悪役令嬢まさかの『家出』

37話

「……で、その令嬢は婚約破棄されたって話よ」

「しかも王子様にですって。王子様の方から。なにがあったのかしらねぇ」

帝都の港町の裏通り、小さな茶屋の木陰席。  
通りすがりの婦人たちが話す噂話を、ルゥナ＝フェリシェは、猫を膝に乗せながら穏やかに紅茶をすする音と共に聞き流していた――はずだった。

「ほら、名前なんだっけ……あ、そうそう。ルゥナ＝フェリシェ侯爵令嬢」

その瞬間、彼女の喉が不自然に跳ねた。  
紅茶がふわりと霧状に舞い、膝の猫が不満げに鳴いた。

「……まあ、そうだったのですの？」

まるで他人事のように、ルゥナは首を傾げた。  
顔色ひとつ変えず、ただ淡々と、紅茶のカップをそっと置いた。

「わたくし、婚約……しておりましたのね？」

呟いた言葉は、誰に向けるでもなく、風に乗って消えていく。  
その後ろで猫が尻尾をパタリと振り、もう一度「にゃあ」と鳴いた。

記憶にないわけではなかった。  
だが、彼女にとって“婚約”は、いつかどこかの誰かが決めた枠組みに過ぎなかった。

王子の顔を見たことは、数えるほどしかない。  
言葉を交わした記憶はあいまいで、形式ばかりの付き合いだった。  
だからこそ、“破棄された”という情報も、ひどく淡泊に胸に落ちていった。

「なるほど。では、いまのわたくしは“自由”でございますのね」

ふわりと微笑みながら、ルゥナは立ち上がった。  
その足取りに迷いはなく、ただ静かな風と陽光を受けながら、次なる道を選ぶように歩き出す。

一方、通りの茶屋では先ほどの婦人たちが口をぽかんと開けていた。

「今の……あの子、まさか本人……？」

「ま、まさか……でも、あの物腰と猫……」

「というか、まったく動じてなかったわよね！？　婚約破棄されたって聞いて、紅茶吹いて、それで“自由ですのね”って……」

「……神の心を持ってるとしか思えない……」

こうして“祝福の旅人、婚約を捨て風になる”という新たな伝説が生まれた。

そしてその夜、帝都新聞の片隅に、こんな一文が掲載される。

“王子から婚約破棄を受けた侯爵令嬢、現在もなお風に乗り歩む。  
涙ひとつ見せず、ただひとこと――『そうだったのですの？』”

本人はというと、野道の風の中で猫の頭を撫でながら、のんびりと呟いていた。

「では、次に誰かと出会ったときは、“婚約しておりません”と、堂々と申し上げられますわね。……ふふ、肩が軽くなりましたわ」