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第36話 キリト家次男、キリアンの決心
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◆静かな決意と、青い髪のひと◆
――キリアン=キリトの回想
人はよく、「時間が解決してくれる」なんて言うけれど、実際はそうでもないと思う。
特に――心に刻まれた傷というのは、静かに、けれど確実に痛みを残すものだ。
あれは、もう三年も前になる。
弟のカールが、卒業式の日に婚約を破棄された。
ヴァレンタイン侯爵家の令嬢、リリスによって。
あの一件は、王都でも相当な騒ぎになった。
“平民上がりの剣士が、貴族の令嬢に捨てられた”という話は、噂好きの連中の大好物だったらしい。
そして、その余波は僕にも及んだ。
僕は当時、同じく婚約者がいた。
お相手は中級貴族の家の娘で、家同士の繋がりもあり、穏やかに進んでいた話だった。
でも――その家が突然、「縁談の見直し」を申し入れてきた。
理由は明言されなかったが、分かっていた。
「キリト家は、もはや安泰ではない」という空気が、あの瞬間、王都に広がったのだ。
あのときの悔しさは、今も忘れられない。
だが――僕はあえて、それに抗わなかった。
無理に縁談を戻しても、信頼は戻らない。ならば、もういい。
僕は仕事に打ち込んだ。
王宮の法務局に配属されてから、上司の期待以上に働いた。
与えられた仕事を正確にこなし、法令の改訂や査察任務にも進んで手を挙げた。
「キリト家の次男」としてでなく、「キリアン=キリト個人」として、この職場に居場所を作りたかった。
そして、そんな日々の中で――彼女と出会った。
イリーネ=ブルーナ嬢。
同じ部署の同僚。
最初は目立たない印象だったけれど、驚くほど丁寧に仕事をこなし、難しい案件でも臆せず意見を出す彼女に、自然と目が向くようになった。
仕事が終わったあと、図書室で同じ資料を探していたことがきっかけで、言葉を交わすようになった。
最初はたわいのない雑談だったけれど、気づけば彼女と話す時間が、僕の日常の一部になっていた。
ある日、彼女が言った。
「キリアンさんって、どこか無理して笑ってますよね」
思わず、言葉を詰まらせた。
誰にも言われたことのない、その一言に、僕の仮面は少しだけ揺らいだ。
それからだった。
僕は彼女に、少しずつ本音を話すようになった。
家のこと。弟のこと。失った婚約のこと。
彼女は驚くでも、哀れむでもなく、ただ黙って聞いてくれた。
――そしてある雨の日。
局内で濡れた書類を片づけていたとき、彼女がポツリと呟いた。
「……あなたは、もう十分がんばってると思いますよ。だから、もう誰かの期待ばかりに応えなくてもいいんじゃないですか?」
その言葉に、胸の奥が熱くなった。
誰かに、そんなふうに言ってもらったのは……初めてだったかもしれない。
それからだ。
僕たちは少しずつ距離を縮めて、やがて交際を始めた。
派手なことはなかったけれど、彼女との時間は、穏やかで、安心できるものだった。
時折、父にも報告をした。
父は黙って頷いたあと、ぽつりと「お前が幸せなら、それでいい」とだけ言った。
そして――今年の春。
僕は決意した。
「ブルーナ家に婿入りしよう」と。
貴族社会では、婿入りは決して軽い決断ではない。
けれど、彼女と生きる未来を考えたとき、自分の名前や家柄よりも、大切なことがあると気づいたのだ。
彼女が、僕の人生にとって、何よりも温かい場所になっていたから。
ただ……その矢先だった。
アベル=ダンガー子爵が脱獄し、何者かの襲撃を受け、僕は病院のベッドにいた。
目を覚ましたとき、一番に見えたのは――あの青い髪。
「……イリーネ……」
手を取ると、彼女の目に、涙がにじんでいた。
「……怖かったです。本当に、もう……」
彼女は言葉を詰まらせ、でも僕はそっとその手を握った。
「大丈夫。……僕はもう、離れたりしないから」
◇
こうして、僕は今、病院の一室で、静かに未来を考えている。
キリト家の一員として、これまで生きてきた。
でも――これからは、イリーネとともに、ブルーナ家の一員として、新しい人生を歩む。
カールが、自らの道を剣で切り開いたように。
僕もまた、自分の道を、誠実に歩いていこう。
「……ありがとう、イリーネ」
彼女がそばにいるだけで、心はこんなにも、温かくなれる。
だから、これからの未来が、どれだけ波風立とうと――
僕は、彼女と共に、歩いていく。
◆揺らぐ安息、遠征の報せ◆
――王立病院・キリアンの病室にて
昼下がりの病室には、柔らかな陽射しが差し込んでいた。
私は、ベッドに身を起こしながら、イリーネの持ってきてくれた文献を読んでいた。
まだ傷は痛むけれど、彼女の隣にいると、不思議と心が落ち着く。
「この法改正、やっぱり前例がなかったんですね……」
「ええ。だからキリアンさんの意見が参考になるって、局の人たちも言ってましたよ」
彼女は穏やかに笑って、薬草茶の湯飲みを差し出してくれる。
静かで、平和な時間――そう思っていた、そのときだった。
――コン、コン。
控えめなノック音に、私は顔を上げた。
扉の向こうから、甲冑の擦れる音が微かに響く。
「……誰だろう?」
イリーネが小首をかしげながら扉を開けると、現れたのは直属騎士団の一人だった。
赤い紋章入りのマントと、堅牢な銀の胸当て。
ゼノ=バルジェ団長直属の、精鋭騎士の一人に間違いない。
「キリアン=キリト様……失礼します。王国軍より、緊急の伝令をお持ちしました」
「……王国軍?」
私は眉をひそめた。
直属騎士団の者が、わざわざ病室に直接報せに来るというのは、ただ事ではない。
「……どうかされたんですか」
イリーネの問いかけに、騎士は無言で私の手元に巻物を差し出した。
それは、軍の封蝋がされた正式な報告書だった。
震える手で封を解き、中を読んでいくうちに、血の気が引いていくのがわかった。
「……嘘だろ……ルジェン兄さんが……!」
書かれていたのは、次のような内容だった。
《王国軍 第三遠征隊 隊長 ルジェン=キリト中尉、南方森域の斥候任務中に、正体不明の襲撃者と交戦。複数の部下が負傷、中尉は一時行方不明となるも、捜索班により負傷状態で救出。
現在、遠征地の軍医施設にて治療中。
襲撃者は黒衣をまとい、強力な呪術を用いた形跡あり。
部下の証言により、「アベル=ダンガー子爵に酷似した人物」である可能性が高い。
なお、本件は直属騎士団および王国情報局にて継続調査中である。》
「……そんな……兄さんまで……」
私は力なく呟いた。
弟である私が襲われて、次は兄。
キリト家を狙い撃ちにするかのようなこの動きに、戦慄が走った。
「団長より伝言があります」
騎士が口を開いた。
「“奴は、キリト家を揺さぶることで、カール=キリトを引きずり出そうとしている。だが、それに乗るな。今は護りを優先せよ”――と」
「……兄さんの状態は? 命に別状はないんですね?」
「はい。ただし、深手を負っておられます。現地軍医団の報告によれば、意識は回復しつつありますが、当面は移動不可とのことです」
「……ありがとうございます。伝えてくださって、感謝します」
騎士は敬礼し、静かに部屋を後にした。
◇
扉が閉まると、部屋は一転して静寂に包まれた。
私はベッドに体を沈めながら、眉間を押さえた。
(これは……ただの偶然じゃない)
ダンガー子爵は、意図的に私たちを狙っている。
カールが王都に戻る前に、家族を傷つけ、心を削る――そのために。
だが、そのやり方は卑劣だ。
そして、必ず報いを受ける。
「……ルジェン兄さんも、助かってよかった……」
呟く私の手を、イリーネがそっと握ってくれた。
「大丈夫です。キリアンさんのお兄様も、きっと大丈夫。だって、あなたたち兄弟は、同じ強さを持ってるから」
「……イリーネ」
彼女の手の温もりに、私は少しだけ力を取り戻す。
この人がいてくれて、よかったと、心から思った。
「……でも、もう家族をこれ以上、巻き込みたくない」
「じゃあ、どうしますか?」
私はしばし考え、そして一つの決意を口にした。
「ゼノ団長に、今すぐ手紙を書いてください。ダンガーの行動を追う特別班に、僕を加えてもらうようにって。まだ動けないけれど、情報整理なら、僕にもできる」
イリーネは目を見開き、そして静かにうなずいた。
「わかりました。すぐに届けます」
彼女が机に向かう背中を見ながら、私は、遠くにいる兄の無事を、もう一度だけ強く祈った。
兄さん――どうか、生きて。
そして、また並んで笑える日が来ますように。
――キリアン=キリトの回想
人はよく、「時間が解決してくれる」なんて言うけれど、実際はそうでもないと思う。
特に――心に刻まれた傷というのは、静かに、けれど確実に痛みを残すものだ。
あれは、もう三年も前になる。
弟のカールが、卒業式の日に婚約を破棄された。
ヴァレンタイン侯爵家の令嬢、リリスによって。
あの一件は、王都でも相当な騒ぎになった。
“平民上がりの剣士が、貴族の令嬢に捨てられた”という話は、噂好きの連中の大好物だったらしい。
そして、その余波は僕にも及んだ。
僕は当時、同じく婚約者がいた。
お相手は中級貴族の家の娘で、家同士の繋がりもあり、穏やかに進んでいた話だった。
でも――その家が突然、「縁談の見直し」を申し入れてきた。
理由は明言されなかったが、分かっていた。
「キリト家は、もはや安泰ではない」という空気が、あの瞬間、王都に広がったのだ。
あのときの悔しさは、今も忘れられない。
だが――僕はあえて、それに抗わなかった。
無理に縁談を戻しても、信頼は戻らない。ならば、もういい。
僕は仕事に打ち込んだ。
王宮の法務局に配属されてから、上司の期待以上に働いた。
与えられた仕事を正確にこなし、法令の改訂や査察任務にも進んで手を挙げた。
「キリト家の次男」としてでなく、「キリアン=キリト個人」として、この職場に居場所を作りたかった。
そして、そんな日々の中で――彼女と出会った。
イリーネ=ブルーナ嬢。
同じ部署の同僚。
最初は目立たない印象だったけれど、驚くほど丁寧に仕事をこなし、難しい案件でも臆せず意見を出す彼女に、自然と目が向くようになった。
仕事が終わったあと、図書室で同じ資料を探していたことがきっかけで、言葉を交わすようになった。
最初はたわいのない雑談だったけれど、気づけば彼女と話す時間が、僕の日常の一部になっていた。
ある日、彼女が言った。
「キリアンさんって、どこか無理して笑ってますよね」
思わず、言葉を詰まらせた。
誰にも言われたことのない、その一言に、僕の仮面は少しだけ揺らいだ。
それからだった。
僕は彼女に、少しずつ本音を話すようになった。
家のこと。弟のこと。失った婚約のこと。
彼女は驚くでも、哀れむでもなく、ただ黙って聞いてくれた。
――そしてある雨の日。
局内で濡れた書類を片づけていたとき、彼女がポツリと呟いた。
「……あなたは、もう十分がんばってると思いますよ。だから、もう誰かの期待ばかりに応えなくてもいいんじゃないですか?」
その言葉に、胸の奥が熱くなった。
誰かに、そんなふうに言ってもらったのは……初めてだったかもしれない。
それからだ。
僕たちは少しずつ距離を縮めて、やがて交際を始めた。
派手なことはなかったけれど、彼女との時間は、穏やかで、安心できるものだった。
時折、父にも報告をした。
父は黙って頷いたあと、ぽつりと「お前が幸せなら、それでいい」とだけ言った。
そして――今年の春。
僕は決意した。
「ブルーナ家に婿入りしよう」と。
貴族社会では、婿入りは決して軽い決断ではない。
けれど、彼女と生きる未来を考えたとき、自分の名前や家柄よりも、大切なことがあると気づいたのだ。
彼女が、僕の人生にとって、何よりも温かい場所になっていたから。
ただ……その矢先だった。
アベル=ダンガー子爵が脱獄し、何者かの襲撃を受け、僕は病院のベッドにいた。
目を覚ましたとき、一番に見えたのは――あの青い髪。
「……イリーネ……」
手を取ると、彼女の目に、涙がにじんでいた。
「……怖かったです。本当に、もう……」
彼女は言葉を詰まらせ、でも僕はそっとその手を握った。
「大丈夫。……僕はもう、離れたりしないから」
◇
こうして、僕は今、病院の一室で、静かに未来を考えている。
キリト家の一員として、これまで生きてきた。
でも――これからは、イリーネとともに、ブルーナ家の一員として、新しい人生を歩む。
カールが、自らの道を剣で切り開いたように。
僕もまた、自分の道を、誠実に歩いていこう。
「……ありがとう、イリーネ」
彼女がそばにいるだけで、心はこんなにも、温かくなれる。
だから、これからの未来が、どれだけ波風立とうと――
僕は、彼女と共に、歩いていく。
◆揺らぐ安息、遠征の報せ◆
――王立病院・キリアンの病室にて
昼下がりの病室には、柔らかな陽射しが差し込んでいた。
私は、ベッドに身を起こしながら、イリーネの持ってきてくれた文献を読んでいた。
まだ傷は痛むけれど、彼女の隣にいると、不思議と心が落ち着く。
「この法改正、やっぱり前例がなかったんですね……」
「ええ。だからキリアンさんの意見が参考になるって、局の人たちも言ってましたよ」
彼女は穏やかに笑って、薬草茶の湯飲みを差し出してくれる。
静かで、平和な時間――そう思っていた、そのときだった。
――コン、コン。
控えめなノック音に、私は顔を上げた。
扉の向こうから、甲冑の擦れる音が微かに響く。
「……誰だろう?」
イリーネが小首をかしげながら扉を開けると、現れたのは直属騎士団の一人だった。
赤い紋章入りのマントと、堅牢な銀の胸当て。
ゼノ=バルジェ団長直属の、精鋭騎士の一人に間違いない。
「キリアン=キリト様……失礼します。王国軍より、緊急の伝令をお持ちしました」
「……王国軍?」
私は眉をひそめた。
直属騎士団の者が、わざわざ病室に直接報せに来るというのは、ただ事ではない。
「……どうかされたんですか」
イリーネの問いかけに、騎士は無言で私の手元に巻物を差し出した。
それは、軍の封蝋がされた正式な報告書だった。
震える手で封を解き、中を読んでいくうちに、血の気が引いていくのがわかった。
「……嘘だろ……ルジェン兄さんが……!」
書かれていたのは、次のような内容だった。
《王国軍 第三遠征隊 隊長 ルジェン=キリト中尉、南方森域の斥候任務中に、正体不明の襲撃者と交戦。複数の部下が負傷、中尉は一時行方不明となるも、捜索班により負傷状態で救出。
現在、遠征地の軍医施設にて治療中。
襲撃者は黒衣をまとい、強力な呪術を用いた形跡あり。
部下の証言により、「アベル=ダンガー子爵に酷似した人物」である可能性が高い。
なお、本件は直属騎士団および王国情報局にて継続調査中である。》
「……そんな……兄さんまで……」
私は力なく呟いた。
弟である私が襲われて、次は兄。
キリト家を狙い撃ちにするかのようなこの動きに、戦慄が走った。
「団長より伝言があります」
騎士が口を開いた。
「“奴は、キリト家を揺さぶることで、カール=キリトを引きずり出そうとしている。だが、それに乗るな。今は護りを優先せよ”――と」
「……兄さんの状態は? 命に別状はないんですね?」
「はい。ただし、深手を負っておられます。現地軍医団の報告によれば、意識は回復しつつありますが、当面は移動不可とのことです」
「……ありがとうございます。伝えてくださって、感謝します」
騎士は敬礼し、静かに部屋を後にした。
◇
扉が閉まると、部屋は一転して静寂に包まれた。
私はベッドに体を沈めながら、眉間を押さえた。
(これは……ただの偶然じゃない)
ダンガー子爵は、意図的に私たちを狙っている。
カールが王都に戻る前に、家族を傷つけ、心を削る――そのために。
だが、そのやり方は卑劣だ。
そして、必ず報いを受ける。
「……ルジェン兄さんも、助かってよかった……」
呟く私の手を、イリーネがそっと握ってくれた。
「大丈夫です。キリアンさんのお兄様も、きっと大丈夫。だって、あなたたち兄弟は、同じ強さを持ってるから」
「……イリーネ」
彼女の手の温もりに、私は少しだけ力を取り戻す。
この人がいてくれて、よかったと、心から思った。
「……でも、もう家族をこれ以上、巻き込みたくない」
「じゃあ、どうしますか?」
私はしばし考え、そして一つの決意を口にした。
「ゼノ団長に、今すぐ手紙を書いてください。ダンガーの行動を追う特別班に、僕を加えてもらうようにって。まだ動けないけれど、情報整理なら、僕にもできる」
イリーネは目を見開き、そして静かにうなずいた。
「わかりました。すぐに届けます」
彼女が机に向かう背中を見ながら、私は、遠くにいる兄の無事を、もう一度だけ強く祈った。
兄さん――どうか、生きて。
そして、また並んで笑える日が来ますように。
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