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前世3話 笑顔のままで、泣いていた
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『笑顔のままで、泣いていた』
やることが――なくなった。
夜の9時を過ぎたばかり。
誕生日の夜だというのに、部屋は暗いまま、ケーキと白ワインだけが無言でテーブルに残されていた。
スマホを手にしても、LINEは無反応だった。
彼からのメッセージはもう来ない。通知音ひとつ鳴らない画面が、ますます孤独を際立たせる。
部屋にいるのが、つらかった。
壁も、天井も、家具も、すべてが圭太との時間を知っていた。
それが今は、ひどく無機質で、よそよそしい。
(……帰ってきても、もういないんだな)
その事実だけが、部屋の中に深く沈んでいた。
ふと、バッグの中にカラオケのクーポンがあることを思い出した。
以前、同僚に誘われて使い損ねたもの。期限は、今日だった。
「……一人で行っても、別にいいよね」
つぶやいて、着替えもせず、そのまま外に出た。
◆
「いらっしゃいませー! おひとり様ですね!」
駅前のカラオケチェーン店は、金曜の夜でにぎわっていた。
けれど、個室に入ってしまえば、外の喧騒はシャットアウトされる。
スマホで入室手続きを済ませて、小さな部屋に通される。
ソファとテーブル、そして液晶画面。
見慣れた光景のはずなのに、なぜか妙に新鮮だった。
(そういえば、一人カラオケなんて……何年ぶりだろう)
圭太と来たこともあった。
けれど今日は、ひとり。
ひとりきりで、何も気を使わずに歌えるのだ。
ドリンクバーから戻り、リモコンで最初の曲を入れた。
選んだのは、大好きなアイドルグループの明るいポップソング。
失恋の夜に似つかわしくはない。でも、悲しいバラードを選ぶと、本当に落ちてしまいそうだった。
曲が始まる。軽快なリズム。スクリーンに映る、笑顔の女の子たち。
「♪恋してる この胸が はちきれそうなまま~」
軽く体を揺らしながら、口ずさむ。
誰にも見られていない安心感。音程がズレても構わない。
マイクを握る手が熱を帯びてくる。
(……楽しいかも)
思った。
何も考えず、ただ声を出して、好きな歌を歌う。
喉から音を出すたび、心の奥にたまっていた何かが、少しずつ外に逃げていく気がした。
続けて、もっと明るい曲を入れる。
学生時代にカラオケでよく歌っていた、アニメソング。
サビで声を張ると、胸がすっとした。
気づけばリズムに乗って、肩が弾み、マイクを両手で抱えていた。
ひとつ、またひとつ。
懐かしい曲、元気な曲、早口のラップに挑戦したりもしてみた。
(……あはは、うまく言えない……!)
笑った。
本当に、自然に、笑っていた。
「こんな日でも……楽しいことって、あるんだな」
思わず漏らした言葉に、自分でも驚いた。
歌っている間だけは、圭太のことも、裏切りも、部署異動も、忘れられていたのだ。
けれど――
ある瞬間、不意に、涙がつっとこぼれた。
頬を伝って、マイクにぽとりと落ちた。
「……え?」
歌っている最中だった。
楽しい曲だった。
なのに、涙が止まらない。
頬を拭っても、次の涙が滲んでくる。
「……どうして?」
自分でも分からなかった。
楽しい。気持ちは確かに高揚していた。
けれど、胸の奥が痛いほど締めつけられていた。
(……わたし、本当は)
気づきたくなかった気持ちが、こぼれ出す。
(……本当は、すごく、悲しいんだ)
気づかないふりをしていた。
明るい歌で、笑顔を引っ張り出して、ごまかしていた。
でも、心は知っていたのだ。
今日、自分の人生が、ガラガラと音を立てて崩れたことを。
圭太と笑い合っていた日々。
一緒に歩いた夜道。
「さつきの手、ちっちゃいな」と笑ったその声。
それらが、もう二度と戻ってこないのだという現実。
「……うそ、でしょ」
泣きながら、また曲を入れた。
泣きながら、笑える曲を選んだ。
「♪幸せってさ 形じゃなくて~」
画面の中の明るい女の子が、楽しげに踊っていた。
それに合わせて、涙を拭いながら、声を出す。
部屋の中には、音楽と、鼻をすする音が混ざっていた。
ひとりきりのカラオケボックス。
そこにあるのは、楽しい音と、悲しい心だった。
だけど、確かに“救い”はあった。
泣きながら歌って、歌いながら泣いて――
少しずつ、ほんの少しずつ、心の芯が温まっていく気がした。
◆
「……2時間です。延長いかがなさいますか?」
スタッフの声に驚いて、時計を見る。もう23時。
さつきは軽く首を振った。
「大丈夫です。……ありがとう」
部屋を出ると、廊下の向こうから誰かの歌声が聞こえた。
笑い声も混じっていた。グループ客だろう。
でも、さつきは、少しだけ強くなったような気がした。
カラオケの出口を出ると、夜風が頬を冷やした。
それが、泣き腫らした目にちょうどよかった。
(……明日から、ちゃんと起きよう)
ふと、そんな思いが浮かんだ。
もう、圭太はいない。
裏切りも、痛みも、現実だ。
でも――
楽しい歌を、涙の中で歌った夜が、さつきにひとつの証を与えてくれた。
「ひとりでも、生きていける」
そう思えたことが、今夜のいちばんの贈り物だった。
やることが――なくなった。
夜の9時を過ぎたばかり。
誕生日の夜だというのに、部屋は暗いまま、ケーキと白ワインだけが無言でテーブルに残されていた。
スマホを手にしても、LINEは無反応だった。
彼からのメッセージはもう来ない。通知音ひとつ鳴らない画面が、ますます孤独を際立たせる。
部屋にいるのが、つらかった。
壁も、天井も、家具も、すべてが圭太との時間を知っていた。
それが今は、ひどく無機質で、よそよそしい。
(……帰ってきても、もういないんだな)
その事実だけが、部屋の中に深く沈んでいた。
ふと、バッグの中にカラオケのクーポンがあることを思い出した。
以前、同僚に誘われて使い損ねたもの。期限は、今日だった。
「……一人で行っても、別にいいよね」
つぶやいて、着替えもせず、そのまま外に出た。
◆
「いらっしゃいませー! おひとり様ですね!」
駅前のカラオケチェーン店は、金曜の夜でにぎわっていた。
けれど、個室に入ってしまえば、外の喧騒はシャットアウトされる。
スマホで入室手続きを済ませて、小さな部屋に通される。
ソファとテーブル、そして液晶画面。
見慣れた光景のはずなのに、なぜか妙に新鮮だった。
(そういえば、一人カラオケなんて……何年ぶりだろう)
圭太と来たこともあった。
けれど今日は、ひとり。
ひとりきりで、何も気を使わずに歌えるのだ。
ドリンクバーから戻り、リモコンで最初の曲を入れた。
選んだのは、大好きなアイドルグループの明るいポップソング。
失恋の夜に似つかわしくはない。でも、悲しいバラードを選ぶと、本当に落ちてしまいそうだった。
曲が始まる。軽快なリズム。スクリーンに映る、笑顔の女の子たち。
「♪恋してる この胸が はちきれそうなまま~」
軽く体を揺らしながら、口ずさむ。
誰にも見られていない安心感。音程がズレても構わない。
マイクを握る手が熱を帯びてくる。
(……楽しいかも)
思った。
何も考えず、ただ声を出して、好きな歌を歌う。
喉から音を出すたび、心の奥にたまっていた何かが、少しずつ外に逃げていく気がした。
続けて、もっと明るい曲を入れる。
学生時代にカラオケでよく歌っていた、アニメソング。
サビで声を張ると、胸がすっとした。
気づけばリズムに乗って、肩が弾み、マイクを両手で抱えていた。
ひとつ、またひとつ。
懐かしい曲、元気な曲、早口のラップに挑戦したりもしてみた。
(……あはは、うまく言えない……!)
笑った。
本当に、自然に、笑っていた。
「こんな日でも……楽しいことって、あるんだな」
思わず漏らした言葉に、自分でも驚いた。
歌っている間だけは、圭太のことも、裏切りも、部署異動も、忘れられていたのだ。
けれど――
ある瞬間、不意に、涙がつっとこぼれた。
頬を伝って、マイクにぽとりと落ちた。
「……え?」
歌っている最中だった。
楽しい曲だった。
なのに、涙が止まらない。
頬を拭っても、次の涙が滲んでくる。
「……どうして?」
自分でも分からなかった。
楽しい。気持ちは確かに高揚していた。
けれど、胸の奥が痛いほど締めつけられていた。
(……わたし、本当は)
気づきたくなかった気持ちが、こぼれ出す。
(……本当は、すごく、悲しいんだ)
気づかないふりをしていた。
明るい歌で、笑顔を引っ張り出して、ごまかしていた。
でも、心は知っていたのだ。
今日、自分の人生が、ガラガラと音を立てて崩れたことを。
圭太と笑い合っていた日々。
一緒に歩いた夜道。
「さつきの手、ちっちゃいな」と笑ったその声。
それらが、もう二度と戻ってこないのだという現実。
「……うそ、でしょ」
泣きながら、また曲を入れた。
泣きながら、笑える曲を選んだ。
「♪幸せってさ 形じゃなくて~」
画面の中の明るい女の子が、楽しげに踊っていた。
それに合わせて、涙を拭いながら、声を出す。
部屋の中には、音楽と、鼻をすする音が混ざっていた。
ひとりきりのカラオケボックス。
そこにあるのは、楽しい音と、悲しい心だった。
だけど、確かに“救い”はあった。
泣きながら歌って、歌いながら泣いて――
少しずつ、ほんの少しずつ、心の芯が温まっていく気がした。
◆
「……2時間です。延長いかがなさいますか?」
スタッフの声に驚いて、時計を見る。もう23時。
さつきは軽く首を振った。
「大丈夫です。……ありがとう」
部屋を出ると、廊下の向こうから誰かの歌声が聞こえた。
笑い声も混じっていた。グループ客だろう。
でも、さつきは、少しだけ強くなったような気がした。
カラオケの出口を出ると、夜風が頬を冷やした。
それが、泣き腫らした目にちょうどよかった。
(……明日から、ちゃんと起きよう)
ふと、そんな思いが浮かんだ。
もう、圭太はいない。
裏切りも、痛みも、現実だ。
でも――
楽しい歌を、涙の中で歌った夜が、さつきにひとつの証を与えてくれた。
「ひとりでも、生きていける」
そう思えたことが、今夜のいちばんの贈り物だった。
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