婚約破棄された上に、追放された伯爵家三男カールは、実は剣聖だった!これからしっかり復讐します!婚約破棄から始まる追放生活!!

山田 バルス

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第54話 リリス、偽りの花嫁

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◆ラ・ロシェ伯爵邸にて――偽りの花嫁と、延命の知恵◆

 夜の帳が下り、ラ・ロシェ伯爵邸は静寂に包まれていた。

 薄暗い廊下に、ゆっくりと足音が響く。伯爵の足取りだ。金の装飾の杖が、石床を叩くたびに、リリスの心臓は激しく鼓動を打った。

 ――来る。

 呼吸が浅くなる。背筋を伝う冷たい汗。だが、リリスの目には、さっきまでの怯えた色はもうなかった。

 鏡の前で、完璧な化粧を施していた。赤く染めた唇、丁寧に整えた巻き髪、そして白磁のような肌。リリスは、売られた花嫁としてではなく、策謀の仮面を被った「役者」としてその夜を迎える決意を固めていた。

 部屋のドアが、ぎぃ……と音を立てて開かれる。

 「リリスよ。準備はできておるか?」

 伯爵の声は湿っていて、甘く、粘つくようだった。

 リリスはベッドの端に腰掛け、優雅に立ち上がると、静かに一礼した。

 「はい、伯爵様。……ですが、その前に、一つだけお願いがございます」

 伯爵の眉が動いた。「なんだね?」

 リリスは、艶やかな声で微笑む。

 「わたくしは――正式な結婚式をしていないまま、伯爵様に抱かれることに、どうしても抵抗があるのです」

 「ふむ?」

 「世間の目もあります。わたくしは“買われた女”ではなく、“伯爵夫人”として迎えられたと、そう……誰もが認める形を取りたいのです。神の前で、誓いの言葉を」

 伯爵は短く鼻で笑った。

 「神か。……ふん、くだらん。そんなもの、形だけの儀式に過ぎん。第一、明日にでも呼べばよかろう」

 「いいえ」

 リリスはきっぱりと、だが柔らかく言った。

 「今宵は――神父様が来てくださるまでは、わたくしは夫婦の務めを果たせません」

 その瞳には、かすかな涙がにじんでいた。恐怖ではない。女としての誇りと、薄氷のような勇気。

 伯爵はしばらく黙りこみ、リリスを見つめた。

 「……なるほどな。貴族としての誇り、か。いや、違うな。ヴァレンタイン家の“しつけ”か」

 彼は笑った。

 「まあよい。初夜が明日になったところで、わしが損をするわけでもない。神父など呼べば、屋敷の者たちも“式を挙げた”と納得するだろうしな。ふふ、やはり貴族の血筋は面白い」

 ぞっとするような笑みを浮かべながら、伯爵は背を向けた。

 「一晩くらい、焦らすのも悪くはない。明日の夜――待っておれ、我が花嫁よ」

 部屋の扉が閉まった。

 それと同時に、リリスの肩から力が抜ける。

 ――回避、成功。

 脚が震える。息が詰まりそうだった。だが、確かに「初夜」は、一日延ばされた。

 ベッドの上に倒れ込み、リリスはそっと呟く。

 「ありがとう……神様……ほんとに……」

 その顔には、涙ではなく、微笑みが浮かんでいた。

 もちろん、明日になればまた同じ危機が訪れる。それでも、今日という一日は生き延びた。そしてこの一日があれば、次の一手を打てる。

 リリスは急いで机に向かい、ペンと紙を取った。偽名での文。暗号化された内容。そして差出人は、伯爵の監視をかいくぐれる者。

 ――宛先は、王都の片隅にある、ある一人の「情報屋」。

 「明日、式を挙げると伝えれば、屋敷内に外部の人間が入る。……ならば、その中に“誰か”を紛れ込ませることも、できるはず」

 声に出すことで、リリスの目には再び炎が宿った。

 恐怖の夜を越え、彼女の中にあった“少女”は消え、“悪女”が再び息を吹き返した。

 「一日稼いだ。次は、わたしが動く番」

 その言葉は、部屋に咲く青いバラの香りよりも鋭く、静かに空気を裂いた。

 伯爵の屋敷という名の檻の中で、囚われの姫はまだ――“獲物”にはなっていなかった。


◆ラ・ロシェ伯爵視点――沈黙の館に咲いた薔薇◆

 静かだ。

 我が館はいつだって、夜になると音ひとつ立てぬ。

 分厚い石の壁と深紅のカーテンが、外の世界を拒絶し、時間までも閉じ込める。

 だからこそ、この屋敷は“美しい”。

 誰にも邪魔されず、我が悦楽と秘め事だけが、ゆっくりと熟成されていく空間。

 ――そして今宵、その空間に、“女”が来た。

 それも、ただの女ではない。

 リリス=ヴァレンタイン。

 かつて宮廷で“薔薇の貴婦人”とまで呼ばれた、美貌の令嬢だ。

 金で買った。正確には、潰れかけのヴァレンタイン家が自ら差し出した。

 形式上は婚姻だが、実質は“売買”。

 この歳になって、ようやく手に入ったのだ。あの名門の華を――この手に。

 黒塗りの馬車が館の前に着いたとき、わたしは食堂の椅子に腰掛けていた。

 薄く香を焚き、赤ワインをゆるりと傾ける。長年の習慣だ。

 そして、扉が開かれた。

 あの瞬間の衝撃は、いまだに忘れられぬ。

 ――あれほど、美しいとは。

 白磁のような肌、滑らかな金の髪。冷たい目をしていながら、その奥に火を宿した女。

 飾り人形ではない。媚びもしない。それどころか、わたしを“見下している”のが分かる。

 だがそれがいい。反抗心も、羞恥も、恐怖も――すべてが、我が悦びを深くする。

 「ようこそ、わが花嫁よ」

 声をかけたとき、彼女の喉がわずかに震えたのを、わたしは見逃さなかった。

 そうだ、怯えろ。震えろ。

 そうしてこそ、女は“開く”。

 わたしは彼女の手を取り、唇を近づけた。儀礼ではない。これは所有の証。

 今夜、あの肌に触れる。あの唇に指を這わせ、あの体の奥を開く。

 そう思うだけで、胸の奥が熱くなる。

 だが――

 彼女は、笑った。

 作り物のような笑み。だが、それが“仮面”であることくらい、百戦錬磨のわたしに見抜けぬはずがない。

 心では、わたしを“汚物”とでも思っているのだろう。

 構わぬ。むしろ好都合。

 心を踏みにじり、すべてを折ってこそ、征服の味は甘美になる。

 わたしは部屋へ戻り、夜を待った。

 香を強く焚かせ、部屋を薔薇で飾るよう侍女に命じる。

 あの女に、逃げ場などない。

 そのはずだった――

 だが。

 夜が更け、いよいよ“迎え”に行ったとき、彼女は、まるで舞台女優のように振る舞った。

 ベッドの縁に座り、微笑み、完璧に着飾っていた。

 不自然なほどに――整いすぎていた。

 何かを企んでいる。そう、感じた。

 そして、彼女は言った。

 「今宵は、正式な婚姻の儀が済むまでは、お身体を許すことはできません」

 ふふ、ふふふふ――笑いを堪えるのがやっとだった。

 なるほど、そう来たか。

 “神”を盾にするとは、なかなかしたたかな女だ。

 世間体を気にする貴族の矜持。それを持ち出せば、わたしが無理強いすれば“醜聞”になる。

 よく考えたな、小娘。

 だが、それでもいい。

 一晩程度、焦らしてやるのも悪くない。恐怖を長く、深く、染み込ませるほうが、むしろ効く。

 何より――明日の夜には、逃げ場も言い訳もなくなるのだから。

 わたしは、彼女に背を向け、部屋を出た。

 「ふふ……面白い。ほんに、実に、面白い女だ」

 舌で唇を湿らせながら、わたしは杖をついて廊下を歩く。

 この歳になって、こんなにも“待ち遠しい”とは。

 骨までしゃぶってやる。明日の夜――お前を、わたしの色に染めてやる。

 廊下の奥、窓から見える夜空には、雲に隠れた月が覗いていた。

 神でも、祈りでも、誓いでも――

 この欲望には勝てぬ。

 ヴァレンタインの薔薇よ。明日こそ、お前を“散らせて”やるのだ。

 そして、その花弁を一枚一枚――

 舌の上で、ゆっくりと味わってやる。

 

 ◆ ◆ ◆

 部屋に戻ると、侍女たちが静かに動いていた。

 明日の婚姻のため、衣装や装飾を整えるという。どうでもよい。

 だが、形式を整えることで、彼女の逃げ道を潰すことができるのなら、悪くない。

 「神父は誰を呼ぶ?」

 「近隣の礼拝堂より、マルク神父が参ります。明日の朝には到着するかと」

 「ふむ、よい。飾りだけで十分だ」

 わたしは肘掛け椅子に深く腰掛け、火の入った暖炉の前でワインを傾けた。

 赤い液体が、揺れる。まるで女の血のように。

 喉を潤し、舌を湿らせながら、思う。

 ――お前の心がどれだけ冷たかろうと、体は熱くなるのだ。

 わたしの指で。わたしの舌で。わたしの“愛”で。

 だからこそ、お前はわたしのものになる。

 それが決まっている未来なのだから。

 

 ◆ ◆ ◆

 静かな夜。

 窓の外では、誰もいない庭園に風が吹いていた。

 しかし、この沈黙の館で――誰も気づいていない。

 あの“薔薇”が、決してただの花嫁ではないことを。

 まるで毒を秘めた棘のように、ゆっくりと、獲物を切り裂くための牙を研いでいることを――

 

 だが、それでも構わぬ。

 逃げられはしない。壊すことさえできるならば、それでいい。

 “薔薇”が咲き誇るのは、散るその瞬間まで。

 わたしは、それをこの手で味わいたいだけだ。

 そして――

 明日の夜、お前を迎えるために。

 今宵は、甘い夢でも見てやるとしよう。
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