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終 祝われた子
瑠璃唐草
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──ガルティヤ戦争から七年後。
一人の女の子が木に登ろうとしていた。その子は「脚立に登るより、直接イチジクの木に登った方が楽しい!」と言って譲らない。
仕方なく父親が女の子を肩車してやる。女の子はすっかり機嫌をよくしてイチジクの実を次々ともいでいった。
「母上、ワイン煮はダメなのでしょう?」
それでも木に登りたがって、両親は諦めた。
「そうです。あれは大人の味です。酒精は熱で飛ぶとはいえ、お子様にはまだ早い」
「えー」
女の子は若干不満そうに、じたばたと手足を動かした。動いていないと落ち着かないようで、母親が目を離すと、すぐにどこかへ駆けていく。この間は、「いっぱい鴨さんが見たい!」と猟場の山道の方へまっしぐらに走っていくものだから、獣に襲われるかもしれない、と肝を冷やした。
「ワイン煮の代わりに、蜜煮にしましょう」
母親がそう提案すれば「蜜煮!」と女の子は顔をほころばせた。ミルク色の頬にほんのりと差す紅さは、まるで薔薇が一輪咲いたようで。
「蜜煮~蜜煮~」
嬉しそうにスキップする女の子は、父親譲りの蒼い瞳だった。それが、庭園で満開になっている蒼い花にあまりにも似ていたものだから、三年前に退位した母親の父王から、女の子はこう名付けられた。
──瑠璃唐草。
父親は、「この子にぴったりだ!」と自分が考えたわけでもないのに自慢げだった。母親は、「だって、愛馬に『黒いの号』と単純に名付ける人ですものね」と笑ったことが、良い思い出だ。
「ネモフィラ、もう、木から降りなさい」
母親──レンゼル女王アウローラは娘に声をかけた。木陰から娘の木登りを見守るのが日課になっていた。落ちないように木の下で見張るのは、夫の役目である。
夫ヴァルフリードは、ネモフィラが楽しそうに枝を揺らすのを、腕を組んで眺めている。
「将来有望だな、ネモ。母上、いや、女王陛下も納得の登りようだ」
真面目くさった顔で言うものだから、アウローラの頬に熱が集まった。
「……もう!」
「元はと言えば、きみが彼女に木登りを教えたのが悪い。そのときに覚悟すべきだったな」
「私のせいにしないでくれます? あなたも甘いわ」
「そうだな」
ヴァルフリードは悪戯っぽく、喉奥でくつくつと笑う。
「まったく、この行動力は誰に似たのやら」
アウローラのお腹の中には、二人目の子がいた。臨月で、もうすぐ生まれてくる。男の子だったらこうしよう、女の子だったらこうしよう、と引退した父が今まさに名付けに頭を悩ませている最中だ。
「この子がお腹にいて、私はネモフィラを追いかけられないの」
「おれが見ているさ、陛下」
「アウローラって呼んでくださいよ」
「そうだな、アウローラ」
ヴァルフリードは言いながらも、視線はネモフィラから外さない。万が一に落ちてもすぐに受け止められるよう、細心の注意を払っている。
「ネモフィラ姫! 降りてください!」
遠くから慌てた騎士の声が飛んできた。その髪が陽光の下で蜂蜜色に輝く。エディングである。その後ろには、やや呆れた顔のエリカが控えている。
「もしかしなくても、エディング卿の子守りがまた増えるわね」
「その通りだ。給料分しっかり働けると、あいつもさぞかし喜べることだろう」
「喜ばないわね、絶対に」
二人の間にも、今や三歳になる息子がいる。きっと、ネモフィラとお腹の子のよい友達になってくれるだろう、と親は勝手に期待しているのだが。
「ねえ、ヴァル」
「どうした」
「あなた、いつか、遺書をしたためていたでしょう」
ヴァルフリードの肩と横顔がわずかに強張ったが、それもすぐに緩む。
「あれか」
「私に見つかっていたこと、気づいていたのでしょう?」
「封蝋が微妙にずれていればな?」
「……やっぱり」
アウローラは苦笑する。あの夜、必死で復元したはずだったのに。
「今は?」
「暖炉の灰さ」
ヴァルフリードは、娘を透かすように、じっとイチジクの枝葉を見つめていた。
「そして、やがていつかは、巡り巡って雨と変わり、イチジクを実らせるはずさ」
「なんですか、それ」
「事実だ。死にたいおれは消えて、残ったのは、生きたいおれだ」
「母上! 父上! もっと高いところに登れたよ!」
ネモフィラの歓声が、瞳そっくりの蒼空に溶けていく。
「ああ、見ているよ、ネモ」
夫は、それだけを言った。今は彼も、見守る立場になっている。
木の上の娘が、ひょいっとイチジクの実を一つ放ってきた。それをヴァルフリードは片手で難なく受け取った。
「ほら、きみに」
「私に?」
「きみが一番好きだろう、イチジク」
陽光を燦々と浴びたイチジクは、すっかり熟れて赤紫だ。
「ワイン煮にも、しましょうか」
「大人たちの、こっそりだ。ネモには秘密のな」
「ええ、あの子には、蜜煮を」
初夏の風が吹く。そよそよとネモフィラの花たちが揺れている。
「さ、降りなさい。今日はあなたの誕生日会でしょう」
「そうだった! ケーキ!」
ヴァルフリードに似て甘いものに目がないネモフィラは、さっそく食い意地を張っている。
「ちゃんと帝国から来てくださるフィリベルト上皇陛下にご挨拶しなさいよ。それに、ジルヴァン陛下やイザーク皇太子殿下、アガーテ殿下にも」
「はーい!」
木からするりと降りた娘の威勢のいい返事に、夫婦は目を合わせて、それから、もう一度笑った。
──こうして二人は、いつまでも末永くふしあわせに暮らしましたとさ。
──いや、これ以上ないほど、幸せに。
一人の女の子が木に登ろうとしていた。その子は「脚立に登るより、直接イチジクの木に登った方が楽しい!」と言って譲らない。
仕方なく父親が女の子を肩車してやる。女の子はすっかり機嫌をよくしてイチジクの実を次々ともいでいった。
「母上、ワイン煮はダメなのでしょう?」
それでも木に登りたがって、両親は諦めた。
「そうです。あれは大人の味です。酒精は熱で飛ぶとはいえ、お子様にはまだ早い」
「えー」
女の子は若干不満そうに、じたばたと手足を動かした。動いていないと落ち着かないようで、母親が目を離すと、すぐにどこかへ駆けていく。この間は、「いっぱい鴨さんが見たい!」と猟場の山道の方へまっしぐらに走っていくものだから、獣に襲われるかもしれない、と肝を冷やした。
「ワイン煮の代わりに、蜜煮にしましょう」
母親がそう提案すれば「蜜煮!」と女の子は顔をほころばせた。ミルク色の頬にほんのりと差す紅さは、まるで薔薇が一輪咲いたようで。
「蜜煮~蜜煮~」
嬉しそうにスキップする女の子は、父親譲りの蒼い瞳だった。それが、庭園で満開になっている蒼い花にあまりにも似ていたものだから、三年前に退位した母親の父王から、女の子はこう名付けられた。
──瑠璃唐草。
父親は、「この子にぴったりだ!」と自分が考えたわけでもないのに自慢げだった。母親は、「だって、愛馬に『黒いの号』と単純に名付ける人ですものね」と笑ったことが、良い思い出だ。
「ネモフィラ、もう、木から降りなさい」
母親──レンゼル女王アウローラは娘に声をかけた。木陰から娘の木登りを見守るのが日課になっていた。落ちないように木の下で見張るのは、夫の役目である。
夫ヴァルフリードは、ネモフィラが楽しそうに枝を揺らすのを、腕を組んで眺めている。
「将来有望だな、ネモ。母上、いや、女王陛下も納得の登りようだ」
真面目くさった顔で言うものだから、アウローラの頬に熱が集まった。
「……もう!」
「元はと言えば、きみが彼女に木登りを教えたのが悪い。そのときに覚悟すべきだったな」
「私のせいにしないでくれます? あなたも甘いわ」
「そうだな」
ヴァルフリードは悪戯っぽく、喉奥でくつくつと笑う。
「まったく、この行動力は誰に似たのやら」
アウローラのお腹の中には、二人目の子がいた。臨月で、もうすぐ生まれてくる。男の子だったらこうしよう、女の子だったらこうしよう、と引退した父が今まさに名付けに頭を悩ませている最中だ。
「この子がお腹にいて、私はネモフィラを追いかけられないの」
「おれが見ているさ、陛下」
「アウローラって呼んでくださいよ」
「そうだな、アウローラ」
ヴァルフリードは言いながらも、視線はネモフィラから外さない。万が一に落ちてもすぐに受け止められるよう、細心の注意を払っている。
「ネモフィラ姫! 降りてください!」
遠くから慌てた騎士の声が飛んできた。その髪が陽光の下で蜂蜜色に輝く。エディングである。その後ろには、やや呆れた顔のエリカが控えている。
「もしかしなくても、エディング卿の子守りがまた増えるわね」
「その通りだ。給料分しっかり働けると、あいつもさぞかし喜べることだろう」
「喜ばないわね、絶対に」
二人の間にも、今や三歳になる息子がいる。きっと、ネモフィラとお腹の子のよい友達になってくれるだろう、と親は勝手に期待しているのだが。
「ねえ、ヴァル」
「どうした」
「あなた、いつか、遺書をしたためていたでしょう」
ヴァルフリードの肩と横顔がわずかに強張ったが、それもすぐに緩む。
「あれか」
「私に見つかっていたこと、気づいていたのでしょう?」
「封蝋が微妙にずれていればな?」
「……やっぱり」
アウローラは苦笑する。あの夜、必死で復元したはずだったのに。
「今は?」
「暖炉の灰さ」
ヴァルフリードは、娘を透かすように、じっとイチジクの枝葉を見つめていた。
「そして、やがていつかは、巡り巡って雨と変わり、イチジクを実らせるはずさ」
「なんですか、それ」
「事実だ。死にたいおれは消えて、残ったのは、生きたいおれだ」
「母上! 父上! もっと高いところに登れたよ!」
ネモフィラの歓声が、瞳そっくりの蒼空に溶けていく。
「ああ、見ているよ、ネモ」
夫は、それだけを言った。今は彼も、見守る立場になっている。
木の上の娘が、ひょいっとイチジクの実を一つ放ってきた。それをヴァルフリードは片手で難なく受け取った。
「ほら、きみに」
「私に?」
「きみが一番好きだろう、イチジク」
陽光を燦々と浴びたイチジクは、すっかり熟れて赤紫だ。
「ワイン煮にも、しましょうか」
「大人たちの、こっそりだ。ネモには秘密のな」
「ええ、あの子には、蜜煮を」
初夏の風が吹く。そよそよとネモフィラの花たちが揺れている。
「さ、降りなさい。今日はあなたの誕生日会でしょう」
「そうだった! ケーキ!」
ヴァルフリードに似て甘いものに目がないネモフィラは、さっそく食い意地を張っている。
「ちゃんと帝国から来てくださるフィリベルト上皇陛下にご挨拶しなさいよ。それに、ジルヴァン陛下やイザーク皇太子殿下、アガーテ殿下にも」
「はーい!」
木からするりと降りた娘の威勢のいい返事に、夫婦は目を合わせて、それから、もう一度笑った。
──こうして二人は、いつまでも末永くふしあわせに暮らしましたとさ。
──いや、これ以上ないほど、幸せに。
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