婚約破棄されたトリノは、継母や姉たちや使用人からもいじめられているので、前世の記憶を思い出し、家から脱走して旅にでる!

山田 バルス

文字の大きさ
51 / 66

前世3話 笑顔のままで、泣いていた

しおりを挟む
『笑顔のままで、泣いていた』

 やることが――なくなった。

 夜の9時を過ぎたばかり。
 誕生日の夜だというのに、部屋は暗いまま、ケーキと白ワインだけが無言でテーブルに残されていた。

 スマホを手にしても、LINEは無反応だった。
 彼からのメッセージはもう来ない。通知音ひとつ鳴らない画面が、ますます孤独を際立たせる。

 部屋にいるのが、つらかった。
 壁も、天井も、家具も、すべてが圭太との時間を知っていた。
 それが今は、ひどく無機質で、よそよそしい。

 (……帰ってきても、もういないんだな)

 その事実だけが、部屋の中に深く沈んでいた。

 ふと、バッグの中にカラオケのクーポンがあることを思い出した。
 以前、同僚に誘われて使い損ねたもの。期限は、今日だった。

 「……一人で行っても、別にいいよね」

 つぶやいて、着替えもせず、そのまま外に出た。

 



 「いらっしゃいませー! おひとり様ですね!」

 駅前のカラオケチェーン店は、金曜の夜でにぎわっていた。
 けれど、個室に入ってしまえば、外の喧騒はシャットアウトされる。

 スマホで入室手続きを済ませて、小さな部屋に通される。
 ソファとテーブル、そして液晶画面。
 見慣れた光景のはずなのに、なぜか妙に新鮮だった。

 (そういえば、一人カラオケなんて……何年ぶりだろう)

 圭太と来たこともあった。
 けれど今日は、ひとり。
 ひとりきりで、何も気を使わずに歌えるのだ。

 ドリンクバーから戻り、リモコンで最初の曲を入れた。

 選んだのは、大好きなアイドルグループの明るいポップソング。
 失恋の夜に似つかわしくはない。でも、悲しいバラードを選ぶと、本当に落ちてしまいそうだった。

 曲が始まる。軽快なリズム。スクリーンに映る、笑顔の女の子たち。

 「♪恋してる この胸が はちきれそうなまま~」

 軽く体を揺らしながら、口ずさむ。
 誰にも見られていない安心感。音程がズレても構わない。
 マイクを握る手が熱を帯びてくる。

 (……楽しいかも)

 思った。
 何も考えず、ただ声を出して、好きな歌を歌う。
 喉から音を出すたび、心の奥にたまっていた何かが、少しずつ外に逃げていく気がした。

 続けて、もっと明るい曲を入れる。
 学生時代にカラオケでよく歌っていた、アニメソング。
 サビで声を張ると、胸がすっとした。
 気づけばリズムに乗って、肩が弾み、マイクを両手で抱えていた。

 ひとつ、またひとつ。
 懐かしい曲、元気な曲、早口のラップに挑戦したりもしてみた。

 (……あはは、うまく言えない……!)

 笑った。
 本当に、自然に、笑っていた。

 「こんな日でも……楽しいことって、あるんだな」

 思わず漏らした言葉に、自分でも驚いた。
 歌っている間だけは、圭太のことも、裏切りも、部署異動も、忘れられていたのだ。

 けれど――

 ある瞬間、不意に、涙がつっとこぼれた。

 頬を伝って、マイクにぽとりと落ちた。

 「……え?」

 歌っている最中だった。
 楽しい曲だった。
 なのに、涙が止まらない。

 頬を拭っても、次の涙が滲んでくる。

 「……どうして?」

 自分でも分からなかった。
 楽しい。気持ちは確かに高揚していた。
 けれど、胸の奥が痛いほど締めつけられていた。

 (……わたし、本当は)

 気づきたくなかった気持ちが、こぼれ出す。

 (……本当は、すごく、悲しいんだ)

 気づかないふりをしていた。
 明るい歌で、笑顔を引っ張り出して、ごまかしていた。
 でも、心は知っていたのだ。
 今日、自分の人生が、ガラガラと音を立てて崩れたことを。

 圭太と笑い合っていた日々。
 一緒に歩いた夜道。
 「さつきの手、ちっちゃいな」と笑ったその声。

 それらが、もう二度と戻ってこないのだという現実。

 「……うそ、でしょ」

 泣きながら、また曲を入れた。
 泣きながら、笑える曲を選んだ。

 「♪幸せってさ 形じゃなくて~」

 画面の中の明るい女の子が、楽しげに踊っていた。
 それに合わせて、涙を拭いながら、声を出す。

 部屋の中には、音楽と、鼻をすする音が混ざっていた。

 ひとりきりのカラオケボックス。
 そこにあるのは、楽しい音と、悲しい心だった。

 だけど、確かに“救い”はあった。

 泣きながら歌って、歌いながら泣いて――
 少しずつ、ほんの少しずつ、心の芯が温まっていく気がした。

 



 「……2時間です。延長いかがなさいますか?」

 スタッフの声に驚いて、時計を見る。もう23時。

 さつきは軽く首を振った。

 「大丈夫です。……ありがとう」

 部屋を出ると、廊下の向こうから誰かの歌声が聞こえた。
 笑い声も混じっていた。グループ客だろう。
 でも、さつきは、少しだけ強くなったような気がした。

 カラオケの出口を出ると、夜風が頬を冷やした。
 それが、泣き腫らした目にちょうどよかった。

 (……明日から、ちゃんと起きよう)

 ふと、そんな思いが浮かんだ。

 もう、圭太はいない。
 裏切りも、痛みも、現実だ。

 でも――

 楽しい歌を、涙の中で歌った夜が、さつきにひとつの証を与えてくれた。

 「ひとりでも、生きていける」

 そう思えたことが、今夜のいちばんの贈り物だった。
しおりを挟む
感想 9

あなたにおすすめの小説

拝啓~私に婚約破棄を宣告した公爵様へ~

岡暁舟
恋愛
公爵様に宣言された婚約破棄……。あなたは正気ですか?そうですか。ならば、私も全力で行きましょう。全力で!!!

乙女ゲームの悪役令嬢の兄の婚約者に転生しましたが傷物になったので退場を希望します!

ユウ
恋愛
平凡な伯爵令嬢のリネットは優しい婚約者と妹と穏やかで幸福な日々を送っていた。 相手は公爵家の嫡男であり第一王子殿下の側近で覚えもめでたく社交界の憧れの漆黒の騎士と呼ばれる貴族令息だった。 結婚式前夜、婚約者の妹に会いに学園に向かったが、そこで事件が起きる。 現在学園で騒動を起こしている第二王子とその友人達に勘違いから暴行を受け階段から落ちてしまう… その時に前世の記憶を取り戻すのだった… 「悪役令嬢の兄の婚約者って…」 なんとも微妙なポジション。 しかも結婚前夜で傷物になる失態を犯してしまったリネットは婚約解消を望むのだが、悪役令嬢の義妹が王子に婚約破棄を突きつける事件に発展してしまう。

やんちゃな公爵令嬢の駆け引き~不倫現場を目撃して~

岡暁舟
恋愛
 名門公爵家の出身トスカーナと婚約することになった令嬢のエリザベート・キンダリーは、ある日トスカーナの不倫現場を目撃してしまう。怒り狂ったキンダリーはトスカーナに復讐をする?

もう我慢したくないので自由に生きます~一夫多妻の救済策~

岡暁舟
恋愛
第一王子ヘンデルの妻の一人である、かつての侯爵令嬢マリアは、自分がもはや好かれていないことを悟った。 「これからは自由に生きます」 そう言い張るマリアに対して、ヘンデルは、 「勝手にしろ」 と突き放した。

全てを捨てて消え去ろうとしたのですが…なぜか殿下に執着されています

Karamimi
恋愛
侯爵令嬢のセーラは、1人崖から海を見つめていた。大好きだった父は、2ヶ月前に事故死。愛していた婚約者、ワイアームは、公爵令嬢のレイリスに夢中。 さらにレイリスに酷い事をしたという噂まで流されたセーラは、貴族世界で完全に孤立していた。独りぼっちになってしまった彼女は、絶望の中海を見つめる。 “私さえいなくなれば、皆幸せになれる” そう強く思ったセーラは、子供の頃から大好きだった歌を口ずさみながら、海に身を投げたのだった。 一方、婚約者でもあるワイアームもまた、一人孤独な戦いをしていた。それもこれも、愛するセーラを守るため。 そんなワイアームの気持ちなど全く知らないセーラは… 龍の血を受け継いだワイアームと、海神の娘の血を受け継いだセーラの恋の物語です。 ご都合主義全開、ファンタジー要素が強め?な作品です。 よろしくお願いいたします。 ※カクヨム、小説家になろうでも同時配信しています。

さようなら、私の愛したあなた。

希猫 ゆうみ
恋愛
オースルンド伯爵家の令嬢カタリーナは、幼馴染であるロヴネル伯爵家の令息ステファンを心から愛していた。いつか結婚するものと信じて生きてきた。 ところが、ステファンは爵位継承と同時にカールシュテイン侯爵家の令嬢ロヴィーサとの婚約を発表。 「君の恋心には気づいていた。だが、私は違うんだ。さようなら、カタリーナ」 ステファンとの未来を失い茫然自失のカタリーナに接近してきたのは、社交界で知り合ったドグラス。 ドグラスは王族に連なるノルディーン公爵の末子でありマルムフォーシュ伯爵でもある超上流貴族だったが、不埒な噂の絶えない人物だった。 「あなたと遊ぶほど落ちぶれてはいません」 凛とした態度を崩さないカタリーナに、ドグラスがある秘密を打ち明ける。 なんとドグラスは王家の密偵であり、偽装として遊び人のように振舞っているのだという。 「俺に協力してくれたら、ロヴィーサ嬢の真実を教えてあげよう」 こうして密偵助手となったカタリーナは、幾つかの真実に触れながら本当の愛に辿り着く。

【完結】番としか子供が産まれない世界で

さくらもち
恋愛
番との間にしか子供が産まれない世界に産まれたニーナ。 何故か親から要らない子扱いされる不遇な子供時代に番と言う概念すら知らないまま育った。 そんなニーナが番に出会うまで 4話完結 出会えたところで話は終わってます。

多分悪役令嬢ですが、うっかりヒーローを餌付けして執着されています

結城芙由奈@コミカライズ連載中
恋愛
【美味しそう……? こ、これは誰にもあげませんから!】 23歳、ブラック企業で働いている社畜OLの私。この日も帰宅は深夜過ぎ。泥のように眠りに着き、目覚めれば綺羅びやかな部屋にいた。しかも私は意地悪な貴族令嬢のようで使用人たちはビクビクしている。ひょっとして私って……悪役令嬢? テンプレ通りなら、将来破滅してしまうかも! そこで、細くても長く生きるために、目立たず空気のように生きようと決めた。それなのに、ひょんな出来事からヒーロー? に執着される羽目に……。 お願いですから、私に構わないで下さい! ※ 他サイトでも投稿中

処理中です...