二人の公爵令嬢 どうやら愛されるのはひとりだけのようです

矢野りと

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【おまけの話】その一言が許せなかったから《前編》

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 場末の酒場の古びた扉を押すと、ギギィッと盛大に音が鳴った。でも、その音は扉を開けた私――ローラにしか聞こえていない。酒場のなかは下卑た笑い声で溢れ返っているからだ。

 目当ての人物を探して視線を彷徨わせていると、さっそく声を掛けられる。

「おいっ、ねえちゃん、 一晩の相手を探しているのか? それなら、こっちで一緒に飲もうぜ」

 こういう酒場にひとりで来る女性は娼婦と相場が決まっている。だから、男は気安く声を掛けてくるのだ。
 最初の頃は濁声で誘ってこられるのが恐ろしくて堪らなかったけど、さすがにもう慣れた。無視すると余計に絡まれるので、私は最低限の言葉を返す。

「先約があるの」

「はんっ、値を釣り上げようってか? こんなところまで客を漁りに来ているくせして」

 男は小馬鹿にしたように鼻で笑う。

 娼婦にも格付けがある。治安が良いとは言えない安酒場で客を探すのは、娼婦のなかでも底辺らしい。つまり、男は安い女のくせにお高くとまりやがって、と思っているのだろう。

 ……でも、はずれ。

 私は某公爵家に仕えている侍女だ。誓って娼婦ではない。
 でも、今の私は素性を隠すために厚化粧と派手な服を着ている。男が夜の商売を生業にしていると勘違いするのも当然だ。

 絡んでくる男をどうしようかと思っていると、カウンターの端に座っていた男が私に向かって、面倒くさそうに手を上げた。

「おい、こっちだ」

「チッ、本当に先約があったのかよ」

 絡んでいた男はあっさりと身を引く。分が悪いと思ったのだろう。カウンターの男は見るからに堅気ではない風貌だ。実際、彼は対価さえ払えばどんな汚れ仕事も平気でする。つまり、正真正銘の屑。

 カウンターの男は立ち上がると、壁に沿って配置されている階段を上がっていく。
 酒場の二階には素泊まりできる部屋がある。前払いして部屋を押さえていたのだろう、その手には鍵が握られている。私は慌てて彼のあとを追った。


 部屋に入ると、男と私は部屋の真ん中にポツンと置かれたベッドで体を重ねた。会話なんて一切なく、男の荒い息遣いだけが続く。彼にとっては溜まったものを排出する行為で、私にとっては対価の前払い。

 ……肌を介して伝わってくる温もりは、私の心を凍てつかせるだけの代物。


 金を払えばどんな悪事も引き受けてくれると聞いて、私のほうから彼に声を掛けてのは数ヶ月前のこと。

『依頼したいの』

『どんな仕事だ?』

『……まだ決まってないの』

 そう言うと男はチッと舌打ちして私に背を向けた。それはそうだろう、言っていることが矛盾しているのだから。     
 でも、私は逃げ出しそうになる自分の足を押さえつけて、男の背中に向かって懇願した。

『ある人を不幸にしたいの。大切なものを奪って傷つけたい。だから、その機会が訪れたら手を貸して欲しいの』

『よくある話だな。だが、俺は高いぞ。最低でもこれくらいは払ってもらう』

 にやりと笑った男が指で示した額は、到底侍女の給金で払えるものはなかった。


――だから、こうして体で前払いしている。

 
 ……泣いたのは最初の数回だけ。 

 もう何度も体を重ねているけれど、互いの名など呼んだことはない。彼はジョンと名乗っているけれど、どうせ偽名だろうし、私なんて名乗ってもいない。

 事が済むとお互い脱ぎ捨てた服を身につけ始める。こういう部屋は時間制でないので一泊分を支払っているはずだけど、朝まで一緒にいたことはない。
いつもなら次に会う日時を彼が口にするのを、待っているのだけど今日は違った。

「三日後、やってもらいたいことがあるの」
 
 ジョンは内容をまず話せと、顎をしゃくってくる。私が払った対価に見合う仕事かどうか判断してから返事をするつもりなのだろう。
 もし足りないと言ってきたら、どうしようか。それは困る。……こんな絶好の機会は二度とないかもしれないのだから。
 私は言葉を濁して話すことにした。

「マーコック公爵家のお屋敷の裏口まで来て。そこで私がある物を渡すわ。それを秘かに処分して欲しいの」

「……」

 ジョンは無言のまま睨みつけてくる。
 マーコック公爵家は平民でも知っている有力貴族だ。でも、それに怖気づいているというふうではなく、という曖昧な言葉が気に入らなかったようだ。

「渡す物は赤ん坊よ」

「ということは、マーコック公爵令嬢だな。狙いは夫人か」

 ジョンは独り言のように呟く。数々の悪事に手を染めているというだけあって抜け目のない男だ。私の後をつけて調べたのだろう、私自身とその身辺を。

 それにしても、この男を選んで良かった。赤ん坊を殺してくれと言っているのに動じる気配はない。彼なら躊躇なく殺ってくれるだろ。……問題は対価に見合う仕事だと思ってくれるかだ。

「そうよ。でも、なぜ公爵ではなく妻のほうだと思ったの?」

 調べたならば、マーコック公爵夫妻はともに子供を慈しんでいると承知しているはず。子供を奪われて傷つくのは、母親でけではなく父親も同じだ。
返事など期待していなかったが、意外にも彼は答えた。

「もし公爵の方だったなら、お前は乳姉妹である夫人が悲しむようなことはしない。そうだろ?」

「本当に何もかも調べ尽くしているのね」

「だから、こうして生き残っているんだ。ちなみに、恨む理由はなんだ?」

 私は口ごもってしまう。……ここでは言いたくない。死んだ恋人のことを口にする場所として、体を重ねた部屋など相応しくないから。

 でも、彼の機嫌を損ねるのは避けたい。引き受けてくれなくなったら、今までの苦痛が無駄になる。

 私は腰掛けていたベッドから立ち上がった。何が変わるわけではないけれど、せめて情事の温もりが残る場所から離れて話したかった。

「だいぶ前に婚約者が戦死したの。私が泣いているとアリソン様、分かっているとは思うけどマーコック公爵夫人よ。彼女はこう言ったわ。『嘆いても死んだ人は生き返らないわ。ローラ、彼のことは忘れなさい』ってね」

「ただの逆恨みだな」

 ジョンは興味を失ったように煙草を吸い始める。確かに、この言葉だけならそう思われても仕方がない。……でも、違う。逆恨みでこんな真似はしない。


「これには続きがあるのよ」

 ふふっと笑いながらそう告げると、彼は片眉を微かに上げる。興味を取り戻したようで、聞かせろと目で催促してきた。
 
 聞かせてあげるわ、どうして私が悪魔になることを選んだのかを……。

 

 
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