散々小憎たらしいと睨んでいた、いつもの飄々として、人を食ったような笑みである。
「家族のことは、もういいのか」
「その家族のために、私はあなたの人質になるのですから。ねえ、そうでしょう、『血だらけ殿下』?」
──「血だらけ殿下」。
ことごとく敵国は彼をそう呼んだ。血も涙もない非道な皇子であると。アウローラは、その異称をいつ聞いても、彼にふさわしいと思ってしまう。
「人質ではなく、妻だ、アウローラ」
彼は、むっとした顔で訂正してきた。
──嘘つき。
分かりやすい嘘など、つかなくてよいのに。
「まあ、二人で幸せになろう、アウローラ」
彼は春の最初の蕾がほころぶような柔らかい笑みを咲かせる。
「……ええ、殿下」
アウローラは、上手な演技だ、と半分は感嘆し、半分は呆れながら、彼の手をそっと握った。
「二人で……」
──末永く幸せに、いえ、「ふしあわせに」。
黒地に銀糸刺繍の帝国軍装に身を包んだヴァルフリードが戻ってきたときには、侍女たちが手際よく運び込んでいる。もちろん、二人前あった。
「一人で食べられるか? 食べさせてやろうか」
アウローラは、ぐったりと倦怠感に包まれているというのに、この男とくれば、一仕事終えたような、清々しいほどの笑みを浮かべている。
「結構です。これ以上、寝台に縁があっては、身が持ちません」
と、アウローラは突っぱねておいて、彼が「そうか、残念だ」と行儀よくパンを口に運び始めたのを見てから、もぞもぞと寝具から這い出す。
「何が残念ですか」
と、ぼやきつつ、シーツを身体に巻き付けたまま木の椅子に腰を下ろした。いくらクッションがあるとはいえ、「ひっ」と痛みに声が出てしまう。すると、くっくっ、とヴァルフリードが喉の奥で笑いだした。
「何が、おかしいのです」
直ちにアウローラが睨みつければ、すまない、と言って、すぐに失礼な笑い声は止んだ。アウローラはやや苛立ちながらも、恐る恐る食べ始める。
そうして二人でしばらく無言で食事をしていたが、アウローラはふとヴァルフリードの視線に気づく。
「じろじろと見ないでいただけますか」
あっという間に食べ終えていたヴァルフリードは、いやに真面目くさった顔で、頭を下げた。
「家族を人質に、閨を強制する真似をしてしまった。……そうすべきでは、なかった。すまなかった」
ヴァルフリードは、短く息を吸う。
「家族に再会させる。心配していただろう?」
「えっ?」
言われて、アウローラは、はたと正気に戻りかけた。そうだ、この男は、「家族を殺す」と脅して、行為に至らせたのだと。そうだ、自分は家族に会うために行為に至ったのであって、決して、彼と愛を交わしたのではない、と。最初から、騙されるべくして騙されていたのだ……と。
アウローラの指先がじんと冷えて痺れていくような、何か自分の身体が抜け殻になったような、ふいにそんな感覚に襲われた。もはや、パンの味が分からなくなっていた。砂か鉛か霞でも噛んでいるような、判然としない味なのだった。
アウローラの胸中に、一つの疑念がよぎっていく。つまりはこうだ。彼の美貌も。この美味な料理も。「彼の愛」すらも……帝国の卑怯な人質懐柔策なのだとしたら?
「──どうした?」
ヴァルフリードに問いかけられて、アウローラは巡らせていた思案をやめ、意識を彼の方に戻した。
「ありがとうございます。……お慕いしております、ヴァルフリード殿下」
アウローラは、努めて平坦な声で答えた。すると、ヴァルフリードは今までにないほどの安堵の表情を見せた。
「いや、こちらこそありがとう」
♢
後日、アウローラに一通のこんな手紙が届いたのは、あまりにも意外だった。
アウローラはその間に、無事だった家族と面会が叶っていたのだが、再会を許可したヴァルフリードの方は、初夜明けの日から、もう決してアウローラに会おうとはしなかった。
『アウローラ
きみは、皇太子妃にはならなくていい。
帝国には、こう報告する。
王女は逃げたので殺した、と。
おれが庇う。
家族と共に、いつまでも達者で暮らせ。
ヴァルフリード』
ただの文字列だというのに、つきっと胸が痛くなった。だからこそ、これは策に違いない、と思わせられるのに充分すぎた。この手紙は、ますますアウローラの罪悪感を煽り立てる賢しらな小道具にしか思えなかったのである。
「ま、これも結婚詐欺の手口でしょう。ますます私を人質から逃げられなくさせるつもりなのだわ」
アウローラは、そう結論づけた。だから、元国王夫妻にレンゼル領の自治を任せ、帝都へ出立しようとするヴァルフリードは、長旅のための荷物一式を背負って追いかけてきたアウローラの姿を認めるなり、ひどく驚いた顔をしていたのだった。
「なぜ……戻ってきた?」
「だって、あなたの人質、ですから」
ヴァルフリードは、それこそ演技めいた笑みを張りつかせた。アウローラが散々小憎たらしいと睨んでいた、いつもの飄々として、人を食ったような笑みである。
「家族のことは、もういいのか」
「その家族のために、私はあなたの人質になるのですから。ねえ、そうでしょう、『血だらけ殿下』?」
──「血だらけ殿下」。
ことごとく敵国は彼をそう呼んだ。血も涙もない非道な皇子であると。アウローラは、その異称をいつ聞いても、彼にふさわしいと思ってしまう。
「人質ではなく、妻だ、アウローラ」
彼は、むっとした顔で訂正してきた。
──嘘つき。
分かりやすい嘘など、つかなくてよいのに。
「まあ、二人で幸せになろう、アウローラ」
彼は春の最初の蕾がほころぶような柔らかい笑みを咲かせる。
「……ええ、殿下」
アウローラは、上手な演技だ、と半分は感嘆し、半分は呆れながら、彼の手をそっと握った。
「二人で……」
──末永く幸せに、いえ、「ふしあわせに」。
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