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第3話 トリノ、婚約者の話
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『花飾りの午後、砕けた心』
鏡の中の少女は、まるで別人のようだった。
淡いピンク色のドレスに身を包み、栗色の髪は丁寧に巻かれ、真珠の髪飾りが光を反射していた。頬には薄く紅が差され、唇には艶が与えられている。けれど――その瞳だけは、どこか虚ろで、笑ってはいなかった。
「今日は……会える日だから」
トリノはかすかに自分へ言い聞かせるように呟く。
月に一度、ローマン伯爵の息子――彼女の許嫁――が、屋敷に訪れる日。
普段は召使たちに灰をかけられ、粗末な布をまとわされている彼女も、この日だけは違った。
継母が命じて、服装も礼儀も“貴族令嬢”としてのそれが与えられる。
――あたかも、“普段からそうしているかのように”演出するために。
だが、心は晴れない。今日こそは、彼に伝えなければならないことがあった。
ローマン=アルヴィスは、相変わらず整った顔立ちをしていた。
切れ長の瞳に、細身で高貴な立ち振る舞い。赤いマントの縁に金糸が刺繍されている。
文武両道と名高い王都の学院に通っている青年で、誰もが憧れる存在だ。
「トリノ、お久しぶり。変わらずお美しい」
にこやかに差し出された手。いつものように手の甲にキスを落とす所作に、周囲の召使たちはうっとりと目を細めた。
けれど、トリノはその手を、そっと握り返しながら、視線を落とす。
「ローマンさま……少し、お時間をいただけますか?」
「もちろん。庭にでも出よう」
二人は白薔薇が咲く中庭へと向かった。ここには、監視の目も少ない。
静かな風が吹いていた。薔薇の香りが微かに漂う。けれど、トリノの心は重く、冷たい石のように沈んでいた。
「ローマンさま……」
「うん?」
「……わたし、実は……屋敷で、あまり……良くない扱いを受けています」
一瞬、ローマンの眉がわずかに動く。
「良くない扱い?」
「継母さまや……姉たちに、日々、召使のように働かされて……言葉でも、物理的にも……」
そこまで言って、トリノは躊躇した。けれど、もう隠すことはできない。
このままでは、自分が壊れてしまう。だから、せめて――彼だけには、本当のことを伝えたかった。
「わたし、灰をかぶせられたり、食事も与えられなかったり……部屋は物置で、寒くて……召使たちにも、見下されて……」
言葉を絞るたび、手が震える。けれど、ローマンなら、きっとわかってくれると、信じていた。
しかし――彼の返した言葉は、信じがたいものだった。
「……トリノ、それは……君の、誤解じゃないかな?」
「……え?」
「アナスタシア夫人も、ミレイア嬢も、クラリッサ嬢も、僕が知る限り、礼儀正しく、慈愛に満ちたご婦人方だ。君がそういう目で見ているだけなのでは?」
トリノの顔から、血の気が引いた。
「で、でも……」
「それに、召使たちが君に失礼な態度をとる? 貴族の屋敷でそんなことがあるわけがないよ。君が何か勘違いをして、被害者ぶっているだけじゃないのかい?」
声は優しかった。けれどその優しさは、まるで薄氷のように冷たかった。
「……わたし……うそなんて……」
「それに――」ローマンの目が、わずかに鋭くなる。「君、今、姉君たちを侮辱したね。許嫁として、それは非常に失礼だと思うよ」
「ち、違います! わたしは、ただ、事実を……!」
「……トリノ」
彼は少し顔を背け、肩をすくめる。
「正直、がっかりだよ。君がそんなことを言うなんて。もっと理知的で、聡明な人だと思っていたのに……」
風が冷たく吹き抜けた。花びらがひらりと舞って、地面に落ちる。
トリノの口から、言葉が消えた。
(どうして、信じてくれないの?)
月に一度だけ、着飾らせてもらえるのは、彼に見せるための“幻”だった。
彼が見るのは、仮面をかぶった継母たち、そして“問題のない屋敷”の姿。
その裏で、彼女がどれだけ傷ついても、それは――誰にも見えない。
「……すみません……」
トリノはただ、それだけを絞り出した。
もう、言ってはいけない。もう、何も届かない。
「まあ、気を悪くしないで。次は来月だ。そのときは、また君の笑顔が見たいな」
彼は何事もなかったかのように微笑み、庭を後にした。
それからトリノは、誰にも何も言わなくなった。
屋敷でどれほど冷たく扱われても、反抗せず、黙って受け入れた。
だって、言ったところで、誰も信じてくれないのだから。
彼女の涙は、夜の毛布の下で、そっと、音もなく流れ落ちるだけだった。
――そして心のどこかで、少しずつ、何かが壊れていく音がしていた。
鏡の中の少女は、まるで別人のようだった。
淡いピンク色のドレスに身を包み、栗色の髪は丁寧に巻かれ、真珠の髪飾りが光を反射していた。頬には薄く紅が差され、唇には艶が与えられている。けれど――その瞳だけは、どこか虚ろで、笑ってはいなかった。
「今日は……会える日だから」
トリノはかすかに自分へ言い聞かせるように呟く。
月に一度、ローマン伯爵の息子――彼女の許嫁――が、屋敷に訪れる日。
普段は召使たちに灰をかけられ、粗末な布をまとわされている彼女も、この日だけは違った。
継母が命じて、服装も礼儀も“貴族令嬢”としてのそれが与えられる。
――あたかも、“普段からそうしているかのように”演出するために。
だが、心は晴れない。今日こそは、彼に伝えなければならないことがあった。
ローマン=アルヴィスは、相変わらず整った顔立ちをしていた。
切れ長の瞳に、細身で高貴な立ち振る舞い。赤いマントの縁に金糸が刺繍されている。
文武両道と名高い王都の学院に通っている青年で、誰もが憧れる存在だ。
「トリノ、お久しぶり。変わらずお美しい」
にこやかに差し出された手。いつものように手の甲にキスを落とす所作に、周囲の召使たちはうっとりと目を細めた。
けれど、トリノはその手を、そっと握り返しながら、視線を落とす。
「ローマンさま……少し、お時間をいただけますか?」
「もちろん。庭にでも出よう」
二人は白薔薇が咲く中庭へと向かった。ここには、監視の目も少ない。
静かな風が吹いていた。薔薇の香りが微かに漂う。けれど、トリノの心は重く、冷たい石のように沈んでいた。
「ローマンさま……」
「うん?」
「……わたし、実は……屋敷で、あまり……良くない扱いを受けています」
一瞬、ローマンの眉がわずかに動く。
「良くない扱い?」
「継母さまや……姉たちに、日々、召使のように働かされて……言葉でも、物理的にも……」
そこまで言って、トリノは躊躇した。けれど、もう隠すことはできない。
このままでは、自分が壊れてしまう。だから、せめて――彼だけには、本当のことを伝えたかった。
「わたし、灰をかぶせられたり、食事も与えられなかったり……部屋は物置で、寒くて……召使たちにも、見下されて……」
言葉を絞るたび、手が震える。けれど、ローマンなら、きっとわかってくれると、信じていた。
しかし――彼の返した言葉は、信じがたいものだった。
「……トリノ、それは……君の、誤解じゃないかな?」
「……え?」
「アナスタシア夫人も、ミレイア嬢も、クラリッサ嬢も、僕が知る限り、礼儀正しく、慈愛に満ちたご婦人方だ。君がそういう目で見ているだけなのでは?」
トリノの顔から、血の気が引いた。
「で、でも……」
「それに、召使たちが君に失礼な態度をとる? 貴族の屋敷でそんなことがあるわけがないよ。君が何か勘違いをして、被害者ぶっているだけじゃないのかい?」
声は優しかった。けれどその優しさは、まるで薄氷のように冷たかった。
「……わたし……うそなんて……」
「それに――」ローマンの目が、わずかに鋭くなる。「君、今、姉君たちを侮辱したね。許嫁として、それは非常に失礼だと思うよ」
「ち、違います! わたしは、ただ、事実を……!」
「……トリノ」
彼は少し顔を背け、肩をすくめる。
「正直、がっかりだよ。君がそんなことを言うなんて。もっと理知的で、聡明な人だと思っていたのに……」
風が冷たく吹き抜けた。花びらがひらりと舞って、地面に落ちる。
トリノの口から、言葉が消えた。
(どうして、信じてくれないの?)
月に一度だけ、着飾らせてもらえるのは、彼に見せるための“幻”だった。
彼が見るのは、仮面をかぶった継母たち、そして“問題のない屋敷”の姿。
その裏で、彼女がどれだけ傷ついても、それは――誰にも見えない。
「……すみません……」
トリノはただ、それだけを絞り出した。
もう、言ってはいけない。もう、何も届かない。
「まあ、気を悪くしないで。次は来月だ。そのときは、また君の笑顔が見たいな」
彼は何事もなかったかのように微笑み、庭を後にした。
それからトリノは、誰にも何も言わなくなった。
屋敷でどれほど冷たく扱われても、反抗せず、黙って受け入れた。
だって、言ったところで、誰も信じてくれないのだから。
彼女の涙は、夜の毛布の下で、そっと、音もなく流れ落ちるだけだった。
――そして心のどこかで、少しずつ、何かが壊れていく音がしていた。
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