霊和怪異譚 野花と野薔薇

野花マリオ

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野薔薇怪異談集全100話

73話「闇人」

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 ──私の家の中に、それは現れた。

 最初に気づいたのは、夜中だった。トイレに起きて、ふと廊下を振り返ると、奥の壁の前に黒い影がぼんやりと立っていた。形は曖昧で、まるで霧のようだった。けれど“それ”は、確かに人の形をしていた。

 私は寝ぼけているのだと思い、目を擦って再び見ると、影はもうなかった。

 それからというもの、家の中に“何か”がいるような気配が消えなくなった。気づけば物の位置がわずかに変わっていたり、鏡の中に自分以外の気配を感じたり。誰もいないはずの部屋から、床をこすれるような足音が聞こえる。

 それでも、私は気のせいだと自分に言い聞かせた。怖がりなだけなのだと。

 けれど、ある晩。

 テレビをつけたとき、画面の隅に、明らかに人のような“黒い影”が映り込んでいた。

 私は目を疑った。振り返っても誰もいない。なのに、テレビに映る部屋の角には、肩を落としたような黒い影が確かにいた。

 それから日々、影は濃く、輪郭を持ちはじめた。

 気づけば、それはまるで“人間”のような姿になっていた。顔は見えない。ただ、真っ黒な影が私の家の中を歩いている。キッチンを通り、廊下を曲がり、時に私の部屋を覗く。何かを探すように、黙って彷徨っていた。

 私は怖くて、部屋に鍵をかけるようになった。だが、それは意味をなさなかった。

 ある夜、私は夢を見た。いや、あれは夢だったのか。

 私は自分の部屋にいた。だが、何かが違っていた。家具の配置は同じなのに、壁の色がほんの少し暗く、空気が冷たく濁っていた。そして、ドアの前に、あの“黒い人影”が立っていた。

 人影は何も言わず、ドアを開けて入ってきた。私は逃げようとした。だが体が動かない。

 そして、人影は私に触れた。いや、触れたというよりも――溶けるように、私の中へと入ってきた。

 その瞬間、意識がふっと遠のいた。

 目が覚めると朝だった。部屋に異変はない。あの出来事もただの夢だったのだと、自分に言い聞かせた。だが、それ以来、私は少しずつ“自分”を見失っていった。

 言葉遣いが変わった。好みの音楽や食べ物が、以前とは違って感じられる。

 知人に「最近雰囲気が変わったね」と言われることが増えた。

 鏡の中の自分が、どこか他人のように見える。

 ある日、私は自分の日記を読んでいた。だが、そこに書かれていた内容に覚えがなかった。

 それは確かに私の字だった。けれど、知らない出来事、知らない名前が記されていた。

 ──「今日は“ミユキ”と話した。あの子の声が心地よい」

 ミユキなんて人、私は知らない。そんな名前、聞いたこともない。

 なのに、なぜかその名前が妙に懐かしく、切なく響いた。

 それからというもの、私は「私が私でない」時間が増えていった。

 意識がふと途切れ、次に気づくと数時間が過ぎている。手にしているものも、場所も、自分が何をしていたのかもわからない。

 周囲の人々は、私を以前の私として扱っている。

 だけど、私の中にいる“私”は、もう……私ではない気がしていた。

 ある夜、再び“それ”は現れた。もはや黒い影ではなかった。人間と変わらない姿だった。だが顔だけが、暗闇の中に沈み、どうしても見えない。

 そして、それは私の前でこう言った。

 ──「おかえり」

 私は震えた。だが、なぜか懐かしさすら感じていた。

 それは、かつて“私だったもの”が、私に戻ってきたのか。  
 それとも、“私でないもの”が、完全に私になったのか。

 いま、私の家の中には、もうひとつの“私”がいる。

 毎晩、私と同じ動きをし、同じ服を着て、同じ言葉を呟いている。

 私は誰なのか。どちらが本物なのか。

 それを考えるたびに、答えが霞む。

 ──けれど、ひとつだけ確かなことがある。

 今でも、この家には“黒い人影”が、ゆっくりと、少しずつ、増えているのだ。

 それはまるで、私の中の“私でない何か”が増殖しているように。

 私はまだ、私でいられるのだろうか。

 ──いや、もうとっくに、私は……

闇人 完
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