境界のクオリア

山碕田鶴

文字の大きさ
38 / 65

38.天明 一

しおりを挟む
 キヨの元気がなくなった。
 孫家族が面会に来たあたりから、話しかけてもぼんやりしていることが多くなった。南大東島の話も出ない。

「佐藤君は、優しいねえ。ありがとうねえ」

 介助のたびに笑顔でお礼を言うのは変わらない。晴久はいつもそうして感謝される。佐藤君として。

「キヨさんは、いつも笑顔ですね」
「笑顔が一番。悲しくても辛くても、私らの時代はみんな笑ってたねえ。島からよう出られんって泣いたのは一度きり」

 はっとして晴久はキヨを見た。ぼんやりと遠くを見るキヨは、もう晴久を見ていない。

「キヨさん」
「……」

 ほんの一瞬だが、また霧の先のキヨを見た気がした。キヨは確かにそこにいた。



「キヨさん、今日も一日ボケーっとしちゃってて、大丈夫っすかねえ。最近急に元気なくなったし。やだなあ」

 職員通用口で、落合が心配そうに晴久に話しかけてきた。
 落合とは職場環境を守るという共通利害ができて、表立った険悪な雰囲気はなくなっていた。

「そういえば広瀬さんって、借金返済終わったの?」
「え?」
「だって、最近あの怖い人に会ってないし。なんかまた雰囲気変わったし」

 落合は先輩に対する敬意が「さん付け」以外なくなっていた。

「落合君が見張らないといけないのは僕じゃないですよね」
「えー当ったり前っしょ。心配しなくてもちゃんと見守ってるから大丈夫だって」

 晴久に対しては、ストーカー行為を公然と話題にするようになっていた。晴久は、巻き込まないで欲しいと困惑する。

「最近、広瀬さんと落合君仲良しですよね。だからですか?  広瀬さん、なんだか雰囲気変わりましたよね」

 川島は、以前にも増して話しかけてくるようになっていた。落合がいる時に限って距離が近い気がして晴久は困惑する。
 晴久の日常は緩やかに変化し続ける。石崎がいてもいなくても直接影響はないが、こうして落合たちと話せるようになったのは石崎のお陰だ。
   考え過ぎるな。気にし過ぎるな。
   言われ続けて呪文のように唱えるうちに、晴久は今まで周りの職員に対して変に構えてぎこちなく接していたことに気づいた。
   最近は少し力が抜けたせいか、ストレスが減った気もする。
   晴久の雰囲気が変わったと言われるのも、石崎に出会ったからだろう。どう変わったのか誰も言わないのでわからないが、悪い意味ではなさそうだ。
 石崎が晴久を変えようとしたわけではない。晴久は、変わるきっかけをもらったのだ。
 まるで、星の友情を信じて運命の相手に出会ったような感覚。出会わなければいけない人を見つけた錯覚。
 晴久は奇跡の夢物語を本気で信じていたわけではない。ただ、こじつけで構わない。そういう存在として石崎は現れた。
それなのに、僕は何をためらっている?

「……広瀬さん、聞いています?  この後みんなでご飯行くんですけど」
「ああ、すみません。これから用事が……」

 晴久が川島を見ると、川島の方から目を逸らした。今までは怖いほどに凝視してきたのに。不思議に思って落合を見ると、落合は不機嫌そうに寄ってきて耳打ちした。

「広瀬さんヤバイ感じなんだってさ。俺にはわかんないけど、なんか女子連中に言われてるよ」
「は?」

   ヤバイの意味がわからない。

「えー、残念です。たまには来てくださいよ。今度同コンっぽいのがあるんですけど、広瀬さんもどうですか?」

 川島とよく一緒にいる職員たちが話しかけてきた。こちらも社交辞令が通じなさそうだ。

「広瀬さんのタイプの女の子ってどんな人ですか?」
「え?  ……考えたことないです」
「えー、じゃあどんな子だったら一緒に遊びに行ったりしたいですか?」
「いえ、特には……」
「こういう人いいなっていうのは?」

 かなりプライベートなことをどうして簡単に訊けるのか晴久には理解できない。落合を見ると今度は無視された。
   仕方なく、晴久は思いつくままを言ってみた。

「え、と。年上で。ちょっと怖そうで。いつも仕事で疲れている感じで。声をかけにくそうな人」
「ええー?  なにそれ。具体的ですよー」

 本当だ。姿が目に浮かんでしまった。

「でも、それってフロア長さんじゃないですか?  もう、やだぁ。広瀬さん、はぐらかしたー」

 川島たちは楽しそうにキャッキャと騒いでいる。落合も苦笑いしているが、想像したのはフロア長ではないだろう。

「広瀬さんって、本当に雰囲気変わりましたよね」

 川島は優しく包み込むように言った。
   あなたのことをわかっていますよという微笑みで晴久を見る。今度は目を逸らさないという意思を感じる。
 あなたが変わっても私は受け入れます。私は寛容なんです。安心していいのよ。
   晴久にはそう聞こえてしまう。
 僕は、支配されるこの感じが苦手なんだ。
 それを伝えるのは、いつもの曖昧な笑顔だ。伝わるはずがないと苦笑して、それで更に誤解を生んだ気がした。
 にらんでくる落合に、晴久は心の中で謝った。
 川島さんは自分で作った僕のイメージには寛容でも、きっと僕本人には不寛容だろう。 
   そう思いながら職員通用口を出た。
 ……怖そうで、疲れている感じで、声をかけにくそうで……
   ひとつもいいことを言っていない。
   明美だったらそこは否定せずに、それでもかっこいいと言い張るに違いない。
   晴久は、ライブハウスで見たササイシンの姿を思い浮かべなかったことに気づいた。
   明美の方は、アケミでありアキヨシであり、結局ひと続きの明美という存在としてすんなり受け入れている。
   ササイシン、か……。
   晴久の知る石崎と明美たちが呼ぶササイが一致しない。
しおりを挟む
感想 1

あなたにおすすめの小説

切なくて、恋しくて〜zielstrebige Liebe〜

水無瀬 蒼
BL
カフェオーナーである松倉湊斗(まつくらみなと)は高校生の頃から1人の人をずっと思い続けている。その相手は横家大輝(よこやだいき)で、大輝は大学を中退してドイツへサッカー留学をしていた。その後湊斗は一度も会っていないし、連絡もない。それでも、引退を決めたら迎えに来るという言葉を信じてずっと待っている。 そんなある誕生日、お店の常連であるファッションデザイナーの吉澤優馬(よしざわゆうま)に告白されーー ------------------------------- 松倉湊斗(まつくらみなと) 27歳 カフェ・ルーシェのオーナー 横家大輝(よこやだいき) 27歳 サッカー選手 吉澤優馬(よしざわゆうま) 31歳 ファッションデザイナー ------------------------------- 2024.12.21~

【完結】ぎゅって抱っこして

かずえ
BL
「普通を探した彼の二年間の物語」 幼児教育学科の短大に通う村瀬一太。訳あって普通の高校に通えなかったため、働いて貯めたお金で二年間だけでもと大学に入学してみたが、学費と生活費を稼ぎつつ学校に通うのは、考えていたよりも厳しい……。 でも、頼れる者は誰もいない。 自分で頑張らなきゃ。 本気なら何でもできるはず。 でも、ある日、金持ちの坊っちゃんと心の中で呼んでいた松島晃に苦手なピアノの課題で助けてもらってから、どうにも自分の心がコントロールできなくなって……。

鈴木さんちの家政夫

ユキヤナギ
BL
「もし家事全般を請け負ってくれるなら、家賃はいらないよ」そう言われて鈴木家の住み込み家政夫になった智樹は、雇い主の彩葉に心惹かれていく。だが彼には、一途に想い続けている相手がいた。彩葉の恋を見守るうちに、智樹は心に芽生えた大切な気持ちに気付いていく。

Take On Me

マン太
BL
 親父の借金を返済するため、ヤクザの若頭、岳(たける)の元でハウスキーパーとして働く事になった大和(やまと)。  初めは乗り気でなかったが、持ち前の前向きな性格により、次第に力を発揮していく。  岳とも次第に打ち解ける様になり…。    軽いノリのお話しを目指しています。  ※BLに分類していますが軽めです。  ※他サイトへも掲載しています。

【完結】愛されたかった僕の人生

Kanade
BL
✯オメガバース 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 お見合いから一年半の交際を経て、結婚(番婚)をして3年。 今日も《夫》は帰らない。 《夫》には僕以外の『番』がいる。 ねぇ、どうしてなの? 一目惚れだって言ったじゃない。 愛してるって言ってくれたじゃないか。 ねぇ、僕はもう要らないの…? 独りで過ごす『発情期』は辛いよ…。

【完結】毎日きみに恋してる

藤吉めぐみ
BL
青春BLカップ1次選考通過しておりました! 応援ありがとうございました! ******************* その日、澤下壱月は王子様に恋をした―― 高校の頃、王子と異名をとっていた楽(がく)に恋した壱月(いづき)。 見ているだけでいいと思っていたのに、ちょっとしたきっかけから友人になり、大学進学と同時にルームメイトになる。 けれど、恋愛模様が派手な楽の傍で暮らすのは、あまりにも辛い。 けれど離れられない。傍にいたい。特別でありたい。たくさんの行きずりの一人にはなりたくない。けれど―― このまま親友でいるか、勇気を持つかで揺れる壱月の切ない同居ライフ。

推しにプロポーズしていたなんて、何かの間違いです

一ノ瀬麻紀
BL
引きこもりの僕、麻倉 渚(あさくら なぎさ)と、人気アイドルの弟、麻倉 潮(あさくら うしお) 同じ双子だというのに、なぜこんなにも違ってしまったのだろう。 時々ふとそんな事を考えてしまうけど、それでも僕は、理解のある家族に恵まれ充実した引きこもり生活をエンジョイしていた。 僕は極度の人見知りであがり症だ。いつからこんなふうになってしまったのか、よく覚えていない。 本音を言うなら、弟のように表舞台に立ってみたいと思うこともある。けれどそんなのは無理に決まっている。 だから、安全な自宅という城の中で、僕は今の生活をエンジョイするんだ。高望みは一切しない。 なのに、弟がある日突然変なことを言い出した。 「今度の月曜日、俺の代わりに学校へ行ってくれないか?」 ありえない頼み事だから断ろうとしたのに、弟は僕の弱みに付け込んできた。 僕の推しは俳優の、葛城 結斗(かつらぎ ゆうと)くんだ。 その結斗くんのスペシャルグッズとサイン、というエサを目の前にちらつかせたんだ。 悔しいけど、僕は推しのサインにつられて首を縦に振ってしまった。 え?葛城くんが目の前に!? どうしよう、人生最大のピンチだ!! ✤✤ 「推し」「高校生BL」をテーマに書いたお話です。 全年齢向けの作品となっています。 一度短編として完結した作品ですが、既存部分の改稿と、新規エピソードを追加しました。 ✤✤

鎖に繋がれた騎士は、敵国で皇帝の愛に囚われる

結衣可
BL
戦場で捕らえられた若き騎士エリアスは、牢に繋がれながらも誇りを折らず、帝国の皇帝オルフェンの瞳を惹きつける。 冷酷と畏怖で人を遠ざけてきた皇帝は、彼を望み、夜ごと逢瀬を重ねていく。 憎しみと抗いのはずが、いつしか芽生える心の揺らぎ。 誇り高き騎士が囚われたのは、冷徹な皇帝の愛。 鎖に繋がれた誇りと、独占欲に満ちた溺愛の行方は――。

処理中です...