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第21話 町娘アンジェからみたリノの歌
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『旅立ちの旋律 ―王都の夕暮れにて―(アンジェ視点)』
セント・オルソ広場に、風が吹いていた。
夕暮れの空は茜色に染まり、石畳には金と赤の光が揺れていた。噴水の水音と、かすかな笛の旋律が街の喧騒に溶けていく。私は市場の帰り道、いつものように広場を通りかかった。何かの準備が行われているのは、昼のうちから知っていた。
「マリーナ音楽隊が演奏するんだって!」
年下の女の子がそう言って跳ねるように駆けていったのを思い出す。マリーナ隊は王都でも評判の旅芸人集団。演奏技術はもちろん、メンバーの美貌や演出も話題になることが多い。けれど、正直私はそれほど音楽に詳しいわけでもなかった。
それでも――なぜだか今日は、立ち止まりたくなった。
人だかりの後ろの方、石畳に立ったまま。冷たいパンの入ったかごを抱えて、私はその始まりを待っていた。
舞台の中央に、少女が立った。
見慣れない顔だった。たぶん新入りなのだろう。黒髪で、小柄で……何より、その立ち姿が少しだけ、震えていた。
(ああ……あの感じ、わかる)
私は少しだけ、自分の昔を思い出した。家を出て初めて市場に立ったとき。見知らぬ人の中で、ひとり、名もない自分が何かをしようとしたとき。怖くて、震えて、それでも笑おうとした――あのときの私と、どこか似ていた。
少女は息を吸い、そして――歌った。
♪――君のいない空の下で 何度も夢を見た――♪
静かな歌声だった。ふわりと空気に乗って、街のざわめきをすくい取るようにして広がっていった。最初は、誰もが気にも留めなかった。ただの新入りの挨拶か、と思っていたのかもしれない。
でも違った。
その歌は、何かを抱えた人間の心を、そっと掬い上げるような……そんな響きだった。
(……あたたかい)
そう思った瞬間、涙が出そうになった。なんの前触れもなく、胸の奥にこみあげてくるものがあった。歌詞の意味がどうこうではない。メロディが綺麗だったからでもない。もっと、ずっと、心の奥を揺さぶる“何か”が、あの少女の声には込められていた。
ああ、たぶん――
あの子も、きっとどこかでひとりだったのだ。
誰にも届かない声を抱えて、それでも生きたかったのだ。
♪――けれどこの声がある限り きっと歩いていける――♪
そのフレーズを聞いたとき、私はもう立っているだけで精一杯だった。手のひらの中にあるパンの重さも、足の裏の感覚も消えていくような気がした。世界が、歌だけに包まれていた。
気がつけば、歌は終わっていた。
広場は静かだった。皆が、何か言おうとして、言葉を失っていた。そして、一人の子どもがぽつりと手を叩いた。
それが、波のように広がっていった。
「……すごい……」
誰かがそう呟いた。私も、口を開いた。
「……本当に、すごい……」
見ず知らずの人が、たった一つの歌で、こんなにも心を動かすことができるなんて――
私は、その場を動けずにいた。立ち尽くして、空を見上げる。茜色はすでに深くなり、広場に灯りがともり始めていた。
舞台の上で、少女が目を閉じた。拍手の中で、笑うでも泣くでもなく、ただ静かに、そこにいた。
その姿が、あまりにも凛として、美しかった。
その夜、私は家に帰っても眠れなかった。
あの歌が、ずっと頭から離れなかった。
どうしてあんなにも、心に響いたのか。わからない。ただ一つだけ、確かなのは――
「わたしも、もう一度……頑張ってみようかな」
小さく、そう呟いた。
市場の雑踏の中で名前を持たないパン売り娘だった私にも、“声”はあるのかもしれない。歌ではなくとも、人に何かを届ける方法があるのだと、そう思わせてくれた。
あの少女の歌が、誰かの“明日”を変えたように。
そしてそれは、きっと――今日の私の“明日”でもあるのだ。
その翌日、私はパンにほんの少しのスパイスを加えて焼いてみた。
誰かの心に、何か残るようにと願って。
それが、私にとっての“歌”だった。
王都の片隅に、名もなきパン屋がある。
そこには、ひとりの娘が、あの歌を胸に、今日も焼き立てのパンを並べている。
そしてふと、広場を通るたび、あの夜の旋律を、そっと口ずさむのだった。
――旅立ちの旋律は、確かに王都の娘の心にも届いていた。
セント・オルソ広場に、風が吹いていた。
夕暮れの空は茜色に染まり、石畳には金と赤の光が揺れていた。噴水の水音と、かすかな笛の旋律が街の喧騒に溶けていく。私は市場の帰り道、いつものように広場を通りかかった。何かの準備が行われているのは、昼のうちから知っていた。
「マリーナ音楽隊が演奏するんだって!」
年下の女の子がそう言って跳ねるように駆けていったのを思い出す。マリーナ隊は王都でも評判の旅芸人集団。演奏技術はもちろん、メンバーの美貌や演出も話題になることが多い。けれど、正直私はそれほど音楽に詳しいわけでもなかった。
それでも――なぜだか今日は、立ち止まりたくなった。
人だかりの後ろの方、石畳に立ったまま。冷たいパンの入ったかごを抱えて、私はその始まりを待っていた。
舞台の中央に、少女が立った。
見慣れない顔だった。たぶん新入りなのだろう。黒髪で、小柄で……何より、その立ち姿が少しだけ、震えていた。
(ああ……あの感じ、わかる)
私は少しだけ、自分の昔を思い出した。家を出て初めて市場に立ったとき。見知らぬ人の中で、ひとり、名もない自分が何かをしようとしたとき。怖くて、震えて、それでも笑おうとした――あのときの私と、どこか似ていた。
少女は息を吸い、そして――歌った。
♪――君のいない空の下で 何度も夢を見た――♪
静かな歌声だった。ふわりと空気に乗って、街のざわめきをすくい取るようにして広がっていった。最初は、誰もが気にも留めなかった。ただの新入りの挨拶か、と思っていたのかもしれない。
でも違った。
その歌は、何かを抱えた人間の心を、そっと掬い上げるような……そんな響きだった。
(……あたたかい)
そう思った瞬間、涙が出そうになった。なんの前触れもなく、胸の奥にこみあげてくるものがあった。歌詞の意味がどうこうではない。メロディが綺麗だったからでもない。もっと、ずっと、心の奥を揺さぶる“何か”が、あの少女の声には込められていた。
ああ、たぶん――
あの子も、きっとどこかでひとりだったのだ。
誰にも届かない声を抱えて、それでも生きたかったのだ。
♪――けれどこの声がある限り きっと歩いていける――♪
そのフレーズを聞いたとき、私はもう立っているだけで精一杯だった。手のひらの中にあるパンの重さも、足の裏の感覚も消えていくような気がした。世界が、歌だけに包まれていた。
気がつけば、歌は終わっていた。
広場は静かだった。皆が、何か言おうとして、言葉を失っていた。そして、一人の子どもがぽつりと手を叩いた。
それが、波のように広がっていった。
「……すごい……」
誰かがそう呟いた。私も、口を開いた。
「……本当に、すごい……」
見ず知らずの人が、たった一つの歌で、こんなにも心を動かすことができるなんて――
私は、その場を動けずにいた。立ち尽くして、空を見上げる。茜色はすでに深くなり、広場に灯りがともり始めていた。
舞台の上で、少女が目を閉じた。拍手の中で、笑うでも泣くでもなく、ただ静かに、そこにいた。
その姿が、あまりにも凛として、美しかった。
その夜、私は家に帰っても眠れなかった。
あの歌が、ずっと頭から離れなかった。
どうしてあんなにも、心に響いたのか。わからない。ただ一つだけ、確かなのは――
「わたしも、もう一度……頑張ってみようかな」
小さく、そう呟いた。
市場の雑踏の中で名前を持たないパン売り娘だった私にも、“声”はあるのかもしれない。歌ではなくとも、人に何かを届ける方法があるのだと、そう思わせてくれた。
あの少女の歌が、誰かの“明日”を変えたように。
そしてそれは、きっと――今日の私の“明日”でもあるのだ。
その翌日、私はパンにほんの少しのスパイスを加えて焼いてみた。
誰かの心に、何か残るようにと願って。
それが、私にとっての“歌”だった。
王都の片隅に、名もなきパン屋がある。
そこには、ひとりの娘が、あの歌を胸に、今日も焼き立てのパンを並べている。
そしてふと、広場を通るたび、あの夜の旋律を、そっと口ずさむのだった。
――旅立ちの旋律は、確かに王都の娘の心にも届いていた。
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