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第55話 リリス=ヴァレンタインの最期
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◆ラ・ロシェ伯爵邸にて――偽りの婚礼と、裂かれる誓い
その朝、ラ・ロシェ伯爵邸には、異様な静けさが満ちていた。
屋敷の大広間。分厚いカーテンの隙間から曇天の光が差し込み、重厚な絨毯を鈍く照らしている。天井のシャンデリアの蝋燭が、小さな音を立てて揺れていた。
――今日は、婚礼の日。
そう告げられたのは、昨夜のことだった。
「簡素で構わん。神父さえ呼べ。誓いさえ交わせば、すぐに“夜”に入れるのだからな」
そう告げたのは、ラ・ロシェ伯爵。五十七歳。かつては軍功で名を馳せたというが、今のその姿は、欲望と執着にまみれた老獪な獣そのものだった。
金糸を織り込んだ礼服に身を包み、伯爵は祭壇の前でご満悦の笑みを浮かべていた。
「よい……じつに、よいぞ。見ろ、わが花嫁のこの姿を……。神々も羨むほどではないか!」
白く濁った瞳が、リリスの体を貪るように追っていた。
純白のドレス、腰元の白い薔薇、宝石をあしらった髪飾り。すべては彼の命によって用意された“玩具の装飾”だった。
リリスは、その視線に一切の表情を見せなかった。
唇はかすかに震えていたが、視線だけは、冷たく、凍りついたように伯爵を見返していた。
――わたしは、ここで終わらない。
老神父が聖典を開く。
「ここに神の御前にて、婚姻の儀を執り行います。ラ・ロシェ・フラン=アルジェ・ベルンハルト伯爵と、リリス=ヴァレンタイン嬢の結びの儀を……」
周囲には整列した使用人たち。皆、声も出さず、ただ張り詰めた空気を飲み込んでいる。
「ラ・ロシェ伯爵、貴殿はこの婚姻を受け入れますか?」
「もちろんだとも!」伯爵は喉を鳴らして笑った。「この身も心も、すべてリリスに捧げよう……ふふふ……」
「では、リリス=ヴァレンタイン嬢。あなたはこの婚姻を受け入れますか?」
リリスは、ゆっくりと顔を上げた。
「……はい。お受けいたします」
言葉は静かだった。だがその奥に、氷の刃のような決意が潜んでいた。
伯爵は悦に入り、老神父に促す。
「よいな? では、誓いの口づけを……」
その瞬間だった。
「――お待ちくださいッ!!」
鋭く、裂けるような声が大広間を切り裂いた。
一斉に、視線がその声の主に集まる。
従者の列から一歩、若い男が前に出ていた。
黒髪に青い瞳、細身ながら鋭い目つきの青年。屋敷で給仕を務める者のひとり――ロラン・ベズレ。
「……誰だ、貴様は」伯爵が不機嫌に眉を寄せた。
「ラ・ロシェ家の使用人、ロラン・ベズレであります」
そして、深く一礼した彼は、顔を上げ、はっきりと告げる。
「この婚姻に、私は反対いたします」
静まり返る大広間。
空気が凍るという表現すら生ぬるい。すべてが凍りついた。
「ほう……従者の分際で、わしの婚礼に口を挟むか」伯爵の口元が歪む。
「ええ、従者だからこそ、言わねばならぬのです。リリス様はこの婚姻に“同意”などされていない。形式上、口にされた『はい』に意味はない。彼女は強要されている」
リリスは、息を呑んだ。
――まさか……ロラン、なぜ今……。
だがロランは、ゆっくりと懐に手を差し入れる。
「証拠があるのか?」伯爵が吠える。
ロランは、ふ、と笑った。
それは奇妙な笑みだった。静かで、そしてどこか……不気味なほど落ち着いていた。
「ええ。もちろんございます」
伯爵の目が吊り上がる。
「この私を、謀るつもりか……? おまえ如きに、何ができる……!」
ロランは懐から、紙も書簡も取り出さなかった。ただ、両手を広げて自分の胸に手を当て、こう言った。
「証拠とは――この私の身にございます」
ざわり、と使用人たちの間にざわめきが走る。
「……なに?」
「私は、三ヶ月前からこの屋敷に仕える従者ですが……それ以前は、ある場所で“ラ・ロシェ伯爵の真の顔”を調べておりました」
その言葉に、伯爵の顔色が変わった。
「ラーベンの収容所。セレネ村の廃屋。ヴァイス家の娘……伯爵が今まで“手を出した”数々の若き令嬢たちの記録、証人、さらには毒を盛られた被害者の証言も」
「黙れ……!」伯爵の声が怒りで震え出す。
「リリス様も、その被害者にされるところでした。私がこうして屋敷に潜り込んだのは、その実態を掴むため」
「嘘だッ!! そんなものは陰謀だ! 私を陥れる罠だ!!」
「では、神父様にお尋ねしましょう」
ロランは一歩、祭壇へと歩み寄る。
「リリス様が“自発的な意思”でこの結婚を望んでいないとすれば、この婚姻は無効となる。そうですね?」
神父は蒼白な顔でうなずいた。「……その通りです……強要された婚姻は、神の御前に反します」
リリスは、肩が小さく震えていた。
――こんな形で、すべてを曝け出すとは。
だが、もう止まらない。
ロランは、にこりと笑ってリリスに目を向けた。
「リリス様……貴女は“はい”と仰った。ですが、心では“いいえ”だったはずです」
リリスは、目を見開き、そして小さく、しかしはっきりと――頷いた。
その瞬間、伯爵の怒号が炸裂した。
「よくも……よくも、この私を愚弄してくれたなぁああッ!!」
杖を振り上げ、ロランへ突進しようとしたそのとき。
何かが、伯爵の体から抜け落ちるように――力が消えた。
ロランの目が、鋭く光る。
「……始めましょうか。ラ・ロシェ伯爵の“罪の清算”を」
その言葉を合図に、大広間に張りつめていた空気が、音を立てて崩れた。
使用人たちが一斉に動き出す。数人が伯爵の前に立ちはだかり、扉が閉ざされる。
逃げ場は、もうない。
そして、祭壇の上で立ちすくむリリスの背には、微かな風が吹いていた。
――夜は、まだ明けていない。
だが、もうすぐだ。
この偽りの婚礼の幕を引くための、真の闘いが始まろうとしていた。
◆ラ・ロシェ伯爵邸にて――悪魔の目覚めと、絶望の薔薇
「始めましょうか。ラ・ロシェ伯爵の“罪の清算”を」
従者ロランの声が、静かに響いたその瞬間――
伯爵が苦々しげに顔を歪める。
「ふん、粋がって……このわしが従者ごときに――」
だが、その言葉を遮るように、ロランがふふ、と笑った。
「そうそう、伯爵。そういえば、まだ言っていなかったことがありましたね……」
その声音は、それまでのロランとはまるで別人のようだった。
「私は、“ロラン”であって、“ロラン”ではないのです」
「……なに?」
次の瞬間、ロランの姿がぐにゃりと歪んだ。
「《ヴェール・ノクス》」
唱えられたのは、魔術の詠唱。
黒い煙が足元から立ちのぼり、一気に辺りを覆っていく。
その煙はどこか生き物のようにうねりながら、広間全体を満たしていった。使用人たちが息を呑み、神父が杖を落として後ずさる。
そして――煙が晴れたとき、そこに立っていたのは、もはやロランではなかった。
血のような赤黒い礼服。精悍な輪郭と、琥珀のように鈍く輝く瞳。背には黒いマント、口元には冷たい笑みをたたえ――
「久しいな、リリス。我が妻よ」
それは、アベル=ダンガー子爵だった。
「……っ! おまえ……!」
伯爵の顔が蒼白になる。
ダンガーは手を軽く振ると、次の詠唱を呟く。
「《マンドラ=フローレ》」
床の下――石畳の隙間から、ぞりぞりと音を立てて、何かが這い出してくる。
それは、黒く変色した巨大な薔薇の蔓だった。
棘を生やしたそれらは、生きているかのように蠢きながら、瞬く間に広間を覆いつくす。
「ひッ……うわああああッ!」
逃げようとした神父が、足元を蔦に絡まれ、叫び声を上げる。
次々と、使用人たちも同様に蔦に巻かれ、悲鳴を上げながら拘束されていく。
伯爵は杖を振りかざして魔術を発動させようとするが――遅かった。
「ぐぉぉぉッ……!? やめ……やめぬかァァアアッ!!」
腕を、脚を、そして胴体を、黒い薔薇の棘が容赦なく貫いた。
鮮血が飛び散り、豪奢な礼服が染まっていく。
「やめ……ぬ……私は……この国の、重鎮で……!」
だがダンガーは、楽しげに笑うだけだった。
「伯爵閣下。あなたの“娯楽”が、ようやく幕を引くのですよ。ほら……あなたも楽しみでしょう? 花嫁との再会を」
その目は、伯爵ではなく、リリスを見ていた。
リリスは、凍ったように動けずにいた。
そのダンガーが、静かに近づく。
そして懐から、小さな小瓶を取り出した。中には、どろりとした黒い液体が入っている。
「お待たせしました、我が妻よ。さあ……これを飲んで、我と共に“帰ろう”ではないか」
「……なに、それ……」
リリスは声を震わせながら訊いた。
黒い液体は、不吉に揺れている。
ダンガーは優しく微笑んだ。
「大丈夫。これを飲めば――すべてが“わかる”」
その言葉に、リリスは一度だけ目を閉じた。
――信じていいのか。いや……信じるしかない。
この世界で、唯一自分を“名前”ではなく“本質”で呼ぶ存在。
彼を見ていると、胸の奥が――疼く。
「……わたしは……」
そして、決意したように、リリスは小瓶を受け取り、唇に注いだ。
冷たく、どろりとした液体が、喉を通る。
次の瞬間――
「……ッあ……あああ……っ!」
体の奥から、何かが爆ぜた。
熱い。熱い。全身が煮えたぎるように熱く、焼け付くように疼く。
肌が変色し、白かったそれが、ゆっくりと緑がかった魔族特有の色へと染まっていく。
指の先から黒い紋章が現れ、髪の色も、瞳の光も、まるで別人のように変化していった。
そして――記憶が蘇った。
人間を焼き払い、村を踏み潰し、王を嘲笑し、無数の命を弄んだ過去。
かつて、自分が悪魔族の上級将として、人間界で数千人を“屠った”記憶。
――その隣には、常にひとりの王がいた。
目の前にいる、アベル=ダンガーこそが、その王――“悪魔王アスモディア”だったのだ。
「……思い出しましたか、我が愛しき妻よ」
その言葉に、リリスはゆっくりと、微笑みながら頷いた。
「ええ……すべて……」
唇が笑みに歪む。
「人間を殺すのは……最高の娯楽だったわ」
ダンガーも、深く微笑む。
「だが、今はこれぐらいにしておこう。まだ“見つかる”には早い。力を完全に取り戻さねばな」
ふたりは、手を取り合う。
「《グラティス・エクリプス》」
詠唱と同時に、天井がきしみ、床が脈打つようにうねった。
そして――
大爆発が、屋敷を包み込んだ。
石壁が砕け、炎と煙が吹き上がり、ラ・ロシェ邸は一瞬にして崩壊する。
リリスは、高らかに笑っていた。
「人間どもめ……せいぜい怯えていればいいわ!」
ダンガーは手を振る。
「さらばだ、伯爵。貴様が踏みにじった命たちの恨みと共に、地の底へ堕ちよ」
その言葉を最後に、ふたりの姿は、黒煙の中に消えた。
そして数分後――そこに残ったのは、瓦礫と焦土と、悲鳴の残響だけだった。
その朝、ラ・ロシェ伯爵邸には、異様な静けさが満ちていた。
屋敷の大広間。分厚いカーテンの隙間から曇天の光が差し込み、重厚な絨毯を鈍く照らしている。天井のシャンデリアの蝋燭が、小さな音を立てて揺れていた。
――今日は、婚礼の日。
そう告げられたのは、昨夜のことだった。
「簡素で構わん。神父さえ呼べ。誓いさえ交わせば、すぐに“夜”に入れるのだからな」
そう告げたのは、ラ・ロシェ伯爵。五十七歳。かつては軍功で名を馳せたというが、今のその姿は、欲望と執着にまみれた老獪な獣そのものだった。
金糸を織り込んだ礼服に身を包み、伯爵は祭壇の前でご満悦の笑みを浮かべていた。
「よい……じつに、よいぞ。見ろ、わが花嫁のこの姿を……。神々も羨むほどではないか!」
白く濁った瞳が、リリスの体を貪るように追っていた。
純白のドレス、腰元の白い薔薇、宝石をあしらった髪飾り。すべては彼の命によって用意された“玩具の装飾”だった。
リリスは、その視線に一切の表情を見せなかった。
唇はかすかに震えていたが、視線だけは、冷たく、凍りついたように伯爵を見返していた。
――わたしは、ここで終わらない。
老神父が聖典を開く。
「ここに神の御前にて、婚姻の儀を執り行います。ラ・ロシェ・フラン=アルジェ・ベルンハルト伯爵と、リリス=ヴァレンタイン嬢の結びの儀を……」
周囲には整列した使用人たち。皆、声も出さず、ただ張り詰めた空気を飲み込んでいる。
「ラ・ロシェ伯爵、貴殿はこの婚姻を受け入れますか?」
「もちろんだとも!」伯爵は喉を鳴らして笑った。「この身も心も、すべてリリスに捧げよう……ふふふ……」
「では、リリス=ヴァレンタイン嬢。あなたはこの婚姻を受け入れますか?」
リリスは、ゆっくりと顔を上げた。
「……はい。お受けいたします」
言葉は静かだった。だがその奥に、氷の刃のような決意が潜んでいた。
伯爵は悦に入り、老神父に促す。
「よいな? では、誓いの口づけを……」
その瞬間だった。
「――お待ちくださいッ!!」
鋭く、裂けるような声が大広間を切り裂いた。
一斉に、視線がその声の主に集まる。
従者の列から一歩、若い男が前に出ていた。
黒髪に青い瞳、細身ながら鋭い目つきの青年。屋敷で給仕を務める者のひとり――ロラン・ベズレ。
「……誰だ、貴様は」伯爵が不機嫌に眉を寄せた。
「ラ・ロシェ家の使用人、ロラン・ベズレであります」
そして、深く一礼した彼は、顔を上げ、はっきりと告げる。
「この婚姻に、私は反対いたします」
静まり返る大広間。
空気が凍るという表現すら生ぬるい。すべてが凍りついた。
「ほう……従者の分際で、わしの婚礼に口を挟むか」伯爵の口元が歪む。
「ええ、従者だからこそ、言わねばならぬのです。リリス様はこの婚姻に“同意”などされていない。形式上、口にされた『はい』に意味はない。彼女は強要されている」
リリスは、息を呑んだ。
――まさか……ロラン、なぜ今……。
だがロランは、ゆっくりと懐に手を差し入れる。
「証拠があるのか?」伯爵が吠える。
ロランは、ふ、と笑った。
それは奇妙な笑みだった。静かで、そしてどこか……不気味なほど落ち着いていた。
「ええ。もちろんございます」
伯爵の目が吊り上がる。
「この私を、謀るつもりか……? おまえ如きに、何ができる……!」
ロランは懐から、紙も書簡も取り出さなかった。ただ、両手を広げて自分の胸に手を当て、こう言った。
「証拠とは――この私の身にございます」
ざわり、と使用人たちの間にざわめきが走る。
「……なに?」
「私は、三ヶ月前からこの屋敷に仕える従者ですが……それ以前は、ある場所で“ラ・ロシェ伯爵の真の顔”を調べておりました」
その言葉に、伯爵の顔色が変わった。
「ラーベンの収容所。セレネ村の廃屋。ヴァイス家の娘……伯爵が今まで“手を出した”数々の若き令嬢たちの記録、証人、さらには毒を盛られた被害者の証言も」
「黙れ……!」伯爵の声が怒りで震え出す。
「リリス様も、その被害者にされるところでした。私がこうして屋敷に潜り込んだのは、その実態を掴むため」
「嘘だッ!! そんなものは陰謀だ! 私を陥れる罠だ!!」
「では、神父様にお尋ねしましょう」
ロランは一歩、祭壇へと歩み寄る。
「リリス様が“自発的な意思”でこの結婚を望んでいないとすれば、この婚姻は無効となる。そうですね?」
神父は蒼白な顔でうなずいた。「……その通りです……強要された婚姻は、神の御前に反します」
リリスは、肩が小さく震えていた。
――こんな形で、すべてを曝け出すとは。
だが、もう止まらない。
ロランは、にこりと笑ってリリスに目を向けた。
「リリス様……貴女は“はい”と仰った。ですが、心では“いいえ”だったはずです」
リリスは、目を見開き、そして小さく、しかしはっきりと――頷いた。
その瞬間、伯爵の怒号が炸裂した。
「よくも……よくも、この私を愚弄してくれたなぁああッ!!」
杖を振り上げ、ロランへ突進しようとしたそのとき。
何かが、伯爵の体から抜け落ちるように――力が消えた。
ロランの目が、鋭く光る。
「……始めましょうか。ラ・ロシェ伯爵の“罪の清算”を」
その言葉を合図に、大広間に張りつめていた空気が、音を立てて崩れた。
使用人たちが一斉に動き出す。数人が伯爵の前に立ちはだかり、扉が閉ざされる。
逃げ場は、もうない。
そして、祭壇の上で立ちすくむリリスの背には、微かな風が吹いていた。
――夜は、まだ明けていない。
だが、もうすぐだ。
この偽りの婚礼の幕を引くための、真の闘いが始まろうとしていた。
◆ラ・ロシェ伯爵邸にて――悪魔の目覚めと、絶望の薔薇
「始めましょうか。ラ・ロシェ伯爵の“罪の清算”を」
従者ロランの声が、静かに響いたその瞬間――
伯爵が苦々しげに顔を歪める。
「ふん、粋がって……このわしが従者ごときに――」
だが、その言葉を遮るように、ロランがふふ、と笑った。
「そうそう、伯爵。そういえば、まだ言っていなかったことがありましたね……」
その声音は、それまでのロランとはまるで別人のようだった。
「私は、“ロラン”であって、“ロラン”ではないのです」
「……なに?」
次の瞬間、ロランの姿がぐにゃりと歪んだ。
「《ヴェール・ノクス》」
唱えられたのは、魔術の詠唱。
黒い煙が足元から立ちのぼり、一気に辺りを覆っていく。
その煙はどこか生き物のようにうねりながら、広間全体を満たしていった。使用人たちが息を呑み、神父が杖を落として後ずさる。
そして――煙が晴れたとき、そこに立っていたのは、もはやロランではなかった。
血のような赤黒い礼服。精悍な輪郭と、琥珀のように鈍く輝く瞳。背には黒いマント、口元には冷たい笑みをたたえ――
「久しいな、リリス。我が妻よ」
それは、アベル=ダンガー子爵だった。
「……っ! おまえ……!」
伯爵の顔が蒼白になる。
ダンガーは手を軽く振ると、次の詠唱を呟く。
「《マンドラ=フローレ》」
床の下――石畳の隙間から、ぞりぞりと音を立てて、何かが這い出してくる。
それは、黒く変色した巨大な薔薇の蔓だった。
棘を生やしたそれらは、生きているかのように蠢きながら、瞬く間に広間を覆いつくす。
「ひッ……うわああああッ!」
逃げようとした神父が、足元を蔦に絡まれ、叫び声を上げる。
次々と、使用人たちも同様に蔦に巻かれ、悲鳴を上げながら拘束されていく。
伯爵は杖を振りかざして魔術を発動させようとするが――遅かった。
「ぐぉぉぉッ……!? やめ……やめぬかァァアアッ!!」
腕を、脚を、そして胴体を、黒い薔薇の棘が容赦なく貫いた。
鮮血が飛び散り、豪奢な礼服が染まっていく。
「やめ……ぬ……私は……この国の、重鎮で……!」
だがダンガーは、楽しげに笑うだけだった。
「伯爵閣下。あなたの“娯楽”が、ようやく幕を引くのですよ。ほら……あなたも楽しみでしょう? 花嫁との再会を」
その目は、伯爵ではなく、リリスを見ていた。
リリスは、凍ったように動けずにいた。
そのダンガーが、静かに近づく。
そして懐から、小さな小瓶を取り出した。中には、どろりとした黒い液体が入っている。
「お待たせしました、我が妻よ。さあ……これを飲んで、我と共に“帰ろう”ではないか」
「……なに、それ……」
リリスは声を震わせながら訊いた。
黒い液体は、不吉に揺れている。
ダンガーは優しく微笑んだ。
「大丈夫。これを飲めば――すべてが“わかる”」
その言葉に、リリスは一度だけ目を閉じた。
――信じていいのか。いや……信じるしかない。
この世界で、唯一自分を“名前”ではなく“本質”で呼ぶ存在。
彼を見ていると、胸の奥が――疼く。
「……わたしは……」
そして、決意したように、リリスは小瓶を受け取り、唇に注いだ。
冷たく、どろりとした液体が、喉を通る。
次の瞬間――
「……ッあ……あああ……っ!」
体の奥から、何かが爆ぜた。
熱い。熱い。全身が煮えたぎるように熱く、焼け付くように疼く。
肌が変色し、白かったそれが、ゆっくりと緑がかった魔族特有の色へと染まっていく。
指の先から黒い紋章が現れ、髪の色も、瞳の光も、まるで別人のように変化していった。
そして――記憶が蘇った。
人間を焼き払い、村を踏み潰し、王を嘲笑し、無数の命を弄んだ過去。
かつて、自分が悪魔族の上級将として、人間界で数千人を“屠った”記憶。
――その隣には、常にひとりの王がいた。
目の前にいる、アベル=ダンガーこそが、その王――“悪魔王アスモディア”だったのだ。
「……思い出しましたか、我が愛しき妻よ」
その言葉に、リリスはゆっくりと、微笑みながら頷いた。
「ええ……すべて……」
唇が笑みに歪む。
「人間を殺すのは……最高の娯楽だったわ」
ダンガーも、深く微笑む。
「だが、今はこれぐらいにしておこう。まだ“見つかる”には早い。力を完全に取り戻さねばな」
ふたりは、手を取り合う。
「《グラティス・エクリプス》」
詠唱と同時に、天井がきしみ、床が脈打つようにうねった。
そして――
大爆発が、屋敷を包み込んだ。
石壁が砕け、炎と煙が吹き上がり、ラ・ロシェ邸は一瞬にして崩壊する。
リリスは、高らかに笑っていた。
「人間どもめ……せいぜい怯えていればいいわ!」
ダンガーは手を振る。
「さらばだ、伯爵。貴様が踏みにじった命たちの恨みと共に、地の底へ堕ちよ」
その言葉を最後に、ふたりの姿は、黒煙の中に消えた。
そして数分後――そこに残ったのは、瓦礫と焦土と、悲鳴の残響だけだった。
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