悪役令嬢まさかの『家出』

にとこん。

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38話

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午後の陽が差し込む港町の路地裏。  
レンガの壁に寄りかかりながら、ルゥナ=フェリシェは足元の猫に語りかけていた。

「……それで、婚約破棄、ということらしいのですけれど」

猫は「にゃあ」と返す。  
彼女は小さく頷いたあと、もう一口だけ紅茶を口に含んで、ひとつ大きく息を吐いた。

「……ですが、そもそも――わたくし、婚約しておりましたの?」

その問いは、冗談ではなかった。  
紅茶の香りと共に本気で口をついて出た。  
何かの記憶違いかと思い、数秒ほど過去を探る。

回想の中に浮かぶのは、ティーカップ。  
白磁に金縁、ローズヒップティー、ミントティー、レモンバーベナ。  
季節ごとのお茶会に、応接間の天井画。  
並んでいたのは銀の菓子鉢とティーセットの種類だけ。

そして、肝心の王子の顔が、すっぽりと抜けていた。

「……お席の向こうに、誰かおられたような気もいたしますけれど……あの頃は茶葉の選定に必死でしたものね」

視線は遠く、脳裏に甦るのは「花の香りに合う菓子は何か」という懊悩。  
“婚約者”と呼ばれていた人物の言葉も表情も、ひとつも思い出せなかった。

傍らでその話を聞いていた旅の商人が、そっと紅茶を吹きそうになる。

「お、お嬢さん……まさか、本当に……?」

「ええ、まったく記憶にございませんの」

凛とした声で、ルゥナは事もなげに答えた。  
あまりの真顔に、茶屋の店主も、通りすがりの少年も、ただ黙り込むしかなかった。

やがて、その沈黙を破ったのは――空から流れ込んできた、柔らかな春の風だった。

髪を揺らし、花の香りを巻き上げながら、風はルゥナの頬を撫でる。  
まるで「それでいいのだ」とでも言うように。

彼女は目を細めて、うっすらと微笑んだ。

「まあ、婚約していたか否かよりも、いまはこうして風が気持ちよろしゅうございますものね。  
猫さんも、きっとそちらの方が関心がございますわよね?」

猫がのびをして、ルゥナの足元に頭をすりつける。

その様子を見ていた通行人のひとりが、小声で呟いた。

「……あれが“執着を捨てた神の令嬢”……」

「記憶を越えて、茶葉の名を刻む女……」

「やっぱり、伝説って生きてるんだな……」

そんな風評が、またひとつ帝都に根を下ろす。  
そして王国では、婚約破棄を伝えた側の王子が「記憶にない」と言われたことを後日知り、遠征先で魂を抜かれるのだが――それはまだ、少し先の話である。
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