50 / 66
前世2話 ガラスの誕生日
しおりを挟む
『ガラスの誕生日』
午後6時59分。秒針が音を立てて、ゆっくりと「7」の上に重なっていく。
(来る……)
インターホンが鳴る。
反射的に立ち上がり、スカートの裾を整えた。
モニターには、黒いポロシャツ姿の男が映っている。
圭太だった。少しだけ髪が乱れていて、呼吸が浅い。走って来たのだろうか。
(……来てくれた)
そう思った瞬間、胸が温かくなった。
ドアを開ける手が少し震える。
「……いらっしゃい」
「……ああ。ごめん、時間ギリギリになって」
圭太の声はいつも通りだった。だが、どこか声に“張り”がないように感じた。
顔も、笑ってはいるけれど、目が笑っていない。
(……疲れてるのかな)
と、思った。最初は。
「入って。冷えた白ワイン、あるよ。ケーキも……」
「いや……さつき。ちょっと、座ってくれる?」
その言い方が、胸に引っかかった。
軽く、でも切実に拒絶の匂いが混じる声だった。
彼の目が、テーブルの上のレースクロスと、飾られたケーキにわずかに動く。
そして視線を逸らした。
「……なんか、ごめんな。こうなるの、分かってたら……」
「え?」
言葉が止まる。
次に来る言葉を、なぜか本能が察していた。
けれど、それを拒否したかった。
「今日、さつきの誕生日なのは……分かってたよ。プレゼントも……ほんとは買ってあったんだけど」
「やめてよ、圭太……何の話?」
声がかすれる。喉が締め付けられるようだった。
「……別れよう」
その言葉は、柔らかい毛布に包まれていた。
でも、その分、鋭く胸に突き刺さった。
「……え?」
「別れようって、今日……言いに来た」
その瞬間、時間が止まった気がした。
部屋の空気が、まるで真空になったかのように、音が消えた。
心臓の鼓動さえ、遠くに感じた。
「……冗談、でしょ?」
言いながら、笑ってしまいそうになる。でも、声は震えていた。
圭太は、目を逸らしたまま、頷いた。
「本当に……? 今日、わたしの誕生日だよ?」
「……分かってる。ほんとに、最低だと思ってる。でも……ちゃんと話そうと思って」
「なんで……? なんで急に……? 仕事、うまくいってないとか……?」
焦って、原因を探した。必死だった。
だけど、圭太の次の言葉は――残酷すぎた。
「受付の……新人の子、いるだろ? 千夏ちゃん」
その名前を聞いた瞬間、全身に冷たい血が流れた。
「……うん。いるけど。何?」
「……妊娠した」
「……」
声が出なかった。
「オレ……あの子と、関係があって。でも、軽い気持ちじゃなかったんだ。少なくとも……途中からは」
言い訳にもならない言葉が、続いていく。
さつきの目の前で、全てが崩れていく音がした。
「……責任、取るって決めた」
「……わたしとの、三年間は?」
やっと、口が動いた。声が掠れて、自分の声とは思えなかった。
「ごめん。本当に……ごめん。でも、もう決めたんだ」
ごめん、じゃない。
誰が許した? なぜ“決める”のはいつもあなただけ?
「あと……これは、言いづらいんだけどさ」
まだあるのか、と心が叫ぶ。
それでも黙って聞いた。
「同じ部署だと……やっぱ気まずいし。オレ、昇進の話もあるから……」
そのとき、さつきはすべてを悟った。
「……わたしに異動しろってこと?」
圭太は、何も言わなかった。
だが、沈黙はすべてを語っていた。
「人事に……一応、話は通してある。今度、業務支援チームに空きが出るから」
自分の将来も、仕事も、全部、勝手に決められていた。
“あなたが気まずいから”――その理由だけで。
「彼女……その千夏さんって人と、結婚するの?」
しばらくして、彼は頷いた。
「来月、顔合わせする。式場も、週末に見に行く予定なんだ」
そう言って、立ち上がった。
ワインのグラスには一滴も口をつけなかった。
さつきのために飾ったケーキも、目もくれなかった。
「本当に、ごめんな」
圭太は、玄関に向かう。
そして、そのまま振り返らず、出て行った。
***
部屋には、静寂だけが残った。
壁時計が、一定のリズムで刻み続けている。
まるで、すべてが“なかったこと”のように。
目の前のケーキに、ロウソクは立てていなかった。
「二人で吹き消そう」って、そう思っていたから。
でも、もう、火を灯すことすらできない。
手が震えて、グラスに触れた拍子に、倒れて床に転がる。
白ワインが、レースクロスに染み込んでいく。
それを、ただ、見つめるしかできなかった。
さつきは、ただひとり、リビングの床に膝をついていた。
全身が震えて、冷たくて、息ができなかった。
期待していた。信じていた。
彼と、未来をつくっていけると。
ささやかな幸せを、手にできると。
でも――現実は、あまりにもあっけなく、それを奪っていった。
誕生日。
29歳の、たった一度きりの、今日。
彼は、彼女に“終わり”を告げた。
そして、新しい“始まり”を、別の誰かと始めるのだという。
午後6時59分。秒針が音を立てて、ゆっくりと「7」の上に重なっていく。
(来る……)
インターホンが鳴る。
反射的に立ち上がり、スカートの裾を整えた。
モニターには、黒いポロシャツ姿の男が映っている。
圭太だった。少しだけ髪が乱れていて、呼吸が浅い。走って来たのだろうか。
(……来てくれた)
そう思った瞬間、胸が温かくなった。
ドアを開ける手が少し震える。
「……いらっしゃい」
「……ああ。ごめん、時間ギリギリになって」
圭太の声はいつも通りだった。だが、どこか声に“張り”がないように感じた。
顔も、笑ってはいるけれど、目が笑っていない。
(……疲れてるのかな)
と、思った。最初は。
「入って。冷えた白ワイン、あるよ。ケーキも……」
「いや……さつき。ちょっと、座ってくれる?」
その言い方が、胸に引っかかった。
軽く、でも切実に拒絶の匂いが混じる声だった。
彼の目が、テーブルの上のレースクロスと、飾られたケーキにわずかに動く。
そして視線を逸らした。
「……なんか、ごめんな。こうなるの、分かってたら……」
「え?」
言葉が止まる。
次に来る言葉を、なぜか本能が察していた。
けれど、それを拒否したかった。
「今日、さつきの誕生日なのは……分かってたよ。プレゼントも……ほんとは買ってあったんだけど」
「やめてよ、圭太……何の話?」
声がかすれる。喉が締め付けられるようだった。
「……別れよう」
その言葉は、柔らかい毛布に包まれていた。
でも、その分、鋭く胸に突き刺さった。
「……え?」
「別れようって、今日……言いに来た」
その瞬間、時間が止まった気がした。
部屋の空気が、まるで真空になったかのように、音が消えた。
心臓の鼓動さえ、遠くに感じた。
「……冗談、でしょ?」
言いながら、笑ってしまいそうになる。でも、声は震えていた。
圭太は、目を逸らしたまま、頷いた。
「本当に……? 今日、わたしの誕生日だよ?」
「……分かってる。ほんとに、最低だと思ってる。でも……ちゃんと話そうと思って」
「なんで……? なんで急に……? 仕事、うまくいってないとか……?」
焦って、原因を探した。必死だった。
だけど、圭太の次の言葉は――残酷すぎた。
「受付の……新人の子、いるだろ? 千夏ちゃん」
その名前を聞いた瞬間、全身に冷たい血が流れた。
「……うん。いるけど。何?」
「……妊娠した」
「……」
声が出なかった。
「オレ……あの子と、関係があって。でも、軽い気持ちじゃなかったんだ。少なくとも……途中からは」
言い訳にもならない言葉が、続いていく。
さつきの目の前で、全てが崩れていく音がした。
「……責任、取るって決めた」
「……わたしとの、三年間は?」
やっと、口が動いた。声が掠れて、自分の声とは思えなかった。
「ごめん。本当に……ごめん。でも、もう決めたんだ」
ごめん、じゃない。
誰が許した? なぜ“決める”のはいつもあなただけ?
「あと……これは、言いづらいんだけどさ」
まだあるのか、と心が叫ぶ。
それでも黙って聞いた。
「同じ部署だと……やっぱ気まずいし。オレ、昇進の話もあるから……」
そのとき、さつきはすべてを悟った。
「……わたしに異動しろってこと?」
圭太は、何も言わなかった。
だが、沈黙はすべてを語っていた。
「人事に……一応、話は通してある。今度、業務支援チームに空きが出るから」
自分の将来も、仕事も、全部、勝手に決められていた。
“あなたが気まずいから”――その理由だけで。
「彼女……その千夏さんって人と、結婚するの?」
しばらくして、彼は頷いた。
「来月、顔合わせする。式場も、週末に見に行く予定なんだ」
そう言って、立ち上がった。
ワインのグラスには一滴も口をつけなかった。
さつきのために飾ったケーキも、目もくれなかった。
「本当に、ごめんな」
圭太は、玄関に向かう。
そして、そのまま振り返らず、出て行った。
***
部屋には、静寂だけが残った。
壁時計が、一定のリズムで刻み続けている。
まるで、すべてが“なかったこと”のように。
目の前のケーキに、ロウソクは立てていなかった。
「二人で吹き消そう」って、そう思っていたから。
でも、もう、火を灯すことすらできない。
手が震えて、グラスに触れた拍子に、倒れて床に転がる。
白ワインが、レースクロスに染み込んでいく。
それを、ただ、見つめるしかできなかった。
さつきは、ただひとり、リビングの床に膝をついていた。
全身が震えて、冷たくて、息ができなかった。
期待していた。信じていた。
彼と、未来をつくっていけると。
ささやかな幸せを、手にできると。
でも――現実は、あまりにもあっけなく、それを奪っていった。
誕生日。
29歳の、たった一度きりの、今日。
彼は、彼女に“終わり”を告げた。
そして、新しい“始まり”を、別の誰かと始めるのだという。
62
あなたにおすすめの小説
乙女ゲームの悪役令嬢の兄の婚約者に転生しましたが傷物になったので退場を希望します!
ユウ
恋愛
平凡な伯爵令嬢のリネットは優しい婚約者と妹と穏やかで幸福な日々を送っていた。
相手は公爵家の嫡男であり第一王子殿下の側近で覚えもめでたく社交界の憧れの漆黒の騎士と呼ばれる貴族令息だった。
結婚式前夜、婚約者の妹に会いに学園に向かったが、そこで事件が起きる。
現在学園で騒動を起こしている第二王子とその友人達に勘違いから暴行を受け階段から落ちてしまう…
その時に前世の記憶を取り戻すのだった…
「悪役令嬢の兄の婚約者って…」
なんとも微妙なポジション。
しかも結婚前夜で傷物になる失態を犯してしまったリネットは婚約解消を望むのだが、悪役令嬢の義妹が王子に婚約破棄を突きつける事件に発展してしまう。
やんちゃな公爵令嬢の駆け引き~不倫現場を目撃して~
岡暁舟
恋愛
名門公爵家の出身トスカーナと婚約することになった令嬢のエリザベート・キンダリーは、ある日トスカーナの不倫現場を目撃してしまう。怒り狂ったキンダリーはトスカーナに復讐をする?
もう我慢したくないので自由に生きます~一夫多妻の救済策~
岡暁舟
恋愛
第一王子ヘンデルの妻の一人である、かつての侯爵令嬢マリアは、自分がもはや好かれていないことを悟った。
「これからは自由に生きます」
そう言い張るマリアに対して、ヘンデルは、
「勝手にしろ」
と突き放した。
全てを捨てて消え去ろうとしたのですが…なぜか殿下に執着されています
Karamimi
恋愛
侯爵令嬢のセーラは、1人崖から海を見つめていた。大好きだった父は、2ヶ月前に事故死。愛していた婚約者、ワイアームは、公爵令嬢のレイリスに夢中。
さらにレイリスに酷い事をしたという噂まで流されたセーラは、貴族世界で完全に孤立していた。独りぼっちになってしまった彼女は、絶望の中海を見つめる。
“私さえいなくなれば、皆幸せになれる”
そう強く思ったセーラは、子供の頃から大好きだった歌を口ずさみながら、海に身を投げたのだった。
一方、婚約者でもあるワイアームもまた、一人孤独な戦いをしていた。それもこれも、愛するセーラを守るため。
そんなワイアームの気持ちなど全く知らないセーラは…
龍の血を受け継いだワイアームと、海神の娘の血を受け継いだセーラの恋の物語です。
ご都合主義全開、ファンタジー要素が強め?な作品です。
よろしくお願いいたします。
※カクヨム、小説家になろうでも同時配信しています。
さようなら、私の愛したあなた。
希猫 ゆうみ
恋愛
オースルンド伯爵家の令嬢カタリーナは、幼馴染であるロヴネル伯爵家の令息ステファンを心から愛していた。いつか結婚するものと信じて生きてきた。
ところが、ステファンは爵位継承と同時にカールシュテイン侯爵家の令嬢ロヴィーサとの婚約を発表。
「君の恋心には気づいていた。だが、私は違うんだ。さようなら、カタリーナ」
ステファンとの未来を失い茫然自失のカタリーナに接近してきたのは、社交界で知り合ったドグラス。
ドグラスは王族に連なるノルディーン公爵の末子でありマルムフォーシュ伯爵でもある超上流貴族だったが、不埒な噂の絶えない人物だった。
「あなたと遊ぶほど落ちぶれてはいません」
凛とした態度を崩さないカタリーナに、ドグラスがある秘密を打ち明ける。
なんとドグラスは王家の密偵であり、偽装として遊び人のように振舞っているのだという。
「俺に協力してくれたら、ロヴィーサ嬢の真実を教えてあげよう」
こうして密偵助手となったカタリーナは、幾つかの真実に触れながら本当の愛に辿り着く。
【完結】番としか子供が産まれない世界で
さくらもち
恋愛
番との間にしか子供が産まれない世界に産まれたニーナ。
何故か親から要らない子扱いされる不遇な子供時代に番と言う概念すら知らないまま育った。
そんなニーナが番に出会うまで
4話完結
出会えたところで話は終わってます。
多分悪役令嬢ですが、うっかりヒーローを餌付けして執着されています
結城芙由奈@コミカライズ連載中
恋愛
【美味しそう……? こ、これは誰にもあげませんから!】
23歳、ブラック企業で働いている社畜OLの私。この日も帰宅は深夜過ぎ。泥のように眠りに着き、目覚めれば綺羅びやかな部屋にいた。しかも私は意地悪な貴族令嬢のようで使用人たちはビクビクしている。ひょっとして私って……悪役令嬢? テンプレ通りなら、将来破滅してしまうかも!
そこで、細くても長く生きるために、目立たず空気のように生きようと決めた。それなのに、ひょんな出来事からヒーロー? に執着される羽目に……。
お願いですから、私に構わないで下さい!
※ 他サイトでも投稿中
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる