悪役令嬢まさかの『家出』

にとこん。

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40話

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帝国宮殿、南庭の離れにて。  
手入れの行き届いた薔薇の庭園に、白いテーブルクロスと銀のティーセット。  
琥珀色の茶が香るなか、椅子に座るひとりの男の姿――それが、ヴィクトール皇帝その人だった。

「……陛下が、謁見ではなく、“庭で待つ”と仰せとは……」

側近たちは困惑を隠せなかった。  
皇帝が自ら“出向く”というのは、歴史的にも極めて稀な事例である。

だが、それほどまでに、陛下は彼女を“気にされていた”。

帝都に巻き起こる数々の奇跡、祝福のような逸話。  
各地に咲いた笑顔の根源、帝国が見つめる“風の導き”。  
全ての中心に、ひとりの侯爵令嬢――ルゥナ=フェリシェがいた。

そしてその令嬢は、まるで当然のようにやってきた。

「……まあ、素敵なお庭ですわ。猫さん、土には触らぬように」

ふわりとスカートを翻し、椅子に腰を下ろす。  
対面の皇帝にひと礼を送りながら、何の緊張も見せることなくティーカップを手に取った。

「……よく来てくださった」

「いえいえ。お招きいただいたことに、感謝いたしますわ。  
まさか、陛下ご自身がお茶会をひらいてくださるなんて、わたくし、少しだけ驚きましたの」

「君が歩いた場所に、民が笑い、風が和らいだと聞いている。……不思議なことだ」

「不思議でしょうか? 風が気持ちよくて、誰かと笑い合えたなら、それだけで充分ですもの」

その言葉に、皇帝は数秒の沈黙を置いた。  
そして、目を細めて頷いた。

「……なるほど。君の語ることは、あまりに単純で、あまりに深い。  
帝国に足りなかったのは、そういう風かもしれないな」

ルゥナは紅茶を一口含んで、控えめに笑った。

「風は、追いかけると逃げますけれど、共に歩めば案外、道を照らしてくれるのですわ」

そのやわらかな声は、庭を満たす静けさに溶けていった。

その瞬間だった。

皇帝の口から、ひとつの言葉が落ちた。

「――この令嬢は、帝国の宝だ」

周囲の従者たちが凍りついた。  
それは単なる賛辞ではない。  
帝国において“宝”とは、守るべき至高の存在。  
国の威信に等しい価値を持つ者に対してのみ与えられる、特別な称号である。

そして、王国との関係は決定的に変わった。

「王国の使者がいかに叫ぼうと、君を返すつもりはない。  
なぜなら、君はもう、ここに居るからだ。  
風が、帝国に吹いているうちはな」

その言葉を、ルゥナは肯定も否定もしなかった。  
ただ紅茶の香りに目を細め、膝の猫の背を撫でるだけだった。

この日を境に、王国と帝国の外交は静かに緊張を深める。  
だが、帝国中の人々は知っていた。

祝福が、帝都に根を下ろした日。  
神話が、国家の側に立った日。  
風が選んだ令嬢は、ここに在る。

何の決意もなく、何の野心も持たず、ただ、風のままに。
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