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第5章:帝国の罠と新たな転生者
第48話:人質は転生者?
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玉座の間は、血と鉄錆、そして恐怖の匂いで満たされていた。
かつては神聖ガルガン帝国の威光を内外に示すため、贅の限りを尽くして建造されたはずのその広間は、今や見るも無残な姿を晒している。磨き上げられ、雲の上を歩くようだと謳われた純白の大理石の床には、無数の亀裂が走り、所々が抉れて黒い土台を覗かせていた。天井から吊るされた、千の水晶が輝くと言われた巨大なシャンデリアは見る影もなく、その残骸が硝子の破片となって床に散らばり、今なお燻る魔力の残滓を受けて、不気味な光を明滅させている。
壁を飾っていた歴代皇帝の肖像画は、いずれも見るも無残に引き裂かれ、あるいは燃え滓となり、その偉大なる先祖たちは、今の皇帝の醜態を見ずに済んだことを幸運に思うべきだろう。玉座へと続く真紅の絨毯は、何人もの近衛騎士たちの血を吸い込んで、もはや元の色も判然としないほどにどす黒く変色していた。
そして、その惨状の中心。本来ならば、絶対的な権威と威厳の象徴であるはずの、黄金と宝石で飾られた玉座。その遥か手前、俺の、長旅で汚れに汚れた革のブーツの、そのつま先に。
一人の男が、額をこすりつけていた。
皇帝ルドルフ・フォン・ガルガン。
この広大な、神聖ガルガン帝国に絶対君主として君臨し、その一言で人の命すら容易く奪うことができると、少なくとも昨日までは言われていた男。その男が今、俺のブーツに付着した、どこの国のものとも知れぬ泥に、その尊いとされる額を押し付け、涙と、鼻水と、恐怖から滲み出る脂汗でぐしゃぐしゃになった顔で、ただひたすらに、命乞いを続けている。
「ひぃ、ひぃぃ……!お、お許しを……お許しください……!こ、このルドルフ、命ばかりは……!な、何でもいたしますゆえ……!」
その声は震え、途切れ、皇帝としての威厳など微塵も感じさせない。ただただ、死の淵に怯える、哀れな生き物の喘ぎでしかなかった。少し前まで、その同じ口から、どれほど傲慢で、どれほど残酷な言葉が吐き出されていたことか。
「余は神に選ばれし皇帝である!貴様ら如き賤民が、この余に逆らうなど、万死に値する!」
そう叫びながら、その手に握られた魔剣が、どれほどの魔力を放っていたか。その瞳が、どれほどの侮蔑と殺意に満ちていたか。その記憶はまだ新しい。だが、その魔剣は今や、へし折られて遥か彼方に転がり、彼の魔力は枯渇し、その瞳には、ただただ純粋な、動物的な恐怖の色だけが浮かんでいた。
この、あまりにもシュールで、あまりにも情けない光景。
俺の後ろに控える、我が愉快な仲間たちは、もはや声も出ないようだった。
「…………」
サラは、あんぐりと開けた口が塞がらない。彼女の大きな翠色の瞳が、信じられないものを見るかのように、皇帝と俺のブーツの間を何度も往復している。普段は元気で快活な彼女だが、目の前で繰り広げられる、絶対権力者の完全なる崩壊という現実は、彼女の想像を遥かに超えていたのだろう。その手は、まだ戦闘の余韻からか、愛用の杖を固く握りしめているが、その指先は微かに震えていた。
「おお……なんということだ……」
隣では、ドルセンがその場にへたり込んでいる。屈強なドワーフの戦士である彼は、その頑健な体躯に似合わず、腰を抜かしてしまっていた。彼の口から漏れるのは、感嘆とも呆れともつかない、途方もない溜息だけだ。数多の戦場を駆け抜け、竜の咆哮にも怯まなかった歴戦の勇士が、今、人類の頂点に立つ男の、そのあまりの無様さに、精神的な許容量を超えてしまったらしい。彼の目は、まるで歴史の教科書に載るべき瞬間を目の当たりにした歴史家のように、爛々と輝きながらも、その体は言うことを聞かないようだった。
「神よ。これが、俗世の、権力者の、なれの果てなのですな」
そんな中、ハガンだけはどこか哲学的な表情で、静かに呟いていた。白銀の長髪を揺らし、その深い青色の瞳は、皇帝ではなく、もっと遠い、何かを見つめているかのようだ。エルフの賢者である彼は、人の世の栄枯盛衰を幾度となく見てきたのだろう。その呟きには、憐憫でもなく、嘲笑でもなく、ただ、世界の理を確認するかのような、静かな諦観が滲んでいた。
そして、セリアとアリシアは、あまりの衝撃的な光景に顔を青ざめさせ、お互いの手を固く、固く握りしめている。セリアは、神殿で育った心優しい神官だ。血や争いごと自体に慣れていない彼女にとって、この玉座の間の惨状と、皇帝の醜態は、あまりにも刺激が強すぎた。一方のアリシアは、亡国の王女である。彼女は、権力というものの恐ろしさと、その儚さを、誰よりも身に染みて知っているはずだ。だが、それでもなお、一国を支配した皇帝が、ここまで無様に、人間としての尊厳すら投げ捨てて命乞いをする姿は、彼女の理解を超えていたのだろう。彼女は、かつての自らの父の、誇り高い最期を思い出しているのかもしれない。握りしめられた彼女たちの手は、互いの恐怖を分かち合い、支え合っているかのようだった。
(はあ。いつまで、やってんだ、こいつ)
仲間たちの様々な反応を背中で感じながら、俺はもはや怒りを通り越し、純粋な呆れの感情で、その哀れな豚のパフォーマンスを見下ろしていた。怒る、という感情は、相手を自分と同じ土俵にいる存在だと認めているからこそ湧き上がるものだ。だが、目の前のこの男は、もはやその価値すらない。ただただ、目障りで、耳障りで、そして、面倒くさい。
俺は、こびりついた泥を振り払うように、軽くブーツを動かした。それだけで、皇帝は「ひっ!」と短い悲鳴を上げ、ビクリと体を震わせる。
もう、いいだろう。これ以上の茶番は時間の無駄だ。俺たちの目的は、この男に土下座させることではなかったはずだ。
「もういい」俺は短く、そして冷たく告げた。「顔を上げろ」
「は、はいぃっ!」
皇帝は弾かれたように顔を上げた。その顔は、やはり見られたものではない。涙と鼻水と汗で、まるで溶けた蝋人形のようだ。しかし、その瞳には、わずかな、本当にわずかな希望の光が灯っていた。俺が、彼を殺さないかもしれない、という希望だ。
「あんたの国にも、あんたの地位にも、ましてやあんたの命にも、俺は興味がない」
「ほ、本当でございますか!?」
「ああ。ただ、俺たちは疲れている。この国に来るまで、色々とあってな。だから、要求は一つだ」
俺は仲間たちを一度振り返り、そして再び皇帝に向き直った。
「ですから、国も、姫も、いらないんで。とりあえず、仲間を、ちゃんとした部屋で、休ませてやってください。あと、美味い飯と、ふかふかのベッドも、お願いします。話は、それからです」
我ながら、実に現実的で、実にささやかな要求だった。帝国の存亡を左右するような駆け引きでもなければ、莫大な金品を要求するわけでもない。ただ、疲れた旅人が、一夜の宿と温かい食事を求める。それだけのことだ。
俺の言葉を聞いた瞬間、皇帝は、はっと息を呑み、その表情が劇的に変化した。絶望の淵から、一気に天国へと引き上げられたかのような、そんな顔。そして、まるでこの世の救世主にでも出会ったかのような、恍惚とした表情で、彼は叫んだ。
「は、はい!はい!もちろんでございます!も、もちろんでございますとも!すぐに!すぐに最高の部屋と、最高の食事をご用意させます!シェフには、この城で、一番、腕利きの者を!ベッドは、天上の雲よりも、柔らかいものを!さあ、宰相!何を、しておる!何を멍하니 있는 것이냐!早く、この御方々を、賓客として、おもてなしするのだ!」
その声は裏返り、必死さが滲み出ていたが、先程までの命乞いの声とは違い、明確な意志が宿っていた。
「は、はひっ!」
皇帝の隣で、同じように土下座をしていた宰相ヴァルハルトが、カエルの潰れたような悲鳴を上げ、慌てて立ち上がった。彼は、帝国で二番目の権力者であり、その狡猾さと冷徹さで「蛇」とあだ名される男だ。俺たちがこの城に乗り込んでくる前、彼は実に尊大で、実に不愉快な態度で俺たちを見下していた。その蛇のような瞳には、俺たちをゴミムシ同然と見なす、冷たい侮蔑の色が浮かんでいたのを、俺ははっきりと覚えている。
だが、今の彼の顔には、もはやあの傲慢な蛇のような狡猾さは微塵も残ってはいなかった。ただ、ひたすらに、俺に対する純粋な、根源的な恐怖の色だけが、その顔に深く刻み付けられていた。その腰は卑屈なまでに折れ曲がり、その目は俺と決して合わそうとしない。
俺たちは、その腰の低い(すぎる)宰相に案内されるまま、この血生臭い玉座の間を後にしようとした。もうこれ以上、この哀れな皇帝の顔も見たくなかった。
その、時だった。
「お、お待ちください!」
背後から、皇帝の必死の形相が俺たちを呼び止めた。
「なんだ、まだ、何かあるのか」
俺はうんざりしたように、ゆっくりと振り返る。早く暖かい風呂に入って、ゆっくりと眠りたい。それだけなのに、まだ何か面倒ごとを押し付けようというのか。俺の眉間には、自然と深い皺が刻まれた。その表情に、皇帝は再びビクリと体を震わせたが、それでも何かを思いついたように、ぱあっと、その豚のような顔を輝かせた。
そして、とんでもないことを、言い出したのだ。
「そ、そうだ!我が帝国には、国宝級の宝が、一つ、ございます!どうか、それも受け取っていただきたい!こ、これは取引ではございません!我らが、心からの、謝罪と、そして、忠誠の、証として!」
(また、面倒くさいことに……)
俺は嫌な予感しか、しなかった。国宝級の宝。それが金銀財宝であれ、伝説の武具であれ、今の俺たちには必要のないものだ。そんなものを受け取ってしまえば、余計な貸し借りが生まれ、この国との関係が切れないものになってしまう。それは、俺が最も避けたい事態だった。
俺が、「いらん」と、その申し出を断るよりも、早く。
皇帝は、近くにいた、数少ない無事な近衛騎士に向かって、割れ鐘のような声で叫んだ。
「ソフィアを!我が娘、ソフィアを、ここに、お連れしろ!急げ!」
「は、はっ!」
命令を受けた近衛騎士は、何が何だか分からないという顔をしながらも、皇帝の剣幕に押され、慌てて玉座の間を飛び出していった。
(ソフィア?)
俺は、その名前に首を傾げた。皇帝の娘、ということは皇女か。宝として差し出すということは、つまりは人質、ということか?それとも政略結婚の道具か?どちらにしても、ごめんだ。女一人増えたところで、俺たちの旅の足手まといになるだけだ。それに、アリシアという本物の王女が既にいるのだ。これ以上、高貴な身分の人間を抱え込むのは、厄介ごとを自ら呼び込むようなものだ。
(いらねえよ、そんなもん)
俺の、その実に後ろ向きな思考を、よそに。事態は、刻一刻と、俺の望まない、最悪の方向へと、転がっていった。宰相ヴァルハルトは、皇帝の意図を察したのか、俺たちの案内を中断し、その場で恭しく頭を垂れている。仲間たちも、皇帝の突拍子もない提案に、困惑の表情を浮かべていた。
玉座の間には、奇妙な沈黙が流れた。皇帝の荒い呼吸の音と、どこかで燻る残り火がぱちぱちと爆ぜる音だけが、やけに大きく響く。
数分が、永遠のように感じられた。
やがて、玉座の間の巨大な、樫の木で作られた扉が、重々しい音を立てて、再びゆっくりと開かれた。
そして、そこに、現れたのは。
一人の、少女だった。
その少女が、姿を現した、瞬間。玉座の間の空気が、ふっ、と変わった。
それまで、皇帝の情けない姿によって支配されていた、滑稽で、どこか生暖かい、血と恐怖と失禁の匂いが混じり合った空気が、一瞬で凍りついたのだ。まるで、真夏の世界に、突然、絶対零度の冬が訪れたかのように。全ての音が吸い込まれ、全ての熱が奪われる。そんな、錯覚。
少女は、年の頃、俺と同じくらいだろうか。十二、三歳、といったところか。
その、腰まで届く、長く、美しい髪は、夜の闇そのものを溶かし込んで、丁寧に紡ぎ上げたかのような、濡れたような光沢を放つ漆黒。一切の光を反射せず、むしろ周囲の光を吸い込んでいるかのようにさえ見える。
その肌は、まるで人の体温というものを感じさせないほど、透き通るように白い。最高級の磁器のように滑らかで、それでいて、どこか儚げな美しさを湛えている。だが、それは病的な白さではなく、生まれながらにして、この世の穢れを一切知らないかのような、神聖なまでの白さだった。
彼女が身に纏っているのは、黒を基調とした、シンプルながらも極めて高価な素材で作られたことが一目でわかるドレス。そのデザインは、少女の華奢な体つきを完璧に引き立てており、過度な装飾はない。しかし、その布地自体が、まるで星屑を練り込んだかのように、微かな光を放っていた。
そして、何よりも、その、瞳。
大きく、切れ長の、その瞳は、磨き上げられた最高品質のアメジストのように、妖しい紫色の光を宿していた。その瞳には、一切の感情が浮かんでいない。喜びも、悲しみも、怒りも、そして、今この惨状を目の当たりにしているはずの、恐怖や驚きさえも。
ただ、ひたすらに、冷たく、静かで、そして、この世の全てを、その始まりから終わりまでを見透かしているかのような、深い、深い、底知れない知性が、そこにはあった。それは、少女の持つべき瞳の色ではなかった。幾千年の時を生きる、古代の竜か、あるいは神々のそれに近い、絶対的なまでの静謐。
彼女は、まるで、氷の彫刻家が、己の魂と心血の全てを注ぎ込んで作り上げた、最高傑作の人形のようだった。
完璧なまでに、美しく、そして、完璧なまでに、冷たい。
彼女こそが、神聖ガルガン帝国、第一皇女、ソフィア・フォン・ガルガン、その人だった。
ソフィアは、その冷たい紫色の目で、玉座の間の惨状を、すっ、と一瞥した。血溜まり、転がる武具、倒れ伏す騎士たち、そして、床に這いつくばって、まだぶるぶると震えている、実の父親である皇帝の姿。その全てを、まるで道端の石ころでも見るかのような、何の感慨も浮かばない瞳で眺めた。いや、一瞬だけ。ほんの一瞬だけ、皇帝に向けられたその瞳の奥に、針の先ほどの、冷たい、冷たい侮蔑の色が浮かんだのを、俺は見逃さなかった。
そして、彼女は、音もなく、俺たちの前に歩み寄ってきた。
その動きは、まるで水の上を滑るかのようだった。ドレスの裾は床を擦ることもなく、足音一つ立てない。重力という物理法則から、彼女だけが解き放たれているかのような、幻想的な歩み。
彼女は、俺の前に立つと、その完璧な人形のような顔に、完璧な貴族の笑みを、貼り付けた。それは、教科書に載っているような、寸分の狂いもない、完璧な微笑み。だが、そこには、心が、魂が、一切込められていない。ただの、筋肉の動き。
そして、優雅に、ドレスのスカートの裾を両手で持ち、深く、深く、一礼した。カーテシーと呼ばれる、貴族女性の挨拶。その一連の所作は、亡国の王女であるアリシアのそれと、同じくらいに完璧だったが、その本質は、全く、異なっていた。
アリシアの挨拶には、彼女の育ちの良さと、相手への敬意、そして何よりも、温かみと真心があった。それは、人と人との繋がりを大切にする、心からの所作だった。
だが、このソフィアという皇女のそれには、心というものが、一切感じられなかった。ただ、ひたすらに、完璧な「型」を、演じているだけ。まるで、プログラムされた通りに動く、精巧な自動人形(オートマタ)のように。
「この度は、父が、大変、失礼を、いたしました」
その声は、まるで澄み切った氷の鈴を、静かに転がしたかのように、美しく、そして、どこまでも冷たかった。一音一音が、完璧な響きを持っている。しかし、その声にもまた、感情の抑揚というものが、全く存在しなかった。
「この、ソフィア・フォン・ガルガン、誠心誠意、貴方様に、お仕えいたしますわ」
その、完璧な挨拶。
その、完璧な笑顔。
その、完璧な声。
あまりの完璧さに、俺の後ろの仲間たちは、息を呑んでいる。この異常な状況下で、皇女としての威厳と気品を一切失わない彼女の姿に、圧倒されているのだ。
だが、俺は、見逃さなかった。
彼女の、その、どこまでも冷たい、紫色の瞳の、奥の、奥。
そこに、一瞬だけ、宿った光を。
それは、俺の魂の、奥底までをも探るような、鋭い、探るような、まるで獲物を値踏みする肉食獣のような、獰猛な光だった。
そして。
彼女が、ゆっくりと頭を上げた、その、瞬間。
事件は、起きた。
彼女は、周りの誰にも、皇帝にさえも気づかれないように、ほんの少しだけ、本当にごく僅か、俺にその体を近づけた。それは、他者から見れば、挨拶を終えて立ち上がる際の、ごく自然な動きの範囲にしか見えなかっただろう。冷たく、甘い花の香りが、俺の鼻腔を微かに掠めた。
そして。
俺の、耳元で、囁いたのだ。
俺にしか、聞こえない、ごく、ごく、小さな声で。
しかし、俺の全身の血が、一瞬で逆流するほど、衝撃的な、言葉を。
「―――アンタ、もしかして」
その、言葉の、響き。
その、イントネーション。
その、発音。
それは、この世界の、どの国の言葉でも、なかった。
俺が、前世で、この世界に生まれ落ちる前の、十七年間、使い続けてきた、あの、懐かしい、言葉。母国語。
日本語、に、酷似した、響きだった。
俺の心臓が、どくん、と、大きく、あり得ないほど強く、跳ね上がった。
なぜ?どうして?この世界で、この言葉を?
俺の思考が、混乱の極致に達するよりも早く、彼女は、続けた。
その、美しい、しかし、どこまでも冷たい、人形のような唇から、紡ぎ出された、最後の、一言が。
俺の、思考を、完全に、停止させた。
「―――『転生者』?」
しーん。
世界から、音が、消えた。
皇帝の命乞いも、仲間たちの息遣いも、宰相の卑屈な気配も、燃えさしの爆ぜる音も、何もかもが、遠い世界の出来事のように、掻き消えていった。
俺の、頭の中が、真っ白に、なった。
転生者。
その言葉の意味を、この世界で、理解できるのは、ただ一人。
この俺だけ、のはずだった。
それは、俺がこの世界に生を受けてから、誰にも、最も信頼する仲間たちにさえ、決して明かしたことのない、俺だけの、最大の秘密。俺という存在の根幹を成す、絶対的な孤独の証明。
目の前の、この、氷の人形のような、美しい、皇女が、今、確かに、言ったのだ。
俺の、魂の核心を、いとも容易く、暴き立てる、その一言を。
冷や汗が、滝のように、背中を伝う。指先が、急速に冷たくなっていくのを感じる。
目の前の、この、少女は、一体、何者なんだ。
なぜ、俺の秘密を、知っている。
まさか、彼女も?
俺と、同じ?
無数の、疑問と、混乱が、巨大な嵐のように、俺の頭の中を、猛烈な勢いで駆け巡る。思考がまとまらない。言葉が出てこない。ただ、目の前の現実が、信じられない。
俺は、ただ、呆然と、目の前のミステリアスな皇女の、その全てを見透かすかのような、紫色の瞳を、見つめ返すことしか、できなかった。
彼女は、囁きを終えると、何事もなかったかのように、すっと身を引いた。その顔には、相変わらず、あの完璧な、心のこもっていない微笑みが貼り付けられている。だが、その紫色の瞳の奥で、確かな amused (面白がっている) の色が、妖しく揺らめいているのを、俺は確かに見た。
この、出会いが、偶然ではないことだけは、確かだった。
ゴトン、と。重く、錆びついた、巨大な歯車が、軋みながら回り始めるような、そんな幻聴が聞こえた。
俺の、運命の歯車が、今、再び、大きく、そして、とんでもない方向へと、回り始めた、その、音を。
俺は、確かに、聞いた。
この、美しく、そして、底知れない、謎を秘めた皇女との、出会い。
それが、俺の冒険者としての物語を、新たな、そして、さらに、予測不能な、混沌のステージへと、引き上げていく、始まりの、合図だったのだ。
俺は、まだ、知らない。
この出会いの、本当の意味を。
この少女が、俺の旅に、どれほどの波乱と、混沌と、そして、新たな可能性をもたらしてくれるのかを。
ただ、一つだけ、確かなことがある。
俺が心の底から望んでいた、平和で、穏やかで、面倒ごとのない、スローライフへの道は、どうやら、完全に、そして、永遠に、閉ざされてしまった、らしい。
俺は、目の前の、美しい、悪魔のような皇女を、見つめ、心の底から、そう、確信するしか、なかったのである。
かつては神聖ガルガン帝国の威光を内外に示すため、贅の限りを尽くして建造されたはずのその広間は、今や見るも無残な姿を晒している。磨き上げられ、雲の上を歩くようだと謳われた純白の大理石の床には、無数の亀裂が走り、所々が抉れて黒い土台を覗かせていた。天井から吊るされた、千の水晶が輝くと言われた巨大なシャンデリアは見る影もなく、その残骸が硝子の破片となって床に散らばり、今なお燻る魔力の残滓を受けて、不気味な光を明滅させている。
壁を飾っていた歴代皇帝の肖像画は、いずれも見るも無残に引き裂かれ、あるいは燃え滓となり、その偉大なる先祖たちは、今の皇帝の醜態を見ずに済んだことを幸運に思うべきだろう。玉座へと続く真紅の絨毯は、何人もの近衛騎士たちの血を吸い込んで、もはや元の色も判然としないほどにどす黒く変色していた。
そして、その惨状の中心。本来ならば、絶対的な権威と威厳の象徴であるはずの、黄金と宝石で飾られた玉座。その遥か手前、俺の、長旅で汚れに汚れた革のブーツの、そのつま先に。
一人の男が、額をこすりつけていた。
皇帝ルドルフ・フォン・ガルガン。
この広大な、神聖ガルガン帝国に絶対君主として君臨し、その一言で人の命すら容易く奪うことができると、少なくとも昨日までは言われていた男。その男が今、俺のブーツに付着した、どこの国のものとも知れぬ泥に、その尊いとされる額を押し付け、涙と、鼻水と、恐怖から滲み出る脂汗でぐしゃぐしゃになった顔で、ただひたすらに、命乞いを続けている。
「ひぃ、ひぃぃ……!お、お許しを……お許しください……!こ、このルドルフ、命ばかりは……!な、何でもいたしますゆえ……!」
その声は震え、途切れ、皇帝としての威厳など微塵も感じさせない。ただただ、死の淵に怯える、哀れな生き物の喘ぎでしかなかった。少し前まで、その同じ口から、どれほど傲慢で、どれほど残酷な言葉が吐き出されていたことか。
「余は神に選ばれし皇帝である!貴様ら如き賤民が、この余に逆らうなど、万死に値する!」
そう叫びながら、その手に握られた魔剣が、どれほどの魔力を放っていたか。その瞳が、どれほどの侮蔑と殺意に満ちていたか。その記憶はまだ新しい。だが、その魔剣は今や、へし折られて遥か彼方に転がり、彼の魔力は枯渇し、その瞳には、ただただ純粋な、動物的な恐怖の色だけが浮かんでいた。
この、あまりにもシュールで、あまりにも情けない光景。
俺の後ろに控える、我が愉快な仲間たちは、もはや声も出ないようだった。
「…………」
サラは、あんぐりと開けた口が塞がらない。彼女の大きな翠色の瞳が、信じられないものを見るかのように、皇帝と俺のブーツの間を何度も往復している。普段は元気で快活な彼女だが、目の前で繰り広げられる、絶対権力者の完全なる崩壊という現実は、彼女の想像を遥かに超えていたのだろう。その手は、まだ戦闘の余韻からか、愛用の杖を固く握りしめているが、その指先は微かに震えていた。
「おお……なんということだ……」
隣では、ドルセンがその場にへたり込んでいる。屈強なドワーフの戦士である彼は、その頑健な体躯に似合わず、腰を抜かしてしまっていた。彼の口から漏れるのは、感嘆とも呆れともつかない、途方もない溜息だけだ。数多の戦場を駆け抜け、竜の咆哮にも怯まなかった歴戦の勇士が、今、人類の頂点に立つ男の、そのあまりの無様さに、精神的な許容量を超えてしまったらしい。彼の目は、まるで歴史の教科書に載るべき瞬間を目の当たりにした歴史家のように、爛々と輝きながらも、その体は言うことを聞かないようだった。
「神よ。これが、俗世の、権力者の、なれの果てなのですな」
そんな中、ハガンだけはどこか哲学的な表情で、静かに呟いていた。白銀の長髪を揺らし、その深い青色の瞳は、皇帝ではなく、もっと遠い、何かを見つめているかのようだ。エルフの賢者である彼は、人の世の栄枯盛衰を幾度となく見てきたのだろう。その呟きには、憐憫でもなく、嘲笑でもなく、ただ、世界の理を確認するかのような、静かな諦観が滲んでいた。
そして、セリアとアリシアは、あまりの衝撃的な光景に顔を青ざめさせ、お互いの手を固く、固く握りしめている。セリアは、神殿で育った心優しい神官だ。血や争いごと自体に慣れていない彼女にとって、この玉座の間の惨状と、皇帝の醜態は、あまりにも刺激が強すぎた。一方のアリシアは、亡国の王女である。彼女は、権力というものの恐ろしさと、その儚さを、誰よりも身に染みて知っているはずだ。だが、それでもなお、一国を支配した皇帝が、ここまで無様に、人間としての尊厳すら投げ捨てて命乞いをする姿は、彼女の理解を超えていたのだろう。彼女は、かつての自らの父の、誇り高い最期を思い出しているのかもしれない。握りしめられた彼女たちの手は、互いの恐怖を分かち合い、支え合っているかのようだった。
(はあ。いつまで、やってんだ、こいつ)
仲間たちの様々な反応を背中で感じながら、俺はもはや怒りを通り越し、純粋な呆れの感情で、その哀れな豚のパフォーマンスを見下ろしていた。怒る、という感情は、相手を自分と同じ土俵にいる存在だと認めているからこそ湧き上がるものだ。だが、目の前のこの男は、もはやその価値すらない。ただただ、目障りで、耳障りで、そして、面倒くさい。
俺は、こびりついた泥を振り払うように、軽くブーツを動かした。それだけで、皇帝は「ひっ!」と短い悲鳴を上げ、ビクリと体を震わせる。
もう、いいだろう。これ以上の茶番は時間の無駄だ。俺たちの目的は、この男に土下座させることではなかったはずだ。
「もういい」俺は短く、そして冷たく告げた。「顔を上げろ」
「は、はいぃっ!」
皇帝は弾かれたように顔を上げた。その顔は、やはり見られたものではない。涙と鼻水と汗で、まるで溶けた蝋人形のようだ。しかし、その瞳には、わずかな、本当にわずかな希望の光が灯っていた。俺が、彼を殺さないかもしれない、という希望だ。
「あんたの国にも、あんたの地位にも、ましてやあんたの命にも、俺は興味がない」
「ほ、本当でございますか!?」
「ああ。ただ、俺たちは疲れている。この国に来るまで、色々とあってな。だから、要求は一つだ」
俺は仲間たちを一度振り返り、そして再び皇帝に向き直った。
「ですから、国も、姫も、いらないんで。とりあえず、仲間を、ちゃんとした部屋で、休ませてやってください。あと、美味い飯と、ふかふかのベッドも、お願いします。話は、それからです」
我ながら、実に現実的で、実にささやかな要求だった。帝国の存亡を左右するような駆け引きでもなければ、莫大な金品を要求するわけでもない。ただ、疲れた旅人が、一夜の宿と温かい食事を求める。それだけのことだ。
俺の言葉を聞いた瞬間、皇帝は、はっと息を呑み、その表情が劇的に変化した。絶望の淵から、一気に天国へと引き上げられたかのような、そんな顔。そして、まるでこの世の救世主にでも出会ったかのような、恍惚とした表情で、彼は叫んだ。
「は、はい!はい!もちろんでございます!も、もちろんでございますとも!すぐに!すぐに最高の部屋と、最高の食事をご用意させます!シェフには、この城で、一番、腕利きの者を!ベッドは、天上の雲よりも、柔らかいものを!さあ、宰相!何を、しておる!何を멍하니 있는 것이냐!早く、この御方々を、賓客として、おもてなしするのだ!」
その声は裏返り、必死さが滲み出ていたが、先程までの命乞いの声とは違い、明確な意志が宿っていた。
「は、はひっ!」
皇帝の隣で、同じように土下座をしていた宰相ヴァルハルトが、カエルの潰れたような悲鳴を上げ、慌てて立ち上がった。彼は、帝国で二番目の権力者であり、その狡猾さと冷徹さで「蛇」とあだ名される男だ。俺たちがこの城に乗り込んでくる前、彼は実に尊大で、実に不愉快な態度で俺たちを見下していた。その蛇のような瞳には、俺たちをゴミムシ同然と見なす、冷たい侮蔑の色が浮かんでいたのを、俺ははっきりと覚えている。
だが、今の彼の顔には、もはやあの傲慢な蛇のような狡猾さは微塵も残ってはいなかった。ただ、ひたすらに、俺に対する純粋な、根源的な恐怖の色だけが、その顔に深く刻み付けられていた。その腰は卑屈なまでに折れ曲がり、その目は俺と決して合わそうとしない。
俺たちは、その腰の低い(すぎる)宰相に案内されるまま、この血生臭い玉座の間を後にしようとした。もうこれ以上、この哀れな皇帝の顔も見たくなかった。
その、時だった。
「お、お待ちください!」
背後から、皇帝の必死の形相が俺たちを呼び止めた。
「なんだ、まだ、何かあるのか」
俺はうんざりしたように、ゆっくりと振り返る。早く暖かい風呂に入って、ゆっくりと眠りたい。それだけなのに、まだ何か面倒ごとを押し付けようというのか。俺の眉間には、自然と深い皺が刻まれた。その表情に、皇帝は再びビクリと体を震わせたが、それでも何かを思いついたように、ぱあっと、その豚のような顔を輝かせた。
そして、とんでもないことを、言い出したのだ。
「そ、そうだ!我が帝国には、国宝級の宝が、一つ、ございます!どうか、それも受け取っていただきたい!こ、これは取引ではございません!我らが、心からの、謝罪と、そして、忠誠の、証として!」
(また、面倒くさいことに……)
俺は嫌な予感しか、しなかった。国宝級の宝。それが金銀財宝であれ、伝説の武具であれ、今の俺たちには必要のないものだ。そんなものを受け取ってしまえば、余計な貸し借りが生まれ、この国との関係が切れないものになってしまう。それは、俺が最も避けたい事態だった。
俺が、「いらん」と、その申し出を断るよりも、早く。
皇帝は、近くにいた、数少ない無事な近衛騎士に向かって、割れ鐘のような声で叫んだ。
「ソフィアを!我が娘、ソフィアを、ここに、お連れしろ!急げ!」
「は、はっ!」
命令を受けた近衛騎士は、何が何だか分からないという顔をしながらも、皇帝の剣幕に押され、慌てて玉座の間を飛び出していった。
(ソフィア?)
俺は、その名前に首を傾げた。皇帝の娘、ということは皇女か。宝として差し出すということは、つまりは人質、ということか?それとも政略結婚の道具か?どちらにしても、ごめんだ。女一人増えたところで、俺たちの旅の足手まといになるだけだ。それに、アリシアという本物の王女が既にいるのだ。これ以上、高貴な身分の人間を抱え込むのは、厄介ごとを自ら呼び込むようなものだ。
(いらねえよ、そんなもん)
俺の、その実に後ろ向きな思考を、よそに。事態は、刻一刻と、俺の望まない、最悪の方向へと、転がっていった。宰相ヴァルハルトは、皇帝の意図を察したのか、俺たちの案内を中断し、その場で恭しく頭を垂れている。仲間たちも、皇帝の突拍子もない提案に、困惑の表情を浮かべていた。
玉座の間には、奇妙な沈黙が流れた。皇帝の荒い呼吸の音と、どこかで燻る残り火がぱちぱちと爆ぜる音だけが、やけに大きく響く。
数分が、永遠のように感じられた。
やがて、玉座の間の巨大な、樫の木で作られた扉が、重々しい音を立てて、再びゆっくりと開かれた。
そして、そこに、現れたのは。
一人の、少女だった。
その少女が、姿を現した、瞬間。玉座の間の空気が、ふっ、と変わった。
それまで、皇帝の情けない姿によって支配されていた、滑稽で、どこか生暖かい、血と恐怖と失禁の匂いが混じり合った空気が、一瞬で凍りついたのだ。まるで、真夏の世界に、突然、絶対零度の冬が訪れたかのように。全ての音が吸い込まれ、全ての熱が奪われる。そんな、錯覚。
少女は、年の頃、俺と同じくらいだろうか。十二、三歳、といったところか。
その、腰まで届く、長く、美しい髪は、夜の闇そのものを溶かし込んで、丁寧に紡ぎ上げたかのような、濡れたような光沢を放つ漆黒。一切の光を反射せず、むしろ周囲の光を吸い込んでいるかのようにさえ見える。
その肌は、まるで人の体温というものを感じさせないほど、透き通るように白い。最高級の磁器のように滑らかで、それでいて、どこか儚げな美しさを湛えている。だが、それは病的な白さではなく、生まれながらにして、この世の穢れを一切知らないかのような、神聖なまでの白さだった。
彼女が身に纏っているのは、黒を基調とした、シンプルながらも極めて高価な素材で作られたことが一目でわかるドレス。そのデザインは、少女の華奢な体つきを完璧に引き立てており、過度な装飾はない。しかし、その布地自体が、まるで星屑を練り込んだかのように、微かな光を放っていた。
そして、何よりも、その、瞳。
大きく、切れ長の、その瞳は、磨き上げられた最高品質のアメジストのように、妖しい紫色の光を宿していた。その瞳には、一切の感情が浮かんでいない。喜びも、悲しみも、怒りも、そして、今この惨状を目の当たりにしているはずの、恐怖や驚きさえも。
ただ、ひたすらに、冷たく、静かで、そして、この世の全てを、その始まりから終わりまでを見透かしているかのような、深い、深い、底知れない知性が、そこにはあった。それは、少女の持つべき瞳の色ではなかった。幾千年の時を生きる、古代の竜か、あるいは神々のそれに近い、絶対的なまでの静謐。
彼女は、まるで、氷の彫刻家が、己の魂と心血の全てを注ぎ込んで作り上げた、最高傑作の人形のようだった。
完璧なまでに、美しく、そして、完璧なまでに、冷たい。
彼女こそが、神聖ガルガン帝国、第一皇女、ソフィア・フォン・ガルガン、その人だった。
ソフィアは、その冷たい紫色の目で、玉座の間の惨状を、すっ、と一瞥した。血溜まり、転がる武具、倒れ伏す騎士たち、そして、床に這いつくばって、まだぶるぶると震えている、実の父親である皇帝の姿。その全てを、まるで道端の石ころでも見るかのような、何の感慨も浮かばない瞳で眺めた。いや、一瞬だけ。ほんの一瞬だけ、皇帝に向けられたその瞳の奥に、針の先ほどの、冷たい、冷たい侮蔑の色が浮かんだのを、俺は見逃さなかった。
そして、彼女は、音もなく、俺たちの前に歩み寄ってきた。
その動きは、まるで水の上を滑るかのようだった。ドレスの裾は床を擦ることもなく、足音一つ立てない。重力という物理法則から、彼女だけが解き放たれているかのような、幻想的な歩み。
彼女は、俺の前に立つと、その完璧な人形のような顔に、完璧な貴族の笑みを、貼り付けた。それは、教科書に載っているような、寸分の狂いもない、完璧な微笑み。だが、そこには、心が、魂が、一切込められていない。ただの、筋肉の動き。
そして、優雅に、ドレスのスカートの裾を両手で持ち、深く、深く、一礼した。カーテシーと呼ばれる、貴族女性の挨拶。その一連の所作は、亡国の王女であるアリシアのそれと、同じくらいに完璧だったが、その本質は、全く、異なっていた。
アリシアの挨拶には、彼女の育ちの良さと、相手への敬意、そして何よりも、温かみと真心があった。それは、人と人との繋がりを大切にする、心からの所作だった。
だが、このソフィアという皇女のそれには、心というものが、一切感じられなかった。ただ、ひたすらに、完璧な「型」を、演じているだけ。まるで、プログラムされた通りに動く、精巧な自動人形(オートマタ)のように。
「この度は、父が、大変、失礼を、いたしました」
その声は、まるで澄み切った氷の鈴を、静かに転がしたかのように、美しく、そして、どこまでも冷たかった。一音一音が、完璧な響きを持っている。しかし、その声にもまた、感情の抑揚というものが、全く存在しなかった。
「この、ソフィア・フォン・ガルガン、誠心誠意、貴方様に、お仕えいたしますわ」
その、完璧な挨拶。
その、完璧な笑顔。
その、完璧な声。
あまりの完璧さに、俺の後ろの仲間たちは、息を呑んでいる。この異常な状況下で、皇女としての威厳と気品を一切失わない彼女の姿に、圧倒されているのだ。
だが、俺は、見逃さなかった。
彼女の、その、どこまでも冷たい、紫色の瞳の、奥の、奥。
そこに、一瞬だけ、宿った光を。
それは、俺の魂の、奥底までをも探るような、鋭い、探るような、まるで獲物を値踏みする肉食獣のような、獰猛な光だった。
そして。
彼女が、ゆっくりと頭を上げた、その、瞬間。
事件は、起きた。
彼女は、周りの誰にも、皇帝にさえも気づかれないように、ほんの少しだけ、本当にごく僅か、俺にその体を近づけた。それは、他者から見れば、挨拶を終えて立ち上がる際の、ごく自然な動きの範囲にしか見えなかっただろう。冷たく、甘い花の香りが、俺の鼻腔を微かに掠めた。
そして。
俺の、耳元で、囁いたのだ。
俺にしか、聞こえない、ごく、ごく、小さな声で。
しかし、俺の全身の血が、一瞬で逆流するほど、衝撃的な、言葉を。
「―――アンタ、もしかして」
その、言葉の、響き。
その、イントネーション。
その、発音。
それは、この世界の、どの国の言葉でも、なかった。
俺が、前世で、この世界に生まれ落ちる前の、十七年間、使い続けてきた、あの、懐かしい、言葉。母国語。
日本語、に、酷似した、響きだった。
俺の心臓が、どくん、と、大きく、あり得ないほど強く、跳ね上がった。
なぜ?どうして?この世界で、この言葉を?
俺の思考が、混乱の極致に達するよりも早く、彼女は、続けた。
その、美しい、しかし、どこまでも冷たい、人形のような唇から、紡ぎ出された、最後の、一言が。
俺の、思考を、完全に、停止させた。
「―――『転生者』?」
しーん。
世界から、音が、消えた。
皇帝の命乞いも、仲間たちの息遣いも、宰相の卑屈な気配も、燃えさしの爆ぜる音も、何もかもが、遠い世界の出来事のように、掻き消えていった。
俺の、頭の中が、真っ白に、なった。
転生者。
その言葉の意味を、この世界で、理解できるのは、ただ一人。
この俺だけ、のはずだった。
それは、俺がこの世界に生を受けてから、誰にも、最も信頼する仲間たちにさえ、決して明かしたことのない、俺だけの、最大の秘密。俺という存在の根幹を成す、絶対的な孤独の証明。
目の前の、この、氷の人形のような、美しい、皇女が、今、確かに、言ったのだ。
俺の、魂の核心を、いとも容易く、暴き立てる、その一言を。
冷や汗が、滝のように、背中を伝う。指先が、急速に冷たくなっていくのを感じる。
目の前の、この、少女は、一体、何者なんだ。
なぜ、俺の秘密を、知っている。
まさか、彼女も?
俺と、同じ?
無数の、疑問と、混乱が、巨大な嵐のように、俺の頭の中を、猛烈な勢いで駆け巡る。思考がまとまらない。言葉が出てこない。ただ、目の前の現実が、信じられない。
俺は、ただ、呆然と、目の前のミステリアスな皇女の、その全てを見透かすかのような、紫色の瞳を、見つめ返すことしか、できなかった。
彼女は、囁きを終えると、何事もなかったかのように、すっと身を引いた。その顔には、相変わらず、あの完璧な、心のこもっていない微笑みが貼り付けられている。だが、その紫色の瞳の奥で、確かな amused (面白がっている) の色が、妖しく揺らめいているのを、俺は確かに見た。
この、出会いが、偶然ではないことだけは、確かだった。
ゴトン、と。重く、錆びついた、巨大な歯車が、軋みながら回り始めるような、そんな幻聴が聞こえた。
俺の、運命の歯車が、今、再び、大きく、そして、とんでもない方向へと、回り始めた、その、音を。
俺は、確かに、聞いた。
この、美しく、そして、底知れない、謎を秘めた皇女との、出会い。
それが、俺の冒険者としての物語を、新たな、そして、さらに、予測不能な、混沌のステージへと、引き上げていく、始まりの、合図だったのだ。
俺は、まだ、知らない。
この出会いの、本当の意味を。
この少女が、俺の旅に、どれほどの波乱と、混沌と、そして、新たな可能性をもたらしてくれるのかを。
ただ、一つだけ、確かなことがある。
俺が心の底から望んでいた、平和で、穏やかで、面倒ごとのない、スローライフへの道は、どうやら、完全に、そして、永遠に、閉ざされてしまった、らしい。
俺は、目の前の、美しい、悪魔のような皇女を、見つめ、心の底から、そう、確信するしか、なかったのである。
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