婚約破棄されたトリノは、継母や姉たちや使用人からもいじめられているので、前世の記憶を思い出し、家から脱走して旅にでる!

山田 バルス

文字の大きさ
3 / 66

第3話 トリノ、婚約者の話

しおりを挟む
『花飾りの午後、砕けた心』
鏡の中の少女は、まるで別人のようだった。

淡いピンク色のドレスに身を包み、栗色の髪は丁寧に巻かれ、真珠の髪飾りが光を反射していた。頬には薄く紅が差され、唇には艶が与えられている。けれど――その瞳だけは、どこか虚ろで、笑ってはいなかった。

「今日は……会える日だから」

トリノはかすかに自分へ言い聞かせるように呟く。
月に一度、ローマン伯爵の息子――彼女の許嫁――が、屋敷に訪れる日。

普段は召使たちに灰をかけられ、粗末な布をまとわされている彼女も、この日だけは違った。
継母が命じて、服装も礼儀も“貴族令嬢”としてのそれが与えられる。
――あたかも、“普段からそうしているかのように”演出するために。

だが、心は晴れない。今日こそは、彼に伝えなければならないことがあった。

ローマン=アルヴィスは、相変わらず整った顔立ちをしていた。

切れ長の瞳に、細身で高貴な立ち振る舞い。赤いマントの縁に金糸が刺繍されている。
文武両道と名高い王都の学院に通っている青年で、誰もが憧れる存在だ。

「トリノ、お久しぶり。変わらずお美しい」

にこやかに差し出された手。いつものように手の甲にキスを落とす所作に、周囲の召使たちはうっとりと目を細めた。

けれど、トリノはその手を、そっと握り返しながら、視線を落とす。

「ローマンさま……少し、お時間をいただけますか?」

「もちろん。庭にでも出よう」

二人は白薔薇が咲く中庭へと向かった。ここには、監視の目も少ない。

静かな風が吹いていた。薔薇の香りが微かに漂う。けれど、トリノの心は重く、冷たい石のように沈んでいた。

「ローマンさま……」

「うん?」

「……わたし、実は……屋敷で、あまり……良くない扱いを受けています」

一瞬、ローマンの眉がわずかに動く。

「良くない扱い?」

「継母さまや……姉たちに、日々、召使のように働かされて……言葉でも、物理的にも……」

そこまで言って、トリノは躊躇した。けれど、もう隠すことはできない。
このままでは、自分が壊れてしまう。だから、せめて――彼だけには、本当のことを伝えたかった。

「わたし、灰をかぶせられたり、食事も与えられなかったり……部屋は物置で、寒くて……召使たちにも、見下されて……」

言葉を絞るたび、手が震える。けれど、ローマンなら、きっとわかってくれると、信じていた。

しかし――彼の返した言葉は、信じがたいものだった。

「……トリノ、それは……君の、誤解じゃないかな?」

「……え?」

「アナスタシア夫人も、ミレイア嬢も、クラリッサ嬢も、僕が知る限り、礼儀正しく、慈愛に満ちたご婦人方だ。君がそういう目で見ているだけなのでは?」

トリノの顔から、血の気が引いた。

「で、でも……」

「それに、召使たちが君に失礼な態度をとる? 貴族の屋敷でそんなことがあるわけがないよ。君が何か勘違いをして、被害者ぶっているだけじゃないのかい?」

声は優しかった。けれどその優しさは、まるで薄氷のように冷たかった。

「……わたし……うそなんて……」

「それに――」ローマンの目が、わずかに鋭くなる。「君、今、姉君たちを侮辱したね。許嫁として、それは非常に失礼だと思うよ」

「ち、違います! わたしは、ただ、事実を……!」

「……トリノ」

彼は少し顔を背け、肩をすくめる。

「正直、がっかりだよ。君がそんなことを言うなんて。もっと理知的で、聡明な人だと思っていたのに……」

風が冷たく吹き抜けた。花びらがひらりと舞って、地面に落ちる。
トリノの口から、言葉が消えた。

(どうして、信じてくれないの?)

月に一度だけ、着飾らせてもらえるのは、彼に見せるための“幻”だった。
彼が見るのは、仮面をかぶった継母たち、そして“問題のない屋敷”の姿。

その裏で、彼女がどれだけ傷ついても、それは――誰にも見えない。

「……すみません……」

トリノはただ、それだけを絞り出した。
もう、言ってはいけない。もう、何も届かない。

「まあ、気を悪くしないで。次は来月だ。そのときは、また君の笑顔が見たいな」

彼は何事もなかったかのように微笑み、庭を後にした。

それからトリノは、誰にも何も言わなくなった。
屋敷でどれほど冷たく扱われても、反抗せず、黙って受け入れた。

だって、言ったところで、誰も信じてくれないのだから。

彼女の涙は、夜の毛布の下で、そっと、音もなく流れ落ちるだけだった。

――そして心のどこかで、少しずつ、何かが壊れていく音がしていた。
しおりを挟む
感想 9

あなたにおすすめの小説

拝啓~私に婚約破棄を宣告した公爵様へ~

岡暁舟
恋愛
公爵様に宣言された婚約破棄……。あなたは正気ですか?そうですか。ならば、私も全力で行きましょう。全力で!!!

乙女ゲームの悪役令嬢の兄の婚約者に転生しましたが傷物になったので退場を希望します!

ユウ
恋愛
平凡な伯爵令嬢のリネットは優しい婚約者と妹と穏やかで幸福な日々を送っていた。 相手は公爵家の嫡男であり第一王子殿下の側近で覚えもめでたく社交界の憧れの漆黒の騎士と呼ばれる貴族令息だった。 結婚式前夜、婚約者の妹に会いに学園に向かったが、そこで事件が起きる。 現在学園で騒動を起こしている第二王子とその友人達に勘違いから暴行を受け階段から落ちてしまう… その時に前世の記憶を取り戻すのだった… 「悪役令嬢の兄の婚約者って…」 なんとも微妙なポジション。 しかも結婚前夜で傷物になる失態を犯してしまったリネットは婚約解消を望むのだが、悪役令嬢の義妹が王子に婚約破棄を突きつける事件に発展してしまう。

やんちゃな公爵令嬢の駆け引き~不倫現場を目撃して~

岡暁舟
恋愛
 名門公爵家の出身トスカーナと婚約することになった令嬢のエリザベート・キンダリーは、ある日トスカーナの不倫現場を目撃してしまう。怒り狂ったキンダリーはトスカーナに復讐をする?

全てを捨てて消え去ろうとしたのですが…なぜか殿下に執着されています

Karamimi
恋愛
侯爵令嬢のセーラは、1人崖から海を見つめていた。大好きだった父は、2ヶ月前に事故死。愛していた婚約者、ワイアームは、公爵令嬢のレイリスに夢中。 さらにレイリスに酷い事をしたという噂まで流されたセーラは、貴族世界で完全に孤立していた。独りぼっちになってしまった彼女は、絶望の中海を見つめる。 “私さえいなくなれば、皆幸せになれる” そう強く思ったセーラは、子供の頃から大好きだった歌を口ずさみながら、海に身を投げたのだった。 一方、婚約者でもあるワイアームもまた、一人孤独な戦いをしていた。それもこれも、愛するセーラを守るため。 そんなワイアームの気持ちなど全く知らないセーラは… 龍の血を受け継いだワイアームと、海神の娘の血を受け継いだセーラの恋の物語です。 ご都合主義全開、ファンタジー要素が強め?な作品です。 よろしくお願いいたします。 ※カクヨム、小説家になろうでも同時配信しています。

もう我慢したくないので自由に生きます~一夫多妻の救済策~

岡暁舟
恋愛
第一王子ヘンデルの妻の一人である、かつての侯爵令嬢マリアは、自分がもはや好かれていないことを悟った。 「これからは自由に生きます」 そう言い張るマリアに対して、ヘンデルは、 「勝手にしろ」 と突き放した。

多分悪役令嬢ですが、うっかりヒーローを餌付けして執着されています

結城芙由奈@コミカライズ連載中
恋愛
【美味しそう……? こ、これは誰にもあげませんから!】 23歳、ブラック企業で働いている社畜OLの私。この日も帰宅は深夜過ぎ。泥のように眠りに着き、目覚めれば綺羅びやかな部屋にいた。しかも私は意地悪な貴族令嬢のようで使用人たちはビクビクしている。ひょっとして私って……悪役令嬢? テンプレ通りなら、将来破滅してしまうかも! そこで、細くても長く生きるために、目立たず空気のように生きようと決めた。それなのに、ひょんな出来事からヒーロー? に執着される羽目に……。 お願いですから、私に構わないで下さい! ※ 他サイトでも投稿中

タイムリープ〜悪女の烙印を押された私はもう二度と失敗しない

結城芙由奈@コミカライズ連載中
恋愛
<もうあなた方の事は信じません>―私が二度目の人生を生きている事は誰にも内緒― 私の名前はアイリス・イリヤ。王太子の婚約者だった。2年越しにようやく迎えた婚約式の発表の日、何故か<私>は大観衆の中にいた。そして婚約者である王太子の側に立っていたのは彼に付きまとっていたクラスメイト。この国の国王陛下は告げた。 「アイリス・イリヤとの婚約を解消し、ここにいるタバサ・オルフェンを王太子の婚約者とする!」 その場で身に覚えの無い罪で悪女として捕らえられた私は島流しに遭い、寂しい晩年を迎えた・・・はずが、守護神の力で何故か婚約式発表の2年前に逆戻り。タイムリープの力ともう一つの力を手に入れた二度目の人生。目の前には私を騙した人達がいる。もう騙されない。同じ失敗は繰り返さないと私は心に誓った。 ※カクヨム・小説家になろうにも掲載しています

さようなら、私の愛したあなた。

希猫 ゆうみ
恋愛
オースルンド伯爵家の令嬢カタリーナは、幼馴染であるロヴネル伯爵家の令息ステファンを心から愛していた。いつか結婚するものと信じて生きてきた。 ところが、ステファンは爵位継承と同時にカールシュテイン侯爵家の令嬢ロヴィーサとの婚約を発表。 「君の恋心には気づいていた。だが、私は違うんだ。さようなら、カタリーナ」 ステファンとの未来を失い茫然自失のカタリーナに接近してきたのは、社交界で知り合ったドグラス。 ドグラスは王族に連なるノルディーン公爵の末子でありマルムフォーシュ伯爵でもある超上流貴族だったが、不埒な噂の絶えない人物だった。 「あなたと遊ぶほど落ちぶれてはいません」 凛とした態度を崩さないカタリーナに、ドグラスがある秘密を打ち明ける。 なんとドグラスは王家の密偵であり、偽装として遊び人のように振舞っているのだという。 「俺に協力してくれたら、ロヴィーサ嬢の真実を教えてあげよう」 こうして密偵助手となったカタリーナは、幾つかの真実に触れながら本当の愛に辿り着く。

処理中です...